竹内街道と「の里」、安閑天皇高屋                                サイトの歩き方」も参照してください。

絶頂期を迎えようとしていた蘇我氏の棟梁(蘇我馬子,551?〜626)が、時の女帝推古(554〜628)に向かい『(大王の直轄領である)葛城の地は、自分の本居(うぶすな)地なので、私に譲って貰えないか』と二人の使者を送って要望したと日本書紀が伝えていますが、我が国で最も古い「官道」の一つだとされる竹内街道は、その葛城を出発点として竹内峠(二上山の南麓)を越えて現在の太子町に至り、更に西進して羽曳野の古市を通過し堺市に到ります。(推古21年11月条に『また難波より京に至るまでに大道を置く』とあります。北から南へ、生駒から葛城に連なる山並みが、大和と河内の国境をなしています。下・左の画像は大和から見た二上山の姿です)

 蘇我氏と葛城=日本書紀推古32年10月条には『大臣、安曇連、阿部臣麻呂、二の臣を遣して、天皇に奏さしめて曰さく葛城の県は、元臣が本居なり。故、その県に因り
 て姓名をなせり。是を以って、願わくは常にその県を得りて、臣が封県とせんと願う』と申す、とあります。皇極元年には『蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に己の祖廟を立てた』と
 もありますから、蘇我にとって葛城は特別な土地として意識されていたのかも知れません。

二上山  武内街道  長尾神社 

葛城側の「基点」となっているのが式内大社の長尾神社で、ここの祭神は水光姫命と白雲別命の親子二柱なのですが、二人の神様をご存知の方は恐らくいらっしゃらないと思いますので、少々、解説を加えます。先ず、神社の伝えでは『応神帝の御世に水光姫(みひかひめ)が当麻町に降臨した』ことになっているのですが「新撰姓氏録」大和国神別には、吉野連の項があり、

  神武天皇、吉野に行幸まして神瀬に到りて、人を遣して水を汲ましめ賜いしに、使者、還りていわく、
  「井に光る女あり」と言う。天皇、召して問ひたまわく『汝は、誰人ぞ』とのたまう。答えてもうさく、
  『妾は、これ、天より降り来つる白雲別神の女なり。名を豊御冨ともうす』と申す。
  天皇、即ち、水光姫と名付け賜う。今の吉野連が祀れる水光神これなり。

と記されています。また、日本書紀・神武即位前紀、戉午年八月条にも、

  天皇、吉野の地を省たまはむと欲して、すなわち菟田の穿邑より、親ら軽兵を率いて、巡り幸す。
  吉野に至る時に、人有りて井の中より出でたり。光て尾有り。
  天皇問いてのたまわく「汝は何人ぞ」とのたまう。対へて申さく。「臣は是、国神なり。名を井光(いひか)と言う」と申す。
  これ即ち、吉野首部が始祖なり。

の記述がありますから、吉野の国神(地元の実力者)で「井の中」を棲家(仕事場=坑道?)とする集団が居たことは確かな様です。そして、神武が部下を遣わして「水」を求めたとも有りますから、吉野地方の「水利(権)」をも掌握していた一族が吉野連であったのかも知れません。更に「尾」が在った(有尾人?)となると、もう半端なSFより過激な描写と言わざるを得ませんが、ここは、言葉の「音」つながりで「尾張」氏との関連を示唆するに留めたいと思います。(有名な海部氏『勘注系図』では始祖・火明命の三世孫に当たる「倭宿禰」の妻が、上で見た豊御冨(水光姫)なのです)さて、では長尾の祭神の正体は誰なのか?という疑問には、この地方に古くから伝わる、

  昔、大和に大きなが住んでおり、三輪山を三重にも取り巻いて、その長い尾が、当地まで届いた

と言う口碑を尊重するなら、吉野の「井光」ではなく、大和の蛇神様だと考えるのが自然なのかも知れません。社伝の「応神云々」も、彼の妻・息長足姫命の「オキナガ」と、長尾の「ナガお」を結びつけたと推測されますし、もっと言えば神武に闘いを挑んだ長脛彦の「ナガすね」をも暗喩しているとも考えられるでしょう。(伝承でも「井」の中に居たのは、あくまでも豊御冨という名の女であり「水光姫」の称号・神名を与えたのは、他所から訪れた神武なのです。「光る女」は自ずと、かぐや姫をも連想させますが…)思わず出発点で手間取りました、肝心の古市に話しを進めたいと思います。

安閑陵  山田皇女陵  高屋神社  PR

「四通八達」の言葉通り、東西南北を行き交う道筋の交叉点に位置する「古市」は、現在でも近畿日本鉄道の南大阪線と河内長野線の分岐駅になっており、大古から大量の物資が集散する「市(いちば)」が設けられ、多くの人々の熱気でとても賑わっていたに違いありません。(東に進み大和の地に入ると、同じ様な役割を果たした「大和八木」の町があります)その古市駅で下車し、国道を南に1km余り歩いた所に安閑帝の陵があるのですが、更に南東数百mには皇后・春日山田皇女陵があって、明らかに二つの古墳が存在しているにも拘らず日本書紀は安閑二年冬十二月条で、

  是の月に、天皇を河内の古市高屋丘陵に葬りまつる。
  皇后、春日山田皇女および天皇の妹、神前皇女を以って、是の陵に合わせ葬れり

と異例の「合葬」を記録しています。「延喜諸陵式」にも『春日山田皇女の古市高屋墓が河内国古市郡に在り、守戸二烟』とあり、通常「兄弟姉妹」だけの合葬陵は考えられないのですが、神前皇女は安閑の父・継体と坂田大俣王の娘・黒姫(又の名・広姫)との間に産まれた王女ですから、当時の「風習」として異母妹を、大王位を継ぐために「皇女」を正妃に迎える「前」に妻としていた可能性は十分にあり「元・正妃」であった黒姫を一緒に葬ったと考えられないこともありません。神前の「神」を「既に亡くなっていた=鬼」の意味だと解釈すれば、この名は文字通り「先立った妻」と読むことが出来るでしょう。その安閑一族が都としていたのは、現在、橿原市曲川町大垣内に比定されている勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で、彼の諡も「勾大兄(まがりのおおえ)」だったのですが、終の棲家は隣国河内・高屋の地に造営されました。安閑と高屋に一体どのような繋がりがあったのでしょうか?(入鹿宮とも称された蘇我氏ゆかりの曽我都比古神社は、曲川の直ぐ東北に在ります)

先ず、この「高屋」の地ですが「新撰姓氏録」河内国神別には、高屋連について、

  ニギハヤヒ十世の孫、伊己止足尼(いことすくね)大連の後なり

と記され、同氏は饒速日を太祖と仰ぐ物部の系統に属し、高屋神社の鎮座する古市一帯を支配していた豪族のようです。また安閑の妃として、物部木蓮子連の娘である宅媛が嫁いでいますから、彼の王権が幾重にも物部(もののべ)たちの武力によって支えられていたことを窺わせます。伊己止足尼は「五十琴宿禰」とも表記されることから「五十琴」を外国語の「読み」で解釈しようと試みる向きも一部にありますが、系譜上、この人物の妹・五十琴姫命が第十二代景行帝に嫁いで男子(五十功彦命)を儲けています。また、彼の妻の名が香児媛(カゴひめ)であることから、次の妄想が生まれます。(饒速日は瓊々杵尊[ニニギノミコト]の兄弟のはずなので、一方の「十世」が他方の「十二代」と結ばれるという「設定」には初めから無理があるのですが、その辺りには敢えて目をつむる事にして先に進みます)

軽羽迦神社  大村・骨蔵器  大村・墓誌(部分)

近鉄の線路をまたいで、竹内街道を少し西に進むと、左手に景行の息子・ヤマトタケルの白鳥陵があり、その、すぐ近くに軽羽迦神社(上左の画像)という社が佇んでいます。恐らく、土地の人でも余り知ることの無い、このちっぽけな神社の祭神は天照大神、熊野権現そして蔵王権現の三柱。オノコロ・シリーズの読者はご存知だと思いますが、安閑帝は奈良・平安以降に流布した神仏混交の中で蔵王権現と「一体化」された経緯があり、旧くは「軽墓」と呼ばれていた「軽の里」に同じ名を冠した社が祀られている事実は、この高屋と軽里を含めた古市周辺一帯が安閑帝、そして六世紀前半の物部を代表する五十琴宿禰の縁者(娘と娘婿・景行および、その息子)たちにとって極めて重要な土地であったことを想起させます。あくまでも仮説の一つに過ぎませんが、おくり名に「金日(かねひ)」の文言を含む安閑大王の名前「勾(まがり)」と都「金橋勾宮(まがりのみや)」の「ま・かり」が「軽の里」の「かる」と同様に「銅(あかがね)」を意味する外国語由来の「カルカリ」に通じるものであるとするなら、次に挙げる二つの例文も従来とは別な意味で強い関心を集めることになります。先ず一つ目は、万葉集に収められた中大兄(天智天皇,626〜672)の『三山歌』と、その返歌です。

  高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相良思吉

  高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良

第一巻の冒頭近くに置かれた「三山歌」は、有名な大和三山を歌いこんだものなので、皆さんも学校の授業などで一度は耳にされたこともあるのではないでしょうか?本稿の内容との比較のため、原文にある万葉仮名漢字をそのまま引用していますが、言うまでも無く「かぐやま」は「香具山」あるいは「香久山」などと表記されるべきはずです。現に、以下の二首では、そのように表現されています。

  山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍  舒明天皇 1−2
  春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山                    持統天皇 1−28

明らかに同じ「山」(の名)を、ほぼ同世代の大王たちが「異なる文字」で記した記録がある点を重視するなら、@大和の名山として知られる香具山を「高山」と表記する方法が古代にはあった、A「高山」と表記して「かぐやま」と読ませた−−、の二通りの推理が成り立ちます。そして、二番目の解釈を補強する材料が、やや遅れた八世紀の資料に見られます。それが奇しくも安閑の弟・宣化帝の子孫、威奈真人大村に関わる出土品なのです。江戸、明和年間(1,700年頃)、奈良馬場村の住人が偶然「発見」したのは、任地の越で亡くなり大和葛木の地に「帰葬」された大村の骨蔵器そのもので、器の表面には四百余字に及ぶ「墓誌」(上・右の画像参照)が刻まれていたのです。そして、その文章の中に、

  宣化天皇四世の孫、威奈鏡公の第三子

の文言があった事で二重の注目を集めたのです。つまり文武朝で昇進を重ね慶運二年(705)に越後守に任じられた大村を、天武元年(672)十二月に亡くなった大紫・韋那公高見の子供とみなすと「高見」を「鏡(かがみ)」と読ませることが出来るのではないか、という訳です。そうすれば古代の人々が、少なくとも七世紀後半から八世紀初頭の時期まで「高」という字を「かぐ」あるいは「かが」と読んだ事実があったと考えることも可能です。若し、この憶測が許されるのなら「軽の里」周辺に、上で見てきた安閑たちの陵墓が築かれた理由の一端が明らかになる様に思えます。「軽」は「カル」であり、銅(等の金属を用いた)の文化の担い手を象徴していたのでしょうか?謎は尽きることがありません。(尚「威奈」「為名」「猪名」および「韋奈」は仮名使いが異なるだけで同じ姓を表したものです)

「蛇足」ですが、安閑に陵を提供した高屋連も、当然「かぐや」連であり、若しかすると「本名」は「軽矢」であったのかも…。

お伽噺では「山幸彦」の名で知られる天津日高彦火火出見尊(神武天皇の祖父とされる)は、鹿児島県姶良郡の「日向の高屋山上陵」に葬られたと書紀が伝えています。

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