安閑大王と「」、そして淀川について                                サイトの歩き方」も参照してください。

ゼンラクレン(「全酪連」と書きます。あの、ナントカ連とは全く関係ありません)のホームページによると、この国に搾乳の技術が百済から伝えられたのは『六世紀の中頃』のことで、ほぼ同時に渡来した仏教の広がりに伴う「肉食」の禁止などの政策も手伝い、民衆の間に定着しかけた酪農は一転急速に衰えてしまったようです。又、別の資料によれば欽明帝の西暦560年、中国僧の智聡という人物が医薬書などと共にもたらしたのだとも…。但し、この僧侶は、どうも自発的にやってきたのではなく宣化二年(537)任那・百済の救援司令官として派遣された大伴狭手彦(大伴金村の息子)が、たまたま百済に居た彼を見つけて帰国したとも考えられます。ただ、この狭手彦将軍は「戦利品」の女性を時の実力者・蘇我稲目に贈ったことも記録に残されている位、目端の利く処があったようですから、半島から最先端の文化・技術を意識的に持ち帰った可能性も十分あるでしょう。

大宮神社 大隈神社

ところで今回の主人公・安閑帝は、オノコロ・シリーズの常連である継体帝(450?〜531)の長子なのですが大王の位にあった期間は、僅か二年足らずしかなく在位中の業績も屯倉の設置以外には、是と言ったものがありません。まぁ、とにかく正史上は、とても影の薄い方なのですが、亡くなる直前の九月十三日、大連・大伴金村に一つの『遺言』とも取れる命令を下します。それが、

  牛を難破の大隈嶋と姫嶋松原に放て。願わくは名を後に垂れむ。

と言う、誠に不思議な内容のもので、記紀の研究者たちも中々適当な「解釈」を示せないようです。その理由は、牛を放牧することが何故、安閑の名を後世に残すことに繋がるのか、全く、脈絡が掴みようも無いからなのですが…。では、この書紀の記述が事実ではなく全くの「絵空事」なのかと言うと、決してそうではありません。書紀に次ぐ史書『続日本紀』元正帝、霊亀二年(716)二月二日条に、

  摂津国に命じて、大隈・姫嶋の二つの牧を廃止させ、水田を作り食糧を増やすことを許した。

とあって、八世紀初めまで「安閑牧場」が存在していたことは明らかなのです。また、安閑所縁の神社も大阪東淀川区に存在しています。それが大宮神社(上・左の画像)で、社発行の「大宮略記」には、

  本社の起源は、安閑天皇しばしばこの地に行幸され、即位二年の秋、勅して牛を放牧せしめられ、
  土地の発展を計らしめ給うたのを、後、その御徳を慕って祭祀奉った。

と記されています。ただ「創建の時期」は詳らかではないようです。また、大宮の東北に土地の名を冠した大隈神社(上・右の画像)があり、そちらにも安閑の放牧に関わる伝承が残されているのですが、その「由緒書」には興味深い別の事柄も記載されています。

  当社の社地は、もとの大隈嶋すなわち上中島に当たり、
  応神天皇二十二年春三月、難波の地に御幸したまい、この大隈嶋に離宮を営まれ、大隈宮と称した。
  帝の崩御後、里人帝の御徳を慕い、宮跡に神祠を建て、帝を奉祀したのが当社の起源である。
  爾来、当社は、この地の産土神として尊崇せられて来たが、ひととせ淀川が氾濫した際、
  賀茂明神のご神体が漂着して霊光を放った。里人は喜び迎えて、これを合祀したものと思われる。

つまり大隈社の祭神は応神帝と別雷大神が主体なのですが、これら二つの社の伝承の背景には、より古い時代の出来事が幾つも横たわり、安閑帝も自身の「名」だけではなく、継体一族が「祖」と仰ぐ、かつての偉大な大王たちの「名」も十二分に意識した「発言」であったように推測されます。応神が大隈宮を営み大王の拠点を河内最北端に築くと、その息子・仁徳は父の政策を一段と発展させて、遂に、大阪湾を臨む難波に都を造営します(これが難波高津宮で、現在の上町台地に在ったと思われます)。ただ当時の北「河内」は、その名前の通り大部分が「水浸し」の湿地帯の状態で、とても人々が田畑を耕し生活することなど考えられない不毛の大地だったのです。それが「河内湖」の名で知られる古代の広大な湖沼なのですが、その広がりを知る手がかりが幾つか存在しています。(下・右図にある東西に流れる『大和川』は江戸期に付け替えられた後の川筋です。六世紀当時の流れではありません、念のため。高津宮の位置は特定されていませんが、大体、下・左の図にマークした辺りだと思います)

高津宮と河内湖の位置関係  「破線」が海岸  PR

上の二つの資料を比べると「安威川」と「旧淀川」に囲まれた部分などに弱冠異同が認められますが、六世紀ころ河内平野の北部に巨大な「湖状の水域」が存在し、その周辺にも軟弱な地盤の地域が広がっていた様子が容易に想像されます。日本書紀によれば塩土老翁から『東の方に美き国有り』と聞かされた神日本磐余彦は船団を組んで「東」の土地を目指し「難波碕」に到ったとき「速き潮」が船の行く手を遮り、その流れの余りの速さに「浪速(なみはや)の国」と名付けたとあり、更に、神武帝の軍勢は「遡流(河よりさかのぼ)」って、一気に河内国の草香邑(くさかむら=日下)の白肩之津(しらかたのつ=枚方)に至ったと「記録」されているのですが、上の想像図を見る限り北に向って弓のように突き出した上町台地と千里丘陵との間は狭隘で、河内湖に流れ込む幾筋もの河川の水量と潮の満ち干を考えると、今、われわれが瀬戸で見る渦潮並の「急流」だったと思われ、記紀の編集者たちが少なくとも五、六世紀頃の地形を熟知していたことが見て取れます。(言葉を変えれば河内湖の存在を前提としていない記述には信頼が置けないということです)仁徳十一年夏四月、帝は群臣を前に、

  是の国を見れば、郊の沢も広く遠くして、田畑少なく乏し(中略)聊かに長雨にあえば潮逆のぼりて、道路また泥になりぬ。

と国の現状を憂い、これを打破するために『横しまなる源をさくりて海に通わせ、逆流を塞ぎて田宅を全くせよ』と命じます。それから半年、冬十月には宮の北の「郊原」を掘って「南の水」を引き「西の海(大阪湾)」に入る人工の水路が完成、堀江と名付けられたのです。頓知話しで知られる茨田堤も、ほぼ同じ頃に造られたと書紀は伝えています。仁徳の治水事業については「古事記」も同様の記述を残していますが、堤の造成については、

  また秦人を役ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また和邇池、依網池を作る。

として土木の技術に長じ財力も兼ね備えていた「渡来系の人々が主導した」と主張しています。記紀どちらの言い分が正しいのか、もう今となっては確かめる術もありませんが、恐らく当時の豪族たち、中でも河内近辺に生活の基盤を持っていた有力者は、その全てに「動員令」が下されたはずですから、異なる伝承・記録の差(敢えて言えば『編集者の意向』)が字句に現れたと考えるべきなのでしょう。(紀にも『新羅人が朝貢したので造成に使役した』とあります)ただ、継体一族の「追っかけ」人としては帝の妃の一人に「茨田連小望の娘、関媛」が居る点に注目すると、五世紀の大王たちの国造りを支えた地域の実力者と早くから姻戚関係を結んでいた継体の先見性が仄見えるように思うのですが…。

淀川   大隅の周辺  茨田堤跡地

今回、色々な資料を提供して貰った淀川資料館が収蔵している文献(上・中央二枚の画像)でも河内湖と大隈嶋の位置関係が明らかですが、安閑が牛を放った当時大隈は旧淀川の流れの中に「洲」として存在していたようですから、水が自然の柵の役割を果たして放牧には最適の環境だったと言えそうです。彼の父・継体は最初の宮を淀川右岸の樟葉に設けて大和との間に距離を保ち、その後も筒城(五年)、弟国(十二年)と山城国内での遷都を繰り返しています。この動きを敵対する勢力が大和にあったからと見るべきなのかどうか良く分かりませんが、継体が己の陵墓を摂津三島の地に造成させた事からも、淀川という大動脈の持つ価値を十分意識していたことは間違いありません。偉大な帝王・ホムタワケも大和国に固執することなく河内摂津への進出を目論み、次の大王・オオサザキは押し照る大阪湾を眼下に見下ろす難波長柄に都を移して「クラゲなす漂える」様な河内に大規模な治水を行い、広大な国(クニ)を産んだのです。管理人は、その背景に金属器・鉄器の普及があったと考えています。鉄は確かに刀・武器=権力の象徴でもありましたが一方で人々に豊かな収穫をもたらす農器具の機能をも飛躍的に向上させました。大和橿原の軽の里に程近い曲川に宮を構えていた安閑にとって、大隈嶋での「新しい事業」の展開は、父・継体をも含めた祖先たちの国土開拓を引き継ぐ者としての意思表示であったのかも知れません。そして何より、千数百年の歳月を経て確かに彼の「名」は残されたのですから……。

神話の世界でも様々なカミサマたちが国づくりを行ったことが伝えられていますが、摂津三島に縁の深い神様だけに限ってみても神日本磐余彦(かむやまといわれびこ、神武)の「正妃」である姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)の母親は三嶋溝咋耳神の娘であり、父親が事代主命そして祖先が味高彦根命でした。蹈鞴(タタラ)が製鉄そのものを意味しているのなら、かつて祖父の世代には「溝に木の杭」を打ち「木の鋤」で土を穿って河川の流れに挑んでいた世界に、銅とは異質の「鉄の文化」がもたらされ、人々の生活が飛躍的に向上したことを神々の「名」が我々に教えてくれているのではないでしょうか!そのように考えれば「神武とタタラ姫」の出会いは、そんなに「大昔」の事ではなかったようにも思えて来るのですが…、これ如何。

おまけ序にもう一つ。淀川が「氾濫」したとき賀茂明神の「ご神体が漂着」して「霊光」を放ったので、里人が喜び賀茂神祠と社名をかえて別雷大神を祀ったと大隈神社の古伝にあるのは、賀茂神(賀茂一族)も治水に大きく寄与したからだと思いますが、川を京都に向って遡った三島江に鎮座する三島鴨神社も大山積命と事代主命を祭神としています。そして、この大山積(オオヤマツミ)という神様の興味深い伝承が残されています。『伊予国風土記』逸文が、それです。

  伊予国の風土記に曰く。乎知の郡、御嶋、坐す神の御名は大山積の神。またの名は和多志(わたし)の大神なり。
  この神は、難波の高津宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。
  この神、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋に坐しき。云々、御嶋と言うは、津の国の御嶋の名なり。

「和多志の大神」とは「渡し」を司る=水運・航海の守護神の性格も併せ持っている偉大なカミサマだと風土記の編集者は主張しているのですが、ただ、その大神が「仁徳」帝の頃「百済」から渡来したとなると、俄かには信じかねます。何しろ大山積と言えば、あのスサノオが八岐大蛇を退治した後で結ばれた櫛名田姫の祖父なのですから。恐らく「仁徳」の時代に「百済」からやって来た「航海」にも巧みな(新しい技術を供えた)一団があり、土地の発展、食糧の増産などを実現して人々から大変喜ばれたのではないでしょうか?!(追申:三輪君と共に鴨君の祖神が味鋤高彦根命です)

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