天狭霧神と先代旧事本紀天津彦根命                                 「サイトの歩き方」も参照してください。

歴史関連の記述で頻繁に引用される「先代旧事本紀」という書物は、九世紀初めから十世紀初め頃の間に、物部氏に所縁の深い人たちが編纂したものではないかと考えられていますが、その冒頭近くにとても不思議な名称を冠した一柱の神様が登場します。それが「天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊」という長い名前の持ち主なのですが、同書はこの神様を「天祖」つまり物部氏を含めた多くの氏族の原点であると宣言しているのです。一見して分かるのは、同書が始原神だと主張しているにもかかわらず、この神様には『世界を創造した』偉大な存在であるといった美称に相当する詞が全く含まれておらず、それとは真反対に「天譲」「国禅」という二つの文言により、折角拵え上げた天上界も地上界も全て「禅譲した=譲り渡した」神様なのだと公言しているかのように思えてしまいます。(註:禅譲とは、本来、天子が位を譲ることを意味します)

古代史に少しでも親しんできた読者の方なら、この神名を見ただけで直ぐに「国譲り」の神話を思い起こされたことと思いますが、記紀の間で描写が微妙に異なるとは言え、九州から東上してきた神武天皇に対し、既に大和地方での支持基盤を確かなものとしていたニギハヤヒが、神武帝に敵対した自らの舅(ナガスネヒコ)を排除してまで「国」を譲った話は、皇孫一族が葦原中国の正統な支配者であるとするアマテラス論理の大元を支える逸話として喧伝されたものです。また、アマテラスの「弟」に位置付けられた素戔嗚(スサノオ)の子孫である出雲の大国主命(オオクニヌシ)が、兄弟である少彦名命更には大和の大物主命らと協力しあって作り上げた「国(葦原中国)」を天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲り渡した神話(天孫降臨)も良く知られています。その様な神話群の背景には、弥生時代を通して実際に倭国内各地で進められた諸勢力の間での合従連合や対立懐柔、そして支配権の確立といった様々な出来事が横たわっているのだと想像できるでしょう。ところで物部氏の祖先もまた天孫一族に属する有力者たちの一員だったと考えられているのですが「天祖」と称えられた神様に関する一つの手掛かりが、江戸時代に出版された書物の中から見つかりました。その文書を紹介する前に、古事記が記したオオクニヌシの後裔段の一部を先ず、紹介しておきます。

  「古事記」より     「先代旧事本紀」より    

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大国主神(オオクニヌシ)はスサノオの娘・須勢理姫命(嫡后)を始め多くの姫神と結ばれて沢山の子宝に恵まれました。阿遅鉏高日子根神(加毛大神)、事代主神などが良く知られた彼の子神たちの代表格ですが、八島牟遅能神の娘で鳥耳神(or鳥取神)という女神との間に生れた子供の子孫が次のように続いたと記が伝えています。

  鳥耳命--鳥鳴海神--国忍富神--速甕之多気佐波夜遅奴美神-(中略)-布忍富鳥鳴海神--天日腹大科度美神

そして最後に記した天日腹大科度美神という神様が「天狭霧神の女・遠津待根神」を娶って生んだ子供が遠津山岬多良斯神であると文章は締めくくられているのです。物部氏の歴史を語る書物に在る祖先神の名前に含まれている「天狭霧、国狭霧」との類似性は明らかですが、上に列記したオオクニヌシ後裔の神々の名称に、物部氏同族の三上祝家の祖先神の名前(鳥鳴海神と国忍富神)が二柱も重複している点から推測して「天狭霧神」は恐らく出雲と縁が深い天津彦根命と極近い存在ではないかと思えてなりません、それはさておき。新たに見つかった資料に話を戻しましょう。天保四年(1833)渡辺昇という人物が編んだ『出雲神社巡拝記』は、旧出雲国に存在していた三百九十九社の社地、社名、神号、由来、神徳そして神社間の距離などを詳しく記したパワー・スポット巡りの案内本で、島根半島東端の島根郡を起点として--秋鹿--楯縫--出雲--神門--飯石--仁多--大原--能義と反時計回りに進んで、再び東部の意宇郡に至る構成となっています。そして今回紹介したい社は仁多郡内に鎮座する小社なのです。

「出雲神社巡拝記」  布施の郷

仁多米は近年その味の良さで知名度が上がっているようですが、髪期里の社(仰支期里社)が建てられている仁多の八代は、県内でも最も内陸部の地域に属す位置にあり、出雲風土記では「布施の郷」の名称で記されています(上右の画像参照)。隣接する「三澤の郷」には大穴持命の子・阿遅須枳高日子命が『御鬚、八握に生えるまで、夜昼哭いてばかりいて、言葉を発することがなかった』という伝承が存在していることから、垂仁天皇皇子のホムツワケの逸話を彷彿させ、両者の間に何らかの繋がりが有った可能性を窺わせます。また、旧仁多郡では最も東側を占める「横田の郷」を含め四つの郷の全てで「鐡(まがね)」を産出しており、その鐡は「堅くして、最も草草の具を造るに堪える」品質を備えていたようです。出雲国内では西部の飯石郡波多郷付近でも「鐡」を産し、そこに波多津美命(天津彦根命の別名)が天降ったと伝えられていますから、出雲の各地では古くから製鉄が盛んに行われていたのでしょう。さて、巡拝記は上の画像でも分かるように「髪切大明神」の祭神は「あめのさぎりの命」だと明言しています。筆者は、①天孫系に属し、②物部氏とも近く、③製鉄に深く関わり、④古代出雲の地に天降って、繁栄した氏族の原点と言えば、それはスサノオの後裔である天津彦根命(と子供たち=天目一箇命・少彦名命)以外には有り得ないと確信しているのですが、読者の皆さんはどのように判断されるでしょう。

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