「小説」東洲斎写楽浅草に住んでいたのか?                   サイトの歩き方」も参照してください。

「浅草」の、すぐ傍に在ると聞き、それなら、あの大提灯で有名な浅草寺、雷門の近くに違いないと勝手に決め込んで、車から降りたまではよかったのだが、さて、そこから先が覚束ない。観光者用に編集されている折り畳みの地図を広げてみても、教えてもらった名前が出ていない。寺の本堂から見て西の方角に違いないと見当はつけたものの、うろうろしているうちに「花やしき」とかいう遊園地前に迷い込んだ。地図帳を片手に、首からカメラをぶら下げて路地をうろつき歩く中年男の姿が余程珍しく、或いは怪しく映ったのか、背後から男の声がかかった。

 『おにいちゃん、探しもんかい?』『誰かと、待ち合わせかな?』

振り向くと、短く刈り上げた頭髪に白い物が混じる、年恰好も似通った丸顔の男が二人、通りから少し入った勝手口の前で、かつて小学校の教室で使われていた様な、木製の小さな椅子に腰を下ろし、首を伸ばすようにこちらを見ながら笑っている。その内の一人は、何処かで見覚えのある顔なのだが、咄嗟のことで、何時、何処で会った人物なのかは思い出せない。

 『なんか探してんなら、力になろうか』

 『…、実は、お寺を探しているんですが…』

 『ここいらは寺ばっかだよ。なんて寺だい』

 『海禅寺という名前なんです』

 『あぁ、かっぱ寺の近くにあったなぁ、そんな名前のが…、たけちゃん知ってるだろ?』

浅草花やしきから西へ、真っ直ぐに進むと南北に走る「かっぱ橋道具屋通り」に突き当たる、伝説に彩られた合羽(かっぱ)橋と橋北の中程にある通りをさらに西へ、つまり上野方面へ進んだところに、問題の墓があった、らしい。不思議なことに壁塗り職人だったという、たけちゃんの「じいちゃん」は、出入りしていたその寺に纏わる話しを、町内の誰かから聞いていたらしく、たった一人の孫息子にも語り聞かせていた。その話しというのが江戸期の浮世絵師・写楽の墓が「浅草・海禅寺」の墓地にあった、というもので、大正十三年、九月一日の関東大地震で倒壊するまで存在していた、らしいのである。

 大震災で倒壊した海禅寺の墓地  崩壊直後の十二階

寺には過去帳もあり、古老の言い伝えによれば写楽は『相当、長生きをした』らしいのだが、半ば公文書とも言える寺の大切な書き物に「写楽」という名前(画号)が本当に記載されていたのか、若し書かれていたのなら併せて本名も載せられていたはずなのだが、それも今となっては藪の中である。それまで黙って、たけちゃんとのやり取りを聞いていた相方が、口を開いた。

 『写楽は八丁堀に住んでたんだろぉ、地蔵橋の近くに。それが、なんで浅草の寺に墓があるんだよ』

 『おいらに聞かれても困るよ、そんなこと。なぁ、おにいちゃん』

 『でも、そう言われてみれば、そうですよね』

 『十二階、知ってるかい?知ってるよな!有名だもの……』

たけちゃんは、明治二十三年の五月、日本で初めての電車が上野公園で運転されたこと、そして、半年後の十一月、大阪名物の建物より『ずっと高い』浅草十二階(凌雲閣)が竣工し、多くの人が見物に来るようになったことなど、じいちゃんからの受け売りを誇らしげに語ってくれた。なんでも、合羽を商いとしていた合羽川太郎という人が、地域のために排水用の掘割を造ろうとしたのだが、工事が思うように捗らない。そんな折、かつて川太郎に助けられたことのある河童が現れ、恩返しに川太郎の工事を手伝い、あっという間に掘割を完成させたのだとか、それで曹源寺には河童大明神が祀られているという。また、現在「松が谷」という地域は、江戸期には浅留町と浅草坂本町と呼ばれていたが、明治二年に松葉町と改称された経緯があるらしかった。(終わり)

花のお江戸で人探し。写楽と「写楽斎

江戸末期、文人であり役人でもあった大田南畝(おおた・なんぽ、1749〜1823)という人物が、浮世絵師の覚書を一まとめにし、それを『浮世絵類考』と名付けたのが寛政年間初め頃のこと。「原類考」とも言うべき書き物には、四十人足らずの絵師に関する記述があり、その中の一人が謎の絵師・写楽だった。南畝が同時代を生き、自らも、のめり込むほどに親しんだ歌舞伎芝居を演ずる役者たちの似顔絵を得意とした絵師の情報を残したことは当然過ぎるにしても、その文言はあっけないほどの短さであり、写楽個人を特定できるような内容ではありませんでした。『あまりに真を画かんとて』云々の文章は、下の画像でも分るように、僅かに三行余に過ぎません。また、南畝の「原類考」が書き始められた時期(寛政初め)が写楽の活動した期間(寛政六年から七年)より先行する矛盾についても別のページ(「浮世絵類考」と写楽)では詳しく触れましたが…、取り敢えず先に進みます。

版画の出版にあたり多額の資金を用意した版元(蔦屋重三郎、つたや・じゅうざぶろう,1750〜1797)は、勿論、写楽なる人物の正体も知っていたでしょうし、今、何処に誰と住んでいるのかも十分承知していたと思われるのですが、この「原類考」が書かれた時点で写楽の個人情報とも言うべきものは一切公にはなっていなかったのです。では、冒頭の「小説」の中で、たけちゃんの相方が言っていた『八丁堀』『地蔵橋』という具体的な地名は、何時、誰が、どの様に特定したのでしょう?それを調べながら、少しでも写楽の実像に迫りたい、というのが今回のテーマでもあります。現在、研究者などによって「類考」の写本は半世紀の間に百を超えた事が明らかになっていますが、書かれた内容に大きな変化があった物だけに限れば、数種類に大別されます。それは、およそ次のような区分です。

 1 南畝が書き始めた「原類考」(1790年?)を写筆したもの

 2 笹屋新七が作成した「古今大和画浮世絵始系」が加筆されたもの(1800年)

 3 「2」に山東京伝が「追考」を付加したもの(1802年)。  京伝は1816年に死去。

 4 「3」に式亭三馬が加筆し、住所を特定したもの(1820年頃)。  南畝は1823年に死去。

 5 達磨屋伍一が本名と職業などを特定したもの(1830年頃?)=これが「増補」類考の基本となった。

「1と2,3」についての考察は、既に読んでもらった(はずの)別のページで済ませてありますから、ここでは「4」と「5」について述べて行きます。では先ず「4」の、写楽の住まいを特定した式亭三馬(しきてい・さんば,1776〜1822)の記述を見てもらいましょう。画像は国文学研究資料館が収蔵しているもので、元々の所有者は内閣文庫です。(構図的に少し見にくいですが、本来は右側の画像が左側の一行目に続く文言です。「三馬按ずるに写楽号東周斎、江戸八丁堀に住す」となります)この内閣文庫本には、別に重要な書き込みがあるので、また、後ほど触れます。

 蓬左文庫収蔵の「浮世絵類考」   三馬は「八丁堀」だと特定しています。  PR

三馬が、この様に自分の考え(知り得た知識)を「類考」に書き込んだ時期は、山東京伝が亡くなった数年後の文政四年(1820)頃だと考えられるのですが、彼は写楽の住まいを、どの様にして知ることが出来たのでしょう。江戸・日本橋本町に店を構え、女性たちに大人気だった化粧水(『江戸の水』)などを手広く商っていた彼の元には、江戸中の情報が集まった可能性もあるのですが、南畝に劣らず大の芝居好きだった三馬のことですから、その方面から写楽の住まいに関する事実を知り得たとも考えられます。そこで一つのヒントになる書物が浮上します。昭和51年に中野三敏が明らかにした『諸家人名江戸方角分』という人名録がそれで、著した人物は歌舞伎役者の三世・瀬川富三郎(せがわ・とみさぶろう)でした。更に興味深いことに、国立国会図書館が収蔵している、この書物の元もとの持ち主は幕末の古本屋「珍本堂」の主人・達磨屋伍一(だるまや・ごいち、1817〜1868)その人で、彼が入手する前には、大田南畝の蔵書だったことも分っているのです。この間の出来事を年表風にすると次のようになります。

  寛政6年(1796)  写楽が浮世絵界に登場

  寛政12年(1800) 笹屋新七が「浮世絵始系」を付記する

  享和2年(1802)  山東京伝が「追考」を付け加える

  文化13年(1816) 山東京伝、没する。

  文政元年(1818)  六月晦、京伝の自筆「追考」本が大田南畝に届けられる(写本の奥書による)

                七月五日、竹本某氏が「方角分」の写本を南畝に届ける(写本の奥書による)

  文政4年(1821)  式亭三馬が、この年までの間に「類考」に書き込みを行う。翌、文政五年、三馬が没する。

  文政6年(1823)  大田南畝が亡くなる。

文政元年の夏、何故、この時期に「類考」「方角分」が相次いで南畝の許へ届けられたのか、その理由ですが、彼は、この年の三月「古希」を迎えることになっていました。当然、その前後に「お祝い」が執り行われるはずだったのですが、元気な南畝も流石に七十歳ともなると足腰が弱っていたらしく、直前の二月、仕事場(役所)へ行く途中で転倒し負傷してしまったのです。これは、飽く迄も想像に過ぎませんが、予定していた「お祝い」の行事は中止されたでしょう。しかし数ヵ月後の六月には傷も癒え、その話しを伝え聞いた京伝の縁者と竹本氏の両者が、古希と快気祝も兼ねて南畝を訪ねたのではないか、そんな風に思えるのです。

「八丁堀、地蔵橋」に住んでいた「写楽斎

三馬が富三郎の手になる「方角分」を見ていた、という確証はどこにもありませんが、南畝に写本を届けた人物の姓(竹本)から、彼が歌舞伎(演劇)関係者ではないかと推測されますから、三馬にも「方角分」という人名録が刊行されるかも知れない、といった情報が届けられた(或いは別の写本を手に入れた)可能性は十分にあります。それでは「方角分」にある写楽の部分を見てみることにしましょう。ただし、原本とされる国会図書館収蔵本の画像は入手できなかったので、その写しだとされている筑波大学本(書名は『東都諸家人名録』)の画像を紹介します。尚、国会図書館本によれば「写楽斎」の名の上に、もう一字分「号」を表す記号(瓢箪マーク)が書き込まれています。

 中央に「写楽斎」地蔵橋の文字  地蔵橋「谷口月窓」 地蔵橋「村田平四郎」

さて、ここで幾つかの疑問点が明らかになりますが、先ず「方角分」に「写楽斎」の実名そして通り名などが空白になっている点について写楽の研究家たちは、或る特定の人物が「写楽」であるという前提に基づき、

  その人物が「実名」を出されては困るから、敢えて書かなかった

と説明をしています。つまり絵師・写楽は誰かの「仮の姿」であり、その人物の名が明らかに出来なかったと云うのですが、果たしてそうなのでしょうか?「方角分」八丁堀の部には十九人の名が連ねてありますが、上の画像でもはっきり分るように「写楽斎」の右二人目の「山学」という故人の欄には町名も実名も記載されていませんし、同様に「立志」「完来」という二人の人についても同じことが言えます(上の右二枚の画像参照)。これが何を意味しているのか?と言えば、

 「方角分」を書いた富三郎自身が知らなかった、情報を持っていなかった

から「書けなかった」のだと言うことになるでしょう。さて次は肝心の名前と号についてです。皆さんも既に御存知だとは思いますが、今、このページで取り上げている浮世絵師が自らの作品(浮世絵版画)に残した落款(名前)は「東洲斎写楽」「写楽」の二通りしかありません。其の事実を念頭に置いて以下の文章も読んで下さい。

 1 「原類考」には、只「写楽」とのみ記されていた

 2 式亭三馬が書き込みを行い、写楽の「号」は東周斎であると記した

ここで「1」と「2」の事実は何等矛盾しませんが、三馬の書き込みが、先に見た写楽自身の署名が「東洲斎」である事と相容れないことは誰の目にも明らかです。三馬が写楽の版画を眼にした事がなく、誰かに教えてもらったから「たまたま書き間違えた」とも考えられますが、寛政六年といえば彼が弱冠の年に相当します。文人を志し、歌舞伎を愛したと伝えられる男が、写楽の役者絵を「全く」知らなかった、という想像は現実的ではありません。そして問題は、もう一つ、あります。それが「号」の内容です。

書き間違いか、或いは無知ゆえの誤謬だったのかは置くとして、三馬が云うように「東洲斎(東周斎)写楽」と名乗る浮世絵師の「号」は、飽く迄も「東洲斎」なのであり「写楽」はただの芸名なのです。つまり「方角分」の書き方にならえば、一番上の段に「芸名」が入り、中段には、その人の「本名」「字(あざな)」「号」などが記され、一番下の段に「通称名(俗称)」が記されるのですから、東洲斎写楽と「」が「写楽斎」の人物は、別人だと考える方が理にかないます。そして「写楽」を良く知っていたはずの瀬川富三郎が「写楽斎」を知らなかった説明もつきます。現代に住む私たちは「号」などとは縁の無い生活をしていますから、この辺りの事情がピンと来ないかも知れませんが、こう考えてみてください。「東洲斎写楽」という「名」の人物が、己の名前を聞かれ「東洲斎写楽斎」とは決して答えないし書きもしない、という事です。この点に目を瞑り「江戸の人々は大らかだったから、写楽のことを写楽斎とも呼んだのだ(つまり写楽が写楽斎と名乗った)」と言うのは無理があります。喜多川歌麿を「歌麿斎」とは言いません。

式亭三馬は「方角分」を見たのか? あくまでも小説風に

式亭三馬が「類考」に様々な書き込みを行っていた正に、その時、芝居の世界に詳しい友人の一人が、一冊の写本を彼の許へ届けてくれました。何気なくページを捲っている内に、三馬の目が、或る箇所に来て釘付けになります。そこには「号 写楽斎」の文字が躍っていました。それまで蔦屋などの関係者を除いて誰も知らなかった、あの「写楽」かも知れない。慎重な三馬は店の者を、わざわざ瀬川富三郎の家まで訪ねさせ『写楽斎という人物は、浮世絵師・写楽のことなのか?』と質問したのですが、富三郎の返事は素っ気無いもので『存じません』の一言だったのです。三馬の思考は少なからず混乱しました。

  『写楽の号は東洲斎のはず。だとするなら写楽斎とは別人だとも考えられる』

  『この富三郎の書き方からすれば、写楽斎は明らかに誰かの号であることは間違いない』

  『しかし、もう故人とは言え、写楽斎の画号は一度も見たことが無い』

  『いや、誰か、画号に詳しくない者が、聞き間違えたという事も考えられる』

誰も未だ発表していない(と思われる)謎の絵師・写楽に関わる情報は何としても使いたい、しかし、号に関して自分の持っている知識と情報の中味が矛盾している。考えあぐねた三馬は、どうしたでしょう?勿論、これは妄想です。夢・小説の類です。

彼は「方角分」にある記述と、己の知識を折衷し、実に曖昧な「情報」の形で書き込むことを選んだのです。それは、

  「写楽」という絵師がいたこと(寛政六年〜七年に活躍)

  「写楽斎」という絵師がいたこと(作品や活動時期は一切不明)

という「二通り」ある前提は敢えて示さず、どのようにでも読めるように巧に記述をすることでした。「原類考」には「写楽」とのみある芸名には敢えて直接触れず、

  「写楽」の「号」は「東周斎」であり(事実は「東洲斎」)=誤り=従って別人である可能性も示唆しておいた

  その「東周斎」が江戸八丁堀に住んでおり(住んでいたのは「写楽斎」)=「写楽」にとっては誤り=だが一方では事実

  活動の期間は「僅かに半年余り」であった(事実は10カ月余)=誤り=ここでも別人の可能性を残しておく

と「原類考」にある「一両年」という活動期間も短めに設定し直すことで、一種の逃げ道をこしらえたのです。ここで南畝が「原類考」に初めて紹介をした「写楽」とは全く異なる「写楽斎」という人物が、あたかも「写楽」と同一人であるかのような錯覚が生まれ、三馬の書き込みをそのまま鵜呑みにした後人たちは、三馬の言う「東周斎」の画号には一抹の疑念を感じつつも、写筆を積み重ねて行ったのです。そして、時間の経過と共に「写楽斎」が江戸「八丁堀」に住んでいた、という事実だけが一人歩きを始めます。また、この間に(1820〜1840年頃)新しい「情報」が付け加えられ「写楽の実像」(本当は虚像)に、より一層の肉付けがなされる皮肉な結果が生まれることになったのです。その基になったと考えられる写本が、浮世絵類考「伍一本」でした。

研究家たちの「説」によれば、写楽の素性を初めて「特定」したのが達磨屋伍一とされており、その「伍一本」には、

  写楽は阿州の士尓で斎藤十郎兵衛というよし栄松斎長喜老人の話那り

とあるそうなのですが、このページでも紹介をしている内閣文庫本には、大変興味深い書き込みがなされています。説明に移る前に、まず、その部分を見てもらいましょう。

 確かに「斎藤十郎平」の名前が見えます。

この「伍一本」の内容に極めて近似した重要な情報を書き込んだ人は、寛政から文化年間に北斎張りの絵を描いた栄松斎長喜から「話」を聞いたと明言し、先に見た「東斎」という画号の誤りにも気づいたのか、わざわざ『は或る本にはと作る』と注釈を入れています。だから、三馬の書き込みを見た人たちも「東周斎」の号については初めから「オカシイ」と思っていたのでしょう。ただ「八丁堀」の住人だった「写楽斎」が「写楽」その人である、と言う根本的な錯覚からは逃れることが出来ませんでした。さて、この内閣文庫本を元々持っていた人の名前のお知らせは後回しにして、次の話題に進みましょう。

「伍一本」で写楽だと思われる人物(実際には「八丁堀に住んでいた写楽斎」と名乗った人)の名前(実名)が明らかにされ、斎藤月岑が「増補浮世絵類考」(弘化元年、1844)で、

  写楽  天明寛政年中の人

   俗称 斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者

   号   東洲斎

と書いたことから「写楽=能役者」説が一般的にも流布することになって行くのですが、神田の町名主の立場を以ってすれば、八丁堀の住人についての詳しい情報も、容易に入手することが出来たでしょう。また、三馬が「類考」の補記を行っていた1820年頃の江戸の地図を見ることは出来ませんが、麹町「近吾堂」から嘉永七年(1854)に改訂出版された『本八丁堀辺之絵図』(国立国会図書館の収蔵品)で八丁堀地蔵橋周辺に住んでいた人達の名前を知ることは出来ます。(ほぼ34年の月日が経過していますから、実際に住んでいる人は「方角分」の時代から見て、子供あるいは孫の世代になっているでしょう)また月岑が写楽の活動期間を「天明寛政年中」と補記したのは、南畝の「原類考」の成立(寛政初め)と、実際に写楽の絵が販売された時期との矛盾を解消する苦肉の策だったと思われます。

 右から四人目に「斎藤与右衛門」とあります。 「●」印は北町奉行所の同心。

丁度複写した部分の直ぐ右上に「地蔵橋」があります、画像の一番右側に名前の見える「中田」氏は瀬川富三郎の「方角分」に「中田平助」と紹介されている人物の子供(あるいは孫?)だと思われますが、その名前の上に「▲」印が付けられていることから彼が南町奉行所の同心であることも分ります。また同様「村田治兵衛」とある人は「方角分」に「村田平四郎」と書かれている人の家族だと分ります。この八丁堀は皆さんも時代劇などで良く耳にする、あの「八丁堀の旦那」たちが住む言わば「武家地」のど真ん中に位置し「写楽斎」本人だとされる「斎藤」家の左隣には北町奉行勤務の飯尾氏が住み、西側に続く地域には南北の両奉行所詰めの同心たちの屋敷が並んでいます。このような「お役人」と「お武家」の縄張りの中で、当時、一段も二段も低く見られていた歌舞伎役者の似顔絵を書くことで生計を立てていた「絵師」の写楽が、本当に生活してゆくことが出来たのでしょうか?

勿論「写楽」はお尋ね者ではありませんし、当時でも、お上から何らかの嫌疑をかけられていた人物でもありません。ただ素朴に感じることは、二百年後の現在でも、今見てきたように「斎藤氏」の住まいを特定することが案外容易に出来たのであれば「写楽斎」が「匿名」であったとする考えは深読みのし過ぎではないのか、という疑問が拭い去れません。八丁堀に「写楽斎」を名乗る人物が住んだという事実があり、若し、それが斎藤氏であったとしても、別に驚くような事ではありません。何故なら、それは、それで事実が確認された、つまり「写楽斎」が実在していた、ということが明らかにされただけに過ぎないからです。斎藤十郎兵衛という人は実際に居たのでしょう。しかし、彼が「写楽」であった、という事は何も証明されてはいないのです。そろそろお開きの時間です。内閣文庫本の持ち主を紹介して、このページを閉じることにします。

内閣文庫の「无名叢書」に収められている「浮世画類考」の最終的な持ち主は奈川本助という人物で、江戸の末期、歌舞伎作家を生業としていた人です。奥書には『天保二年(1831)』の日付が認められています。従って、達磨屋伍一本が1830年頃に成立していたのか、彼の生年から判断して少し早すぎるのではないか、という見方も出来るのですが、少なくとも天保二年には、写楽を「斎藤十郎平」だとする話しが広まっていたことは間違いなさそうです。

(このサイトのトップページや最新のページへ行きたい時は、ご面倒ですが左下のリンクをクリックして下さい)

       

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

     
     
 人気のページ   お地蔵さまの正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼