安閑天皇と「(まがり)」「軽(かる)」のえにし                   サイトの歩き方」も参照してください

安閑(466〜536)は、継体大王の長子とされ、母は尾張氏の目子媛、諱を勾大兄(まがりのおおえ)と称した。その「生涯」について古事記は次の様に伝える。

  御子、広国押建金日命、勾の金箸宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、御子無かりき。
  御陵は河内の古市の高屋の村に在り。

何とも素っ気無い書き方であるが、後にも先にもたったこれだけである。当時既に「大兄(おおえ)」と云う大王位の継承権をも意味する特別な呼称があったのだとすると、彼は「勾(まがり)」の地で育てられた、或いは「勾」の地を支配していた一族の惣領息子だった訳なのだが、では、その「勾」とは一体どこに在ったのか?近鉄大阪線に「松塚」という小さな駅があり、その南東約600メートルに金橋神社(下左の画像)が鎮座している。現在、橿原市曲川町となっている同地が「勾金箸宮跡」に比定されており「勾」の「まがり」は土地の東を流れる川筋が大きく「蛇行」している、つまり「曲がっている」事が地名の由来であると解説する資料が多いのだが…。それはさておき、曲川の地を南北に流れ、周辺の田畑を潤しているのは曽我川であり、金橋神社の東北600メートルには宗我都比古神社(下右の画像)が建てられている様に、そこは紛れもなく蘇我氏の本拠地そのものである。

金橋神社   曽我川  

一方「勾」に関しては、安閑の諡号「広国押建日(ひろくにおしたけかなひ)」と宮号から「真・カリ(銅)」と解釈し、金属・鉱物に結びつける見方も一部に存在するのだが、呼び名=字の音そのものから何かを推測しようと試みる者にとっては格好の場所が、橿原市内には存在している。それが歴史の町「大町(おおかる町)」である。万葉歌人の柿本人麻呂が、妻の死に際して、

  天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が里にしあれば…
  軽の市に我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に鳴く鳥の  (巻2−207)

と『泣血哀慟』して歌った様に、「軽」は天武の時代に最盛期を迎えた古代の中心地でもあった。また、神話時代を象徴する伝説的な竹内宿禰の祖父に当たる孝元帝の都が置かれた所が軽の境原宮(下右の画像)であり、安閑の父・継体の祖とされる応神帝の都も大軽町の軽島豊明宮(軽島之明宮,下左の画像)だったと伝えられている。応神の豊明宮跡は軽寺跡とも重なるのでないかとされているが、現地に立ってみても大王の宮跡という雰囲気はとても感じられず、周囲の民家や社寺の入り混じった建てられ方などから見ても違和感を禁じえなかった。また、孝元帝の宮跡と比定されている場所には牟佐座(むさざ)神社があり、この地が古くから渡来系の人々の住む場所でもあったことを証明しているように思われる。「日本書紀」は雄略14年の事として、

  身狭村主青を呉国に遣わし、呉人を檜隈野に置いた

と記しているのに加え、欽明の時代にも『高市郡に身狭屯倉を置いた』『蘇我稲目等を高市郡に遣わして韓人大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉を置かしむ』(17年10月条)と明記しているので、蘇我氏主導の元で土地の開発・開墾などが進められたものと想像される。(地名の見瀬は、身狭[むさ]が訛ったものだとされる)更に時代は少し下るが敏達帝の孫、押坂彦人大兄の長男の茅渟王と、吉備(津)姫王の子である第36代の孝徳帝(596〜654)の諱も軽皇子(かるのみこ)であり、持統帝の孫・文武天皇(683〜707)も又「珂瑠(かる)」皇子と呼ばれたことなどから、古代大王家の人々にとって「軽」は単なる地域名ではなく、特別な土地=聖地として意識されていたのかも知れない。また「欠史八代」の一人、懿徳帝の宮についての『二年春正月、都を軽の地に遷す。是を、曲峡宮(まがりおのみや)と謂う』と云う書紀の記事が最も古いものだが、欽明23年8月、高麗との戦後処理に関して、

  是に、大臣(稲目)、遂に二(人)の女を納れて、妻として軽の曲殿に居らしむ。

とある記述を、どう解釈するのか?素直に読めば、大将軍大伴狭手彦が『高麗を打ち破』った結果得た戦利品の「美女媛」二人を時の「天皇」にではなく大臣の稲目に送り届け、彼は「遂に」(つまり誰はばかることもなく)自身の宮殿『軽の曲殿』に住まわせたと言うのであるから「軽」も「勾(まがり、曲)」も蘇我氏の象徴に他ならないしとか考えようがない。時間が相前後するが継体の「祖」応神の15年8月の事として『百済の王』が『阿直伎(阿知吉師)を遣して、良き馬二匹を貢る。すなわち軽の坂上の厩に養わしむ』とあるのも参考になるかも知れない。書紀は「剣池、軽池、厩池」が応神11年10月に築造されたと伝えている。

 厩坂寺=本題とは少し離れますが、上で見た「軽の坂上の厩」についてオマケ話しのようなものを書いておきます西暦669年、病に倒れた藤原鎌足の回復を祈願して、妻の
 王女
は京都山科に山階寺を建立しましたが、672年、壬申の乱の後、この寺は息子の不比等の手によって飛鳥(高市郡)の厩坂に移され厩坂寺と呼ばれました。更に、710年
 には平城京への遷都に伴い、三度、移築された後「興福寺」となった訳です。一説によると、鎌足の妻・鏡女王は額田鏡王の娘とされ、鏡王は宣化帝の曾孫だとする系図が存
 在しています。
 厩戸皇子=「聖徳」太子とも呼ばれた彼の両親の母親が蘇我の娘ですから当然「」の地の邸宅に住み、皇子の出産もそこで行われたでしょう。出生にまつわる逸話は従来、
 外国の信仰にまつわる話を「借用」したものだとする解釈が主流でしたが、ひょっとしたら軽の坂上にあった「厩」の前で、本当に産気づいたのかも知れませんね。また「馬子」とい
 う名前も変わっていると感じていましたが、外国から献上された立派な駿馬の力強さにあやかろうとしたのだと考えれば納得が行きます。

軽島豊明宮の跡地  牟佐坐神社   PR

前回(「蘇我氏と安閑」)、阿蘇ピンク石を手がかりに訪れた植山古墳(下左の画像)は、橿原市石川町にある孝元帝稜の真南、そして奈良県最大の方円墳である見瀬「丸山古墳」(下右の画像)の真東に位置していることから飛鳥時代にヤマトを支配していた人物で、かつ蘇我氏とも深い関係があった大王クラスの人物が被葬者として想像される訳だが、それでは全長310メートルにも及ぶ丸山古墳に葬られていた人物たちとは一体誰なのか?とても興味を覚えます。1991年5月『たまたま石室の入り口が開いている』事を知った人が内部を撮影、その写真を公表したことから全国の考古ファンの注目を集めた後円部の石室は、実に28.4m(石舞台古墳でさえ20.5m)もあって、内部には家型石棺二基が直交して配置されていました。その内の古い物は『6世紀の第3四半世紀』に造られた播磨系の凝灰岩製だと判定されているので、絶大な権勢を誇った蘇我氏の一族、例えば稲目(506?〜570)と家族の合葬墓ではないかとする説も見逃せない。(書紀は推古20年2月の出来事として『欽明天皇皇太夫人の堅塩媛を檜隈大稜に改葬した。この時、軽の巷で死者をしのぶ盛大な誅儀礼が行われた』と記しており、蘇我氏の地元・軽の町で一族の実力を殊更天下に誇示したことが明らかになっている)また、指呼の位置に造られた特異な双室墳(一つの墳丘に、二つの石室を有している)の植山古墳も、初めから後の合葬を予定して玄門閉塞用の扉(下中央の画像)を採用しているなど、極めて計画的に造られていることから推古帝と早世した息子・竹田皇子(?〜590?)のものではないかと推測する説がある。そして、謂うまでもなく推古の母は蘇我堅塩媛その人に他ならない。([注]植山古墳の画像は橿原市教育委員会の許可なく転載することはできません。)

 植山古墳の全景  石室内 

近鉄吉野線が並走している中街道を更に南下した飛鳥駅の少し手前にあるのが欽明稜と吉備姫王墓。欽明は継体とヤマトの手白香皇女との「嫡男」であり、吉備姫王は欽明の孫、桜井皇子の娘であり推古とは姉妹になる。ただ、この「王墓」については古くから古墳ではないとする見方があり、現在、墓の域内に置かれている不思議な四体のサル石も、元々、欽明稜「前方部の南側」に一列に並べられていたものを、江戸期に入り田んぼとなっていた処から掘り出されたものらしい。(『今昔物語集』巻31は、軽寺南方の天皇稜の堤にあった石の鬼形、と記している)「女、権現、僧、男」の姿を表現した庭園のオブジェではないかとも言われている像たちの正体は、読者の皆さん一人ひとりに考えて頂くとして、今回も、そろそろお開きの時間が近づきました。「勾」(まがり)で始めたお話ですから、彼についての話題で締めくくりましょう。尾張氏の娘が母親であったにも関わらず、彼は母方からの妃を受け入れていません。(と言うか、尾張氏から最後に妃を入れた大王が、彼の父・継体なのです)

勿論、伝えられて来なかった事実が在った可能性は捨て切れませんが、安閑は皇后として仁賢帝の娘・春日山田皇女(春日赤見皇女とも云う。母は和邇臣日爪の娘の糠君娘)を継体7年に迎え入れた他、妃として許勢(巨勢)男人大臣の娘二人と物部木蓮子大連の娘一人を後宮に入れましたが「子宝」には恵まれなかったとされています。許勢氏は高市郡を本拠地とし竹内宿禰を遠祖とする豪族で、この後も蘇我氏と密接な関係を保ちながらヤマト政権の一角を占め、孫の徳陀(徳多,?〜658)は西暦649年、左大臣にまで登りつめます。そう、蘇我入鹿の命に従い「聖徳」太子の子・山背大兄王一族を襲撃した責任者とされている、あの人物こそ安閑妃・紗手媛に連なる存在だったのです。金箸宮で天下を治めた安閑ですが、何故か、その稜は遠く西北に離れた羽曳野市古市にあります。そして尚、不思議なことに、安閑稜の直ぐ西側に「軽里」と呼ばれる区画があり、その真北には安閑にとって舅にあたる仁賢帝の陵墓があるのです。今回も道草ばかりして「河内」の伝承を紹介することが出来ませんでした。次は、必ずお披露目いたします。勾、いや、請うご期待。

 吉備姫王墓   猿石たち  安閑天皇陵

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