天津羽羽神と忌部氏と系図について       「サイトの歩き方」も参照してください。

「釈日本紀」(卜部兼方編)が引用した土佐国風土記には次のような記述がありました。

  土佐の国の風土記に曰はく、土佐の郡、朝倉の郷あり。郷の中に社あり。
  神のみ名は天津羽羽の神なり。天石帆別の神、天石門別の神のみ子なり。

これは延喜式神名帳に記載のある式内社、朝倉神社を紹介した記事であると見られ、現在でも高知市朝倉の地に同社が鎮座しています。江戸期の国学者、平田篤胤(1776~1843)は『神代系図』の中でこの天津羽羽神を天八重事代主神の后神であるとしていますが、この系図では同神は天背男命の子であり天日鷲命の妹に中ると記されており、天背男命の亦名が天石門別神で、天手力男命とも同神だと書かれています。更に、下の画像を見てもらえば分かるように、天津羽羽神の「姉妹」として許登能麻遅比売命(コトノマチヒメ)の名前が上がっており、その註文には「興台産霊命(コゴトムスビ)の后神なり」とあります。この二柱は勿論天児屋根命の両親ですから、この系図が作成された折、参考にされた物が中臣氏所縁の史料だったと推測されます。また、天児屋根命の児である天村雲命(天牟羅雲命)が天鈴鉾命の「孫」としても上げられていますから、篤胤は天孫族の天日鷲命を始祖とする後裔氏族と、中臣氏を全くの同族と看做していた事も明らかです。更に系図には天牟羅雲命が伊勢朝臣、額田部宿禰、渡会神主の「祖」とも記述してあることから、渡会氏などに伝えられた神統譜の類も参照された可能性があると思われます(「古事記」が天津日子根命の裔と伝えた額田部氏がここに加えられた理由は不明ですが「新撰姓氏録」は額田部宿禰を『明日名門命三世の孫、天村雲命の後なり』と採録していますから、これに依ったのかも知れません)。

スサノオ神の別名と考えられる角凝魂命と少彦名神(天日鷲命)を同世代の兄弟神とするなど、神々の「世代」的つながりを度外視したかのような平田の系図をそのまま受容する訳には行きませんが、実は彼の「神代系図」作成に影響を与えたのではないかと思われる系図が他にも存在しています。それは古代史に関心のある方なら良く知られた忌部氏に関わるものです。

神代系図 本系帳

それは『斎部宿禰本系帳』と呼ばれるもので「神魂命ーー角己利命(一云角凝魂命)ーー天底立命(一云天壁立命)ーー五十狭布魂命ーー伊加志保魂命(一云火雷命)ーー天背男命ーー天日鷲翔矢命」とつないで、天背男命の亦の名を「天石門別命、明日名門命」と記し后神は「八倉比売命」と注記しています。また「天児屋命の母、許登能麻遅命」と「八重事代主神の后神、天津羽羽命」が天日鷲翔矢命と同様に天背男命の児神であり、天津羽羽命には「天御梶比女命」の別名があるとも書かれています。この系図も天児屋命の「母」許登能麻遅命と「后神」天萬𣑥幡千幡比売命を同じ世代に置くなど一見して意図的な造作を感じさせる内容になっていますが、斎部氏の主張を反映した著述とされる『古語拾遺』(大同二年、斎部広成)には、同氏の祖は「天太玉命」であり、天日鷲命などの諸神を率いたとあるので「天背男命と天太玉命は同神」と看做すのが当然だと思うのですが、本系帳は別の意図の下に作成された趣きが強く感じられます。特に中臣氏の母系が天背男命の系統に属するものであり、忌部氏は中臣氏と同格以上の貴い血脈を受け継ぐ家柄なのだという意識が如実に見て取れます(註・オノコロ共和国では天背男命は天津彦根命の別名と捉え、かつ天日鷲翔矢命も少名彦命と同神と見ていますから、天萬𣑥幡千幡比売命をその姉妹だとする系譜は受け入れられません)。

祭祀に関わる中臣氏との「闘争」に全力を傾けていた忌部氏の重鎮斎部広成が、九世紀の初め頃において『高皇産霊命の娘である𣑥幡千々比売命は大伴氏の始祖天忍日命を生み、斎部氏の始祖天太命を生み』天太玉命が阿波忌部氏の始祖天日鷲命などの諸神を「率いた」と公に提出する文書で明示したのは相当の覚悟を必要としたでしょう。既に四半世紀の歳月が経過したとは言え、宮廷内から藤原種継暗殺事件(785年)の記憶が一掃されたはずはありません。首謀者と断定され官位を剥奪されていた大伴家持(718~785)が天皇の赦免により復位されたのは延暦二十五年(806)であり『古語拾遺』上表の前年の出来事だったのです。記紀の編纂からほぼ一世紀、律令制度のもとで宮使えをする貴族たちにとって「神話」の世界は遠い日の夢物語に近いものになりつつあったのかも知れませんが、それでも尚「天孫降臨」の当事者であった天皇や中臣氏の後裔は、ニニギノミコトの后神が他家の祖となる「児」を産んでいたとする記述は到底看過できるものではなかったはずなのです、それはさておき。

肝心の天津羽羽命の話に戻ります。天岩屋にアマテラスが「隠れた」折、諸神が集まり様々な対応策を講じますが、書紀第三の一書には『粟国の忌部の遠祖、天日鷲が作れる木綿を懸でて、則ち忌部首の遠祖、太玉命をして執り取たしめて』とあり、祭祀に不可欠な「木綿=ゆふ」を𣑥から調整していた事があきらかですから、この女神の別名が天御梶比女命であるなら、それは「𣑥=かじの木」の「かじ」から付けられた名称ではないのかと考えるようになりました。勿論、三輪の神様の「后神」なのですから「ハハ=蛇」という説も捨てがたいのですが…。なお二つの系図はいずれも同神を八重事代主命の妻だとしていますが、出雲国風土記には『古老の伝えて言へらく、阿遅須枳高日子命の后、天御梶日女命、多久の村に来まして、多伎都比古命を産み給ひき』(楯縫郡)の伝承があります。阿遅須伎高日子根命は、良く知られた天若日子(天津彦根命)と義理の兄弟にあたる神様で、系図中の名称で言えば天背男命と同じ世代の存在ですから、ここでも系譜上の混乱が見られます。天日鷲命の「妹」とする点だけに限って考えれば、三輪山伝説で知られる大物主命が尤も相応しい相手にも思えますが断定はしないでおきます。

歴史を紐解く者にとって系図は過去からの得難い贈り物である事に間違いはないのですが、いつもいつも正しい情報だけを得られるものでもありません。何らかの意図を以て「造られた」偽りの系譜が持つ危うさが、常に潜んでいることを忘れてはならないと思います。

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