天照御魂神について「」を鍵に再び考える                    「サイトの歩き方」も参照してください。

縁結びの有難いご利益があることで有名な出雲大社からほぼ南の方角、杉木立が並ぶ車一台がやっと通れる林道を、山間深く分け入った佐田町に須佐神社が鎮まっています。オオクニヌシで知られる「大社さん」には何度も足を運び境内の隅々まで見て回った経験がありますが、この社を訪れたのはたった一度きり、それも駆け足の旅だったこともあり、宮司さんとの話もそこそこに帰り道を急いだ思い出が残っています。ただ、本殿と参道を挟み真正面に向かい合って建てられていた粗末な社の名称が「天照社」だったことは妙に脳裏の片隅に焼き付いていました。年に一度、須佐社の祭神であるスサノオが「姉」アマテラスの宮にご機嫌伺に詣でるのだと案内文では説明されています。筆者の神様系譜調べも、元はと言えば難解な、そして複雑怪奇な大国主命の「神裔」と滋賀近江の御上神社社家(三上祝)の系譜に、全く同じ名前の神々が居る「謎」を解明しようと思い立ったと言って良いのですが、既に取り組み始めてから十年余りの歳月が流れたにもかかわらず、今だ確かな答えを得られていません。それはさておき、今回は「天照」の名称と神様の「名前」に含まれる言葉を手掛かりに、推理を進めたいと思います。

物部氏の伝承を元に編まれた『先代旧事本紀』によれば、始祖ニギハヤヒは「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」が正式の尊称で、その父親は天忍穂耳尊であり天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とは実の兄弟の間柄だと云う主張を展開しています。また日本書紀は塩筒老翁から『東の方に美き地あり。青山四周れり。その中にまた、天磐船に乗りて飛び降る者有り』と聞いた神武天皇が『その飛び降るという者は、これ饒速日と謂うか』と応えているので、彼が「先に」大和入りを果たしていたニギハヤヒの情報を得ていたことも明らかです。そして即位前紀には神武の軍勢に立ち向かった長髄彦が使者を介して、

  昔、天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。號けて櫛玉饒速日命ともうす。

とも明言していますから、ニギハヤヒに大和の旧勢力から奉られた尊称が「櫛玉(クシタマ)」であったことは確かなように思われます。ただし古事記は、神武の皇后選定段の前章でニギハヤヒの登場を簡潔に記し、彼が『天つ神の御子、天降りましつと聞けり。故、追いて(後を追って)参降りつ』と言って「天津瑞(あまつしるし)」を奉ったと述べ、ニギハヤヒが登美毘古の妹・登美屋毘売を娶って産んだ子が物部連、穂積臣、婇臣らの祖・宇摩志真遅命(ウマシマチ)であるとだけ記録し、書記の詳細な表現とはかなりの温度差を感じさせる内容となっています。

須佐神社  天照社  播磨風土記

北島宿禰系図  難波田使首系図 

およそ豪族たちの系譜作りの目的の一つに、帝室との「深い縁・つながり=正当性」を内外に強調できる利点があったと思われますが、書紀も即位前紀戌午年十二月四日条の中で「櫛玉饒速日命は物部氏の遠祖なり」とは書いているものの、天火明命との「親子」関係については記紀ともに一切触れられてはいません。国史編纂事業が進められていた七世紀末の時点において「天忍穂耳尊と萬幡豊秋津師比売命との間に生まれた二人の皇子」のうちの一人が天火明命だとする伝承が存在していたことだけは確かな様ですが、書紀が尾張連らの遠祖と明記した天照国照彦天火明命と、物部氏の遠祖であるニギハヤヒを『先代旧事本紀』が敢えて「同神」としたのは、後世の朝廷内実力者たちの勝手な「都合」による処が大だったと言えそうです。つまり筆者の考えではホアカリの名を持つ天孫族の伝説的な人物が居た可能性は否定できないものの、それが磐船に乗り神武たちに先駆けて大和に天降ったニギハヤヒと同一人であるとは認められません。世代的に見てもニニギノミコトは神武の祖父乃至は曽祖父にあたる人ですから、卑弥呼以上の長寿を全うしても両者が相まみえることは相当困難だったことでしょう。若し土地に伝わる風聞の中に、歴史の隠された事実の欠片があるかも知れないとするなら「播磨風土記」が記した大汝命(オオナムチ=大国主命)の子・火明命の文言に注目すべきでしょう。飾磨郡伊和の里条に見えるオオナムチを、古代出雲で活躍した天孫族のオオクニヌシの実体、天津彦根命・天目一箇命(天御影命)親子だと仮定すれば、その子供に物部氏の祖神が生まれたとしても不思議ではありません(但し、その場合でも火明命はニギハヤヒの転訛とみるべきでしょう)。

さて、その大穴牟遅神の和魂(にぎたま)であるとされる大和三輪山の主祭神・大物主命の正式尊称を倭大物主櫛甕魂命といい、出雲神話では大国主命の子供の地位を与えられて国譲りの場面でとても大切な役割を演じた事代主命は、神功皇后前紀において天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神とも呼ばれています。この二柱はワニに姿を変えて摂津三島の溝咋姫(またの名、玉櫛姫。父親は三島溝咋耳神=陶津耳神=少彦名神)の許に通い媛踏鞴五十鈴媛命を生んだといいう有名な神話の当事者で、いずれも尊称に「櫛」の一字を含み、貴種であることに変わりはありませんが、大物主の呼称に含まれる「甕=みか」は水や海の象徴でもあるので、本来は海人たちが祀る神様の性格を持っていると考えられます。事代主命が一名「玉櫛入彦」と呼ばれるのは、彼が三島の陶津耳神の「入り婿」だったことを伝えているのかも知れません。

中島氏家系  東国諸国造系譜  亀井家系図

一方、出雲国造家の分家とも云うべき北島家(出雲宿禰)の系図を見ると、

  天穂日命ーー武夷鳥命(又、天夷鳥命)ーー伊佐我命(櫛瓊命)ーー津狭命ーー櫛甕前命ーー櫛月命ーー櫛甕鳥海命ーー櫛田命

の通り「櫛」を含む名称を持つ祖神がずらりと並び、三代目の伊佐我命は「櫛瓊=櫛玉」の別名を持っていたことが分かります、また、葛城氏のページなどで紹介してきた古代氏族「難波田使首」の系図には、

  高魂命ーー伊久魂命(註・天活玉命=天照大神)ーー天押立命(又名、神櫛玉命)ーー陶津耳命ーー玉依彦命ーー生玉兄日子命

の神名が綴られ、陶津耳命の父親にあたる天津彦根命の別名が「天押立命」であったことも分かります。さらに、その陶津耳命(少彦名神)の後裔で、氏族名としては「鴨縣主」で知られる山城国の中島氏家系でも、

  高魂命ーー伊久魂命ーー天押立命(又名、神櫛玉命)ーー陶津耳命(陶荒田神社)ーー玉依彦命ーー剣根命(葛城国造)ーー夜麻都俾命

と同様の尊称が伝わっていることから「櫛玉」が本来はアマテラスの息子の一人であった天津彦根命に捧げられた由緒あるものだと判断できます。従って、ニギハヤヒに冠された「櫛玉」の二文字も当然、彼が天津彦根命の家系に属している事実を示したものだと考えられ「天照国照」の称号も、記紀などが云う「女神」としてのアマテラス神ではなく、ニギハヤヒたち天孫族の祖霊を表わした文言ではないかと思われます。その傍証として物部一族の亀井氏(穂積臣)が伝える系図には、明らかにアマテラスではない「天照御魂太神」が天忍穂耳尊の父親として名前が記されている事実があげられるでしょう。なお「東国諸国造系譜(伊勢津彦之裔)」では伊佐我命を伊勢津彦命と同神とし、その又名を櫛八玉命と伝えていますが、関東に早くから進出した物部氏族である氷川神社の神職・西角井氏の系譜には「伊佐我命(一名、櫛八玉命)の兄弟」を「出雲建子(櫛玉命)」とする記事があり、出雲国造の祖をニギハヤヒと同人とするよりも、むしろその近しい縁者(兄弟か子供)と考えるのが穏当なように思えます。ただ、一つだけ気がかりなのが先代旧事本紀が云う「宇摩志麻治命が生まれる前に饒速日尊が亡くなった」(天神本紀)という趣旨の記述で、ニギハヤヒの実像調べには尚考えるべき余地が残されていると言えます。

 TOP  
   
 人気のページ   オオクニヌシは居なかった   石川五右衛門の仲間たち   お地蔵様の正体をさぐる   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   邪馬台国の卑弥呼