アジスキタカヒコネが暮らした出雲          「サイトの歩き方」も参照してください。

出雲国風土記にアジスキタカヒコネにまつわる興味深い逸話が伝えられている。それは旧仁多郡「三澤」の郷に関わる記述で、少し長くなりますが、以下に紹介してみます。(註・同記は神名に『根』を付けずに著しています。脱字ではありません)

  大神、大穴持命の御子、阿遅須枳高日子命、御髭八握に生ふるまで、夜晝哭きまして、み辞通はざりき。
  その時、御祖の命、御子を船に乗せて、八十嶋を率て巡りてうらがし給へども、なほ哭き止みまさざりき。
  大神、夢に願ぎ給ひしく「御子の哭く由を告らせ」と夢に願ぎませば、その夜、御子み辞通ふと夢見ましき。則ち、寤めて問ひ給へば、
  その時「御澤(みさわ)」と申したまひき。その時「何處を然いふ」と問い給へば、やがて、御祖の前を立ち去り出でまして、石川を渡り、
  坂の上に至り留まり「是處ぞ」と申したまひき。その時、その澤の水活れ出でて、御身沐浴みましき。

これに類似した伝承は旧神門郡「高岸の郷」にも有り、そこでは『天の下造らしし大神の御子、阿遅須枳高日子命、いたく夜晝哭きましき。よりて、そこに高屋を造りて、坐せて、すなはち、高橋を建てて、登り降らせて、養し奉りき。故、高崖といふ』と記載されています。古事記は「オオクニヌシの神裔」段の冒頭で『この大国主神、宗像の奥津宮に坐す神、多紀理毘売命を娶して生める子は、阿遅鉏高日子根神。次に妹、高比売命、またの名は下照比売命。この阿遅鉏高日子根神は、今、迦毛大御神と謂ふぞ』とアマテラスと同格の大御神の敬称を付して紹介していますが、記紀神話の世界観においてアジスキタカヒコネは、あくまでも天孫族に「国」を譲り渡した側の一員という位置づけが行われています。ただ、不思議なのはオオクニヌシの「国譲り」という一族の存亡が掛かった一大事の場面に、この神様は何故か登場していないのです。単純に考えれば「国譲り」が行われたと記紀が主張している場面に、偶々この神様が立ち会っていなかったと見る事も出来ますが、高天原がオオクニヌシとの交渉役として送り出した天若日子と義理の兄弟(妹・高比売命の婿)でもあり、大変親しい間柄であったアジスキタカヒコネが義弟の葬儀には出席していながら、肝心の国同士の重大事には全く関与しないというのも極めて不自然な話しです。

ただし、是も「国譲り」が出雲の地において「一回限り」行われたと云う天孫側の描いた「設定」を容認した上での推測ですから、神々の系譜を比較検討しオノコロ・シリーズ独自の『瓊・玉・渟理論』などによる世代考証を参考にした上で「大和での国譲り」が二世紀末近くの時点で行われたと想定するなら、天孫の直系である神武天皇に相対したのはアジスキタカヒコネの孫の世代である事代主命(玉櫛入彦)たちであったはずなので、古事記や出雲国造神賀詞が伝える様な「征服」劇が展開された結果、倭大物主櫛甕玉命・阿遅須伎高孫根命・事代主命・賀夜奈流美命の四柱が、大倭国を統べる皇孫の「近き守神」になったとする一連の筋書きは七~八世紀の記紀編集者たちによって入念に構築されたと言えそうです、それはさておき…。

高鴨神社  神代神社(神社巡拝記)

一方、出雲国風土記は旧楯縫郡・神名樋山の項で、

  古老の伝えていへらく、阿遅須枳高日子命の后、天御梶日女命(アメノミカジヒメ)、多久の村に来まして、
  多伎都比古命を産み給ひき。その時、教し詔りたまひしく「汝が命の御祖の向壮に生まんと欲ほすに、
  ここぞ宜き」とのりたまひき。いはゆる石神は則ち是、多伎都比古命の御託(みよさし=霊代)なり。

と妻神子神の出生にまつわる逸話を伝え、神門郡の鹽冶の郷にも「阿遅須枳高日子命の御子、鹽冶毘古能命(ヤムヤヒコ)」の存在を記す文言があり、出雲西部の各地がアジスキタカヒコネの主生活圏であった様子が実感できます。さて、泣き虫の神様と言えば直ぐにスサノオを思い浮かべる方も多い事でしょう。また大人に成っても「言葉を話さない」という点に注目するとホムツワケの白鳥伝説に通じる一面があります。ただ垂仁天皇の皇子ホムツワケの伝承と大きく異なるのは「神の祟り」云々の要素が物語に含まれていない処で、それだけ素朴な逸話という性質から、より古い形態の神話なのだろうと考えられます。

昭和58年(1983)出雲市斐川町神庭で荒神谷遺跡が見つかり、その地から358本もの銅剣が一挙に姿を現し古代史ファンの耳目を一身に集めましたが、それから十余年平成8年(1996)に僅か3.5㎞ほど南方に離れた加茂町岩倉の丘から39個もの銅鐸が一か所から発見され、考古学会は大興奮の嵐に見舞われたものです。かつては「出雲に独自の文化圏」など無く、従って弥生時代に強い勢力を持った集団は存在していなかったとする見方が支配的だったのですが、圧倒的な埋蔵物の発掘に支えられ大きく考え方も修正されてきたようです。二つの遺跡の銅鐸には「×」印が刻印されており、埋納した者たちの繋がりを強く印象付けていますが、上述のホムツワケ伝説を日本書紀は鳥取造の手柄話として垂仁紀二十三年条に記録しており、同氏は「新撰姓氏録」で次の様に紹介されています。

  垂仁天皇皇子誉津別命 歳向三十不言語 于時見飛鵠 問曰此何物 爰天皇悦之 遣天湯河桁尋求 詣出雲国宇夜江 補貢之 天皇大嘉即賜姓鳥取連

ここに「宇夜江」とありますが出雲国風土記には「宇夜の里」について次のように記されています。

  先に宇夜の里と号けし所以は、宇夜都辨命、その山の峯に天降りましき。すなはち、彼の神の社、今に至るまでなほ此処に坐す。

この里名は「纏向の檜代の宮に御宇しめしし天皇(景行天皇)」が『朕が御子、倭健命の御名を忘れじ』と勅し後に「健部の里」と改められたのですが、宇夜都辨命を祀る神代神社は現在も宇屋谷の地に鎮座しています。そして銅鐸・銅剣・銅矛が全て揃って出土した斐川町神庭谷と宇屋谷は隣接しており、正に指呼の間に在ると言えるのです。古事記は垂仁天皇の皇子が「出雲の大神」の御心による祟りによって言葉を封じ込められていたと明言しています。そのため天皇は、皇子を大神を「拝む」ため出雲に遣わすのですが、その折介添えとして選ばれた者が曙立王、菟上王の兄弟でした。彼らは彦坐王と荏名津姫(亦名・苅幡戸邊、山背国造の娘)の間に生まれた大俣王の子で、遠く天津彦根命の血筋を引く人物であり、出雲国造とも同族の関係にある、血縁と祭祀能力を十二分に考慮した人選であった事は、別のページで詳述してきましたが、アジスキタカヒコネの妹婿天若日子が天津彦根命の又の名であるとするなら、甥に当たる天目一箇命の家系を通じて「神宝(銅鐸、銅剣など)」の埋納場所が密かに口伝として引き継がれていたのかも知れません。

あくまでも推測の域を出ませんが、西暦二世紀前半を生き出雲国の産業振興に寄与したであろうアジスキタカヒコネは、大和の地を知ることなく同国で終焉を迎えたとするなら、今、出雲大社の主祭神となっている「オオクニヌシ」の神格を構成する重要な存在として、古代の人々の尊崇を集めていたに違いありません。だからこそ二つの遺跡に彼を象徴する宝物が丁寧に埋納されているのだと思います。

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