安閑天皇と蘇我氏そして石川                                             サイトの歩き方」も参照してください。

大織冠・中臣鎌足(藤原鎌足,614〜669)の墳墓ではないかと想定されている阿武山古墳(高槻市大字奈佐原)の真東ほぼ4.3kmの場所に一つの社がある。社伝によれば、天智五年(666)藤原鎌足が自ら勧請した、大変由緒の或るお社らしいのだが、先日、気さくで人懐っこい宮司さんから興味深い「お話し」を色々と聞かせてもらった。以下は、その概要なのですが、若し、間違っている部分があったなら、それは管理人が聞きそこなったもの、或いは理解不足のなせる業としてご容赦願います。

  この磐手杜神社は、もともと安満神社と称していた
  祭神は武甕槌命、天児屋根命、斎主神、姫大神などであるが、これは、
  藤原氏との結びつきが強かったことを窺わせる。
  その証しに当社の紋は鎌足と同じ「昇り藤」であって奈良の春日社とは違っている云々。

大阪高槻市は、その昔「摂津三嶋」と呼ばれていた地域に属しますが、この「三嶋(みしま)」という呼称についても宮司さんは『大昔、淀川の上流を目指していた神々には、茨木の阿武山と高槻の安満山、そして有名な山崎の天王山の三山が、それぞれ大海に浮かぶ三つの嶋の姿に見えたから』三嶋と名づけられたのだと、さも、昨日の出来事のように語ってくれたのですが、それよりもずっと面白い、つまり興味を掻き立てられる言い伝えも教えてくれました。

阿武山古墳の碑   磐手杜神社   年足社

明治38年(1905)8月、日露戦争がやっとのことで「終結」し、国の指導層はこぞって安堵の胸を撫で下ろしたのですが、自国の実力と内情を知らない(知らされていない)多くの国民は、政府の戦後処理に不満をつのらせ、それがひいては国情不安にもつながりかねない様相を呈していました。翌39年12月、時の内務省が発した『神社合祀令(一町村一社令)』の名目が何であったにせよ、政府の目論見がどの辺りにあったのか、今となっては至極、明らかです。

「記紀神話や延喜式神名帳に名の挙がっている」もの以外の(つまり素性の怪しい、見方によっては地域に密着した)「神々を排滅」し、人々の神社への関心と尊崇の念を向上するため、といったお題目とは裏腹に、地方の官吏や一部神官をも巻き込んだ流れの中で「私利私欲」のために潰された社も決して少なくなかったのです。つまり廃社となれば神社境内などに生えている樹齢数百年といった木々は勿論、社の建っている土地そのものも「売却」して利益を得ることが出来るわけで、なんと伊勢神宮のお膝元である三重県では、僅か数年の間に5,547社あったものが942社にまで激減したと記録されています。この他、和歌山や愛媛でも同様の事が行われ、全国でなんと70,000社(全体の3割強)の神々が棲家を無くしたのです。(大阪府の神社史によれば、三島郡だけで68の社が廃されています)これを見た博物学・民族学の大家・南方熊楠(みなかた・くまぐす,1867〜1941)が、

  史蹟古伝を亡ぼし、学術上貴重の天然紀念物を滅却するもの

として猛烈な反対運動を繰り広げたことは夙に知られていますが、一学者の「運動」に限界があったことは言うまでもありません。磐手杜から西へ300メートル「別所」と呼ばれる小高い丘の上に鎮座していた雲峯神社(くものみね神社)が廃され、明治43年に磐手杜に合祀されたのも、この「一町村一社運動」の流れに沿ったものでしたが、地元の氏子たちの努力で社の一部と鳥居が移築されたのは不幸中の幸いだったと言えるでしょう。そして宮司は、別所の住民が雲峯の祭神「安閑天皇」を雷神として崇めていたことも語ってくれました。(下・右の画像は磐手杜神社の案内板)

 雲峯社跡  鎌足の廟  PR

大阪高槻を含む三嶋の地は淀川沿いに在って早くから開けた土地柄であったことが考古学上からも証明されていますが、中でも磐手杜(安満)神社の南一帯(現在、京都大学の農園がある辺り)に広がる「安満(あま)」は『三嶋の中で最初に米作りが行われた』環濠集落(1.5km×0.6km)遺跡が出土した場所にあたり、古代の条里制の元では「濃見郷(のみのさと)」に属していたと考えられます。その、三嶋で最も早くに「米作り」が行われた(つまり最も先進的な文化を誇っていた豊かな)地域を眼下に見下ろす「別所」の丘に、何故「雷」神として安閑天皇が祀られたのでしょう。雷神であれば、三嶋とも縁の深い、そして歴史の古い神様が他にもおられます。上賀茂の賀茂別雷神などを筆頭とした鴨系の神々などは、十分、高槻に祀られる神としての性格を備えていますし、現に、三嶋鴨神社が淀川沿いに建てられているのですから…。この素朴な疑問を先の宮司さんにぶつけてみた時、思いがけない答えが返ってきました。『神様をどなたにするのかは集落住民が決めることだから、何故、安閑さんが雷神になったのかは知りようも無いな』−−つまり、古代の民の「意思」に沿ったまでだ、と言うわけです(通常、雷神あるいは落雷は『神の怒り・怒る神・祟る神』の象徴とされます)。ただ、「鎌足」の墓、継体帝の「陵墓」そして石川年足の墓をシリーズで取り上げてきた管理人には、別様な感想があります。では次に、その「妄想」の中味を列記してみましょう。

  少なくとも4世紀初頭までには淀川沿いの各地に実力者集団が次々と形成されたが、
  (高槻に最も古い弁天山古墳群が造られたのは、凡そ3世紀後半〜3世紀末と見られている)
  三嶋地区も例外ではなく、西から安威川、女瀬川、芥川、桧尾川などの流域に豪族が割拠し、
  それぞれが広域有力氏族(物部、大伴など)などを核として集散離合を重ねた。(代表格が三島県主)
  大王家が後嗣問題でゆれる中、淀川両岸に勢力圏を持っていた部族連合は、ヤマトの意向を半ば無視して、
  「継体」大王を擁立、その子「安閑」と「宣化」の系統を維持しようとしたが、ここでヤマト側の反撃に遭い、
  大王家を「継承」したはずの「安閑」一族が、様々な陰謀により「悪者」家臣(蘇我氏)の地位に貶められる。
  (継体一族の間でも、後に宣化系の丹治比氏は『反蘇我氏陣営』の中でも生き延びているので、継体一族の間に
  楔を打ち込んだ「策略」があったと想像される。この様子は記紀の蘇我氏批判記事にも通じる部分が多い)
  この間に台頭した鎌足を支えたのも三嶋連合で、その見返りとして三嶋の長は「県主」の権力と、
  初代「天皇」の外戚という「名誉ある地位」を記紀神話の中で与えられた。一方、継体と安閑を支え続けた、
  古い世代の族長たち(物部、大伴)は、いずれも何らかの「咎め」を押し付けられた上で没落を余儀なくされた。
  蘇我氏と朝廷との対立、という一見明瞭な「構図」の背後に隠されたものは何だったのか?
  渡来系とされる秦氏を筆頭とした技術者集団が果たした役割も見逃せない。

かつて管理人は、元明上皇の内臣で首皇子(聖武天皇)の後見人であった藤原房前(ふじわら・ふささき,681〜737)たちと同世代を生きた石川年足(いしかわ・としたり,688〜762)の墓が、藤原氏の勢力圏であった三嶋の真上(まかみ、当初は白髪郷)に造営された事に関して、蘇我氏一族の内部で深刻な内部分裂が生じ、その結果「親藤原派」が鎌足たちと何らかの「取引」をした結果、その地を与えられたのではと推測していたのですが、継体帝の子・安閑の子孫が蘇我氏そのものであると考える様になった今、その推理も見直す必要があるようです。「蘇我氏(宗我=我は宗なり)」の本宗を滅亡させた藤原氏が、石川氏の動向に無関心であったはずもなく、優秀で人望のある年足を永年、神祇伯の立場に置いて「俗事」に交わらせなかったのも藤原一族の配慮であったのかも知れません。そして彼が都の私邸で亡くなった時、その墓を三嶋の地に設営するよう命じたのも藤原氏であったに違いありません。その時、石川家に差し遣わされた使者が誰であったのか、もう知りようもありませんが、若しも前世紀に繰り広げられた抗争の真実を知り得る立場の人間であったとしたら、

  この様な事は決して公言できませんが、この度、年足様を埋葬する摂津三嶋の白髪郷という所は
  継体大王さま一族の陵墓に近い土地柄ですので、石川家とは格別の縁がございます。
  また安閑大王さまを祀る社も指呼の先にあり、見晴らしの宜しい場所でもあります。

などとお追従を述べたかも知れません。(「続日本紀」は時の天皇が弔問の使いとして送り出した人物が摂津大夫の佐伯宿禰今毛人と中務大輔の大伴宿禰家持[おおとも・やかもち]であったと伝えています)しかし、

  夜台、荒寂松柏舎含煙、嗚呼哀哉

と言う墓誌の結語には『子孫も訪れることのない寒村の地に死んだ後も追いやられた』年足一族のやるせない悲しみが込められている様に感じられてなりません。その証拠に、江戸時代末期になって山の持ち主が畑として利用しようと開墾に着手するまで、年足の墓が在る事さえ忘れ去られ「たまたま」墓誌が見つかっていなければ、今日現在でも、真上の丘に蘇我氏直系の人物が葬られていた事実が明るみに出ることさえ無かったのです(年足の墓誌が「発見」されたのは文政三年三月のことで、彼の没後、実に1,000年以上封印されていたことになります)。西の阿武山山頂に眠る大織冠の強い意志は東の安満神社建立によって更に増幅され、三嶋の中核・真上郷(本来は白髪郷)の一角に継体大王と安閑大王の血を引き継ぐ「宗我」家の棟梁を、文字通り封じ込め同家一族が永遠に政治の表舞台に浮上しないよう監視をし続けたのに間違いありません。(単なる「偶然」のなせる業なのかも知れませんが、茨木市にある大織冠神社、高槻で最古とされる前方後円墳の弁天山古墳そして石川年足の墓所は、東西一直線上に配置されています)

野見神社の案内板

 少し見難いかも知れませんが、左に掲げてある地図様の画像は高槻市史編纂委員会が昭和52年に発行した『高槻市史』第1巻に添付されている「高槻市の古代・中世歴史地図 高槻市地質図」の一部分を紹介したものです。

 図の上部中央にあるのが、上で紹介をしてきた石川年足の墓がある地点で、そこが真上郷の丘陵部に近い所にある様子が見て取れると思います。また、その一つ右の丘、すぐ東 に鎮座しているのが野見(のみ)神社で、同社が垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の死去に際して日本で始めてハニワを造り献上したとされる野見宿禰を祀った社であることは言うまでもありません。宿禰は、わざわざ出雲国から土部100人を呼び寄せて様々な「モノ」を造ったとされていますが、研究者の間では、この垂仁后・日葉酢媛命の陵(奈良市山陵町)の造営時期を4世紀後半〜5世紀初め頃と推定し、日本書紀が伝えるアメノヒボコの来朝とハニワなど土器の製造技術の渡来を関連付けて考える見方もあるようです。

 さて、今回のお話も、いよいよお開きが近づきました。読者の皆さんには『なんだ、また、語呂合わせの駄洒落か』と陰口を叩かれるかも知れませんが、毎度お馴染みのオマケ話をご紹介して蘇我物語を閉じることに致しましょう。旧三嶋郡の嶋上という地域には、東から濃見・児屋・白髪(真上)・服部・高上の五つの郷があり、より古い時代には恐らくそれぞれに地盤を持った部族集団があって幾つもの勢力圏を構成していたと思われます。

その中でも、いち早く稲の栽培を取り入れて発展したのが濃見郷・安満(あま)だったのですが、この桧尾川左岸流域は、或る日、大規模な洪水に見舞われ、一挙に耕作地のほとんどを失った時期があったとされ、農耕地の開発は西部の各郷へ拡大したものと見られているのです。−−突然ですが、皆さんは藤原氏の祖先だとされているカミサマの名前を覚えていますか?そうです、このページの冒頭に述べた「武甕槌命」「天児屋根(アメノコヤネ)命」でしたね。この「天(アメ)」が、所謂「天孫」に従ったカミサマの性格を現すものであることは論を待ちませんが、オノコロ的には「あま(安満)」の地で生まれ「こや(児屋)」の地で育った神様なのだ、というコジツケをしてみたいのです。得々と様々な事柄について物語ってくれた宮司さんの「博識ぶり」にケチをつける気は毛頭ないのですが、これだけ鎌足色・藤原一族の影響力が濃厚な土地に、何の「理由」もなく、ただ集落住民の希望で「安閑」大王の社が造営されたとは考えられません。

増してや、その祭神の「性格」が『祟り神・雷神』だとの言い伝えが真実であれば、正に雲峯神社は藤原氏の意向(鎮魂、祟り封じ)を反映したものだったと推理できるのではないでしょうか?

(このサイトのトップページや最新のページへ行きたい時は、左下のリンクをクリックしてください)

    トップページへもどる    
     
 
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼