画像で見る「阿蘇ピンク石」石棺の世界                                                「サイトの歩き方」も参照してください。

『百聞は一見にしかず』或いは『一を聞いて十を知る』とも古人は言っており、最小限の情報から物事の本質を鋭く感得することが可能な人が世の中には稀に存在するらしいのですが、極々平凡でかつ明確に非才な存在である者(=管理人)にとって活字の海や映像の群から得られる情報には自ずと限りがあり、とても対象となった「モノ」の全体像を瞬時に把握し理解することなど夢の又夢と云うしかありません。又、そんな思いが動機の全てでは無いにしても、興味の湧く対象があれば直接その現場を訪れ「臨場感」を身体全体で受け止めながら少しずつ対象との距離を狭めようとする習性の背後には、少しばかり己の感性を信じていたいという思い入れが隠れているのかも知れません。言葉は確かに或る意味多くの情報をもたらしてくれますが、現場を訪れて得た「体感」を、過不足なく言語に置き換えることは至難の業と言えます。だから、読者の皆さんにも出来る限り「現場」を踏んで欲しいのですが、この暑い最中、交通の便も宜しくない古墳巡りを無理強いする訳にも参りません、ので僅かな体験「談」で阿蘇ピンク石を実感?してもらいましょう。

生まれて初めて入ってみた石室が近江野洲の円山古墳と甲山古墳だったことは偶然の産物でした。サイトを始めたのが十年余り前のこと、当時すでに「真の継体陵」は大阪茨木にある太田茶臼山古墳ではなく高槻の今城塚古墳であるという見方が広まり、同墳の調査の結果「三種類の石棺材」が発見され、そのうちの一つが阿蘇溶結凝灰岩・ピンク石(下・左の画像参照)だという資料に接して間もない頃、ある自治体が主催する古墳ツアーが企画され、その目的地の一部が円山・甲山古墳などがある滋賀の野洲大岩山古墳群だったのです。案内人の説明もほとんど聞かずに、ただ写真を撮っていて気付いたのが「羨道の傾斜」で、二つとも小さな古墳ですが、開口部から石室の入り口までかなりの勾配があるように感じられました。石棺そのものの高さがそれぞれ2.0m(甲山)、1.83m(円山)あるにも関わらず石棺を下から仰ぐのではなく、やや斜め下方向に見る角度から撮影が出来たのも羨道自体が斜めに作られていたお蔭だったのです。(円山古墳の玄室の高さは3.1mありますが、下右の画像で天井石がカメラのファインダーとほぼ同じ高さにあることで羨道の下り具合が分かると思います。羨道とは石室に向かって作られた棺などの搬入路のことです)

阿蘇ピンク石  甲山の石棺  円山の石棺

WEBなどの資料から「阿蘇ピンク石で造られた石棺は多くが畿内にある」ことを知り大阪藤井寺の長持山古墳出土の棺を撮影する頃には、漠然とした疑問が芽生え始めていたように思います。勿論、この石棺材が地元の九州では棺材として使われず「輸出専用品」として扱われていたことも不思議でしたが、何といっても、遅くとも五世紀半ばという早い時期から多くの困難を伴う海上輸送で、何故、わざわざ遠方の熊本馬門から巨石を運び込む必要があったのか?言葉を換えれるなら石棺を持ち込んだ人々の「こだわり」の源は何だったのか?そんな素朴な問いかけでした。つまり、近畿(一部は瀬戸内市)に勢力を持った大王を含む豪族たちと九州阿蘇の地を結びつける「絆」が何なのか不透明だった訳です。一部の研究者たちの間では、野洲の二つの古墳を筑紫磐井の乱の当事者の一人であった近江毛野氏と結びつけて分析する見方が支持されていますが、全く別な角度から近江の三上祝一族を追いかけていた当方にすれば『野洲は息長氏とも深い縁のある土地』であり、

  天津彦根命−−天御影命−−意富伊我都命−−彦伊賀都命−−国忍富命−−息長水仍比売(淡海御上神社)

と続く系譜の持ち主と開化帝の子息・日子坐王との間に産まれた水穂真若王の後裔・安直(ヤスノアタイ)こそ古墳の主として相応しいのではないかと推測してきました。古代史の中でも飛びぬけて有名な神功皇后(息長帯比売命、応神帝の母親)は、その日子坐王と和邇氏の娘・袁祁都比売命の子息である山代之大筒木真若王の子孫に位置付けられていますが、その弟・息長日子王が『吉備品遅君、針間阿宗君らの祖』(古事記)だという記述を尊重するなら、現在伝えられる同皇后に関わる系譜自体も見直す必要があるかも知れません。息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)という名称は「息長氏」出身の「タラシヒコ」の妻を表したある種の「呼称(記号)」に過ぎないと考えれば、彼女を八世紀の記紀編集者たちによる創作(架空)と決めつけるよりも、本名は別にあり系譜上の大幅な操作改変が行われた人物の一人と理解するほうが良いように思われます。閑話休題、阿蘇ピンク石製の棺材が今城塚古墳から出土したため、一般的にはピンク石の石棺そのものを継体大王の生涯と絡めて推理する論説が多いのですが、最も古い形態を残している長持山古墳石棺は「五世紀半ば」、瀬戸内市にある築山古墳石棺は「五世紀末」そして今城塚に次ぐ大きさ(墳長96m)で副葬品の豊かさから「大王級」の被葬者が想定されている峯ケ塚古墳、桜井市の兜塚古墳、奈良市の野神古墳はいずれも「五世紀末から六世紀初め」にかけての年代に築造されたと見られています。つまり、継体帝の陵墓を作る一世紀近くも前から阿蘇ピンク石は続々と「石棺材」として波頭を超えて瀬戸内回廊を運び込まれていたのです。(宮内庁が継体陵に指定している茨木茶臼山古墳の築造推定年代が五世紀半ばであることは偶々なのか、不思議な符合に感じます。筆者は、ここに葬られた主こそが継体の直接の先祖だと考えています)

長持山2号石棺  築山古墳石棺  PR

兜塚古墳石棺  野神古墳  野神の石棺

瀬戸内市、大阪高槻市そして滋賀野洲市を結ぶ交通路が瀬戸内海と淀川、琵琶湖ですから地域的に離れているように見える各地(の実力者たち)には相応の「つながり」があったと考えられます。その中核となったものが畿内の権力構造(大王)と直結したものだったと仮定すると、阿蘇ピンク石を使用できる者は限られた範囲の人々(王族?)になるはずです。ただ、長持山古墳の例に見られる通り、石棺の持ち主が「最高」権力者からはやや遠い存在であったと見られる古墳も多く、ピンク石が限られた王族にしか利用できなかったとの考えも素直に受け入れることが出来ません。一方「地域」という条件を加味すると大和の三輪山周辺の重要性が浮上します。石棺が出土した古墳の所在が不明なので、あくまでも「参考」資料の範囲に留めるべきなのかも知れませんが、箸墓古墳と並んで初期纏向型古墳の代表例として有名なホケノ山古墳にほど近い慶運寺にピンク石棺材を使った「石仏」が置かれています。同寺によると『周辺に六基の古墳があり、どこから出たものなのかは不明』との事で、仏像を彫りだしてはいますが形が鮮明とは言えません。纏向からJR桜井線で南下、大神神社から更に三輪山の山麓を南東に下ると崇神天皇が都を置いた桜井市金屋に至ります。都の伝承地跡とされる志貴御県坐神社から数十メートル先にあるお堂の中に安置されているのは金屋の石仏で、肝心の石棺はなんと、お堂の座の下に隠れています。神社の隣で野良仕事をしていた老婆に尋ねると『もっと山(三輪山)の上に在ったものを今の場所まで持って降りた』そうですが、地元でも余り石棺(蓋の部分のみ)の存在は知られていないようです。桜井には、後一つ石棺があります。それが上・左の画像に見る兜塚古墳(桜井市浅古)で、古墳は金屋から更に南に下り桜井茶臼山古墳等彌神社を結んだ南西線上に位置しています。五世紀から六世紀にかけて桜井の纏向三輪を支配していた豪族は三輪氏族であったと思うのですが、先に「火の国」建緒組そして「播磨」稲背入彦命の足跡を追い求め分析してきた者としては、慶雲寺が穴師兵主神社の近くに建てられ、金屋に至っては崇神帝の本拠地そのものであった事実に強い関心を寄せざるを得ません。(桜井市穴師は垂仁帝の都・師木玉垣宮の伝承地です。次の大王景行帝も穴師付近に都を置き、晩年に至り近江高穴穂宮へ遷都します。また時代は下りますが継体の息子・欽明帝が金屋の近くで金刺宮を営んでいます)

等彌神社から600m南西にある兜塚古墳の主は、等彌(トミ)の名前に象徴される「登美」一族(長脛彦の後裔)の誰かである可能性もありますが、土地の大字が「浅古(アサコ)」だという所に注目すると、ここも又「アサ・アソ」に代表される金属技術集団の影が垣間見え、穴師と同様の土地柄だったと見てよさそうです。金属(鉄)がらみ、鍛冶製鉄を手掛かりにすれば築山古墳の被葬者の姿も仄見えてきそうです。何故なら、この古墳の在る場所が日本刀の産地として有名な瀬戸内市長船町であり、大字は「西須恵」だからです。古代より「真金ふく」と称された備前が鉄の量産地帯であることは皆さんもご承知のことと思いますが、築山古墳から僅か1q足らずの処にオオモノヌシを祀る美和神社が鎮座していることも何か三輪との縁を感じさせます。さて、ピンク石を巡る旅もそろそろ終点に近づきました。最後に紹介するのが天理市にある東乗鞍古墳の石棺です。古墳の所在地は杣之内(ソマノウチ)町ですが、此処は改めて云うまでもなく北方1.5qに建つ物部一族の聖地、石上神宮のおひざ元であり、主祭神の布都御魂大神は「剣」の象徴、武神そのものです。垂仁帝の皇子・五十瓊敷入彦命が配祀されているのは彼が「一千口」の剣を鍛治に鍛造させて奉納したからに他なりません。また「軽括箭・穴穂括箭」説話でも知られる第二十代安康帝は「穴穂皇子」(アナホノミコ)と呼ばれた人物で、彼の都は石上穴穂宮に置かれたと伝えられています。その伝承地の一つ天理市「田町」が県道169号を挟んで杣之内町の真西にあり、穴穂神社も現存しています。田町については旧大字が「穴穂」だったという資料もあるそうなのですが未確認です。この大王の母親が応神直系の忍坂大中姫(彼女の父親が稚野毛二股王)で、父親が允恭大王、つまり長持山古墳を倍塚に持つ河内市野山古墳の主なのです。なんとなく今回は話に「オチ」が着きましたね。

慶雲寺の石仏  金屋の石棺  東乗鞍古墳

西乗鞍古墳が道路に面しているのと違い、すぐ東隣にある古墳に南側から通じる細道が大変わかりにくいので、若し、この夏休み等を利用して現地に足を運ぼうとする場合には下調べを入念になさってください。そうしないと誰かさんのように1時間近くも古墳の周りを歩き続ける破目に陥ります。体一つがやっと入る程の小さな開口部を潜り抜けて石室内部に降りると、奥に半ば埋もれた石棺の姿がかろうじて見えます。つまり、この古墳の羨道もかなりの角度で傾斜し、調査資料によると「階段状」の石組も施設されています。また、冒頭で紹介した近江円山古墳と同様に、阿蘇ピンク石製の刳り抜き式石棺とは別に大和「二上山」から採掘される石材でこしらえた組合せ式石棺が併置されているのです。階段状の遺構を持つ羨道は全国的にも珍しく十数例しか確認されて無いそうで、このサイトでも以前紹介した京都・物集女車塚古墳や猪名川の西岸、川西市火打にある勝福寺古墳(方円墳、全長約40m、六世紀前半)などが同様の羨道を有しています。東乗鞍古墳は、、その位置にまつわる伝承の類が物部一族・物部首(春日市河の子孫)および鍛冶集団との強いつながりを示唆していますが、六世紀前半という築造年代と階段状構造を持った羨道そのものが継体大王ひいては応神・神功系統の勢力との「友好協力関係」を雄弁に物語っています。応神という一人の大王の背後には数多くの「東征」者たちの群像がひしめいているようです。

おまけ話を一つ披露しましょう。日本で最も著名人?かも知れない聖徳太子の母親は「穴穂部間人皇女」という名称を持った人でした。上述の流れからすると「穴穂」大王に因んで設けられた「穴穂部」を直接管理した王族ないしは豪族の許で養育されたと考えられますが、正史によれば確かに彼女の父親は欽明帝ですが、母親は蘇我稲目の娘の小姉君という女性です。父親が大王の地位にあるので、その子女が「部民」を束ねる首長の館で育てられることは儘あるでしょうが、嫁の実家が大実力者の蘇我氏本宗家であるのに、どんな理由で他の「家」に大切な孫たちの育児を任せたのでしょう?何の先入観も持たずに素直に考えれば、太子の母親は蘇我氏の生まれではなく、物部氏の本拠地・穴穂に居た「穴穂部氏」つまりは物部一族の子女だった、という見方が生まれます。同母兄の穴穂部皇子が物部守屋と「結託」して「皇位」を望んだので、蘇我馬子たちに滅ぼされたという筋書きの背景もすっきり分かると思うのですが、如何?

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