曲亭馬琴UFO、お江戸の怪異物語「虚舟」                    サイトの歩き方」も参照してください

長編小説の魁『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん、1814〜)』や『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき、1807〜)』などの作品で知られる、江戸時代後期を代表する戯作者・曲亭馬琴(きょくてい・ばきん、1767〜1848)が、二十三歳で超人気作家の山東京伝(さんとう・きょうでん,1761〜1816)に弟子入り志願をし、寛政五年(1793)から約一年にわたっては版元蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう,1750〜1797)の店に「居候」のような形で住んで居たことは、小説仕立ての「写楽誕生」のページでもご紹介していますが、好奇心の塊とでもいうべき馬琴は文政年間の後期「兎園会(とえんかい)」「耽奇会(たんきかい)」という文人・好事家の集まりにも足繁く顔を出し、文政八年(1825)には色々な奇談を一冊にまとめ『兎園小説』として発表しています(正会員は12名、馬琴の号は著作堂)。勿論、その多くが「何々だったそうな」「誰それがみたそうな」という類の怪しげな「伝聞」なのですが、『虚舟(うつろふね)の蛮女』と題された次のお話には「舟」を描写した細部に妙な具体性があり、恐らく慎重居士の馬琴も、余程、確かな話だと納得した上で編集し、公表したのではないかと思われるのです。

時は享和三年(1803)と言いますから、馬琴たちにとって正にリアルタイムの出来事でした。旗本(幕臣)の小笠原越中守は常陸国(茨城県)を領地(四千石)としていましたが、二月二十二日の午後、その領内である「はらやどり浜」沖合に奇妙な小船が漂着したのです。その舟の形は、

  お香の入れ物のような円形で

  直径は三間(5.4メートル)、上部は硝子障子(ガラス張り)で

  継ぎ目はチャン(松脂)で塗り固められ

  底も丸く、鉄板を筋のように張り合わせ

てありました。そして、更に不思議なことに、その舟には一人の女性が乗っていたのです。その人物は、

  眉と髪が赤く、顔色は桃色、白く長い付け髪

という容貌の持ち主で、無論、言葉は全く通じませんでしたが、二尺(60センチ余り)四方の箱を大事そうに抱え、微笑み続けていたそうです。浜の住人たちは古老も交えて、この珍客の処遇をめぐり相談を重ねたのですが『お上に届け出ると後々が面倒(出費も大かたならぬ)』『かつて、このような者を海に突き流して処理をした先例もある』との判断で、女を元の通りに舟に乗せ、沖に引き出し流してしまいました。『なんとも思い遣りという心のない仕打ちだ』と著者の琴嶺(馬琴の長男、滝沢興継の号、彼も兎園会の会員だった)は嘆いていますが、記録に留められた『蛮字』(「舟」の内部に書かれていた外国の文字)には事の外興味を覚えたようで『よく、内容を知っている人がいたら、是非、尋ねたい』と小説を締め括っています。えーっ、そんな「記録」などあるはずがない−−と言う声が今にも聞こえてきそうですが、事実は小説より奇なり、という格言は本当のようで、その詳細な記録が国立公文書館に保存されています。では、御覧あれ。

 右上に書かれた記号の様なものが「蛮字」です。  京伝の『奇妙図彙』の「蜃気楼」

この「記録図」は馬琴と、ほぼ同世代を生きた江戸時代中期の国学者で時代考証家でもあった屋代弘賢(やしろ・ひろかた、1758〜1841。屋代も兎園会の正会員)が記した『弘賢随筆』にある説明文入りの図絵。中江克己氏の著作『日本史 怖くて不思議な出来事』にも『兎園小説』に収録されている、ほぼ同様の図(「兎園」の図では、女の着衣上下に雲形のような模様がある)が紹介されていますが、どちらの図が本来のオリジナルなのかは分かりません。ただ、この「蛮字」なるものが舟の内部に「多く」記されていた事は確かなようです。そして、この怪しい舟と乗組員のお話は、お江戸の文化人?の間で、かなりの人気を博したものらしく、少し時代が下った天保十五年(1844)に出版された随筆集『梅の塵』(梅乃舎主人・著)でも、享和三年三月二十四日の出来事として再録されています。そんなに有名な「事件」であったのなら、江戸の通人を以って任じていたはずの山東京伝の作品にも、何か一言あって然るべきだと思うのですが、享和三年に出版された『奇妙図彙(きみょうずい)』にも「虚舟」らしい記述は見当たりません。という事は、極、一部の「物好き」さんたちの内輪話だった可能性もあります。また、寛政の改革でお上に「目をつけられていた」京伝が、迂闊なことを書いて、再度執筆停止になってはかなわない、と自粛していた性かも知れません。傍証にはなりませんが、東洲斎写楽の人物像について『増補浮世絵類考』(1844)で能役者の具体的な名前を上げていた江戸神田の町名主・斉藤月岑(さいとう・げっしん、1804〜1878)の『武江年表』にも、お江戸の出来事ではないためか、虚舟は姿を現していないようです。

少しでも「未確認飛行物体」に興味を持っている人であれば、これこそ正にUFO・宇宙人の来襲だと思われるかも知れませんが、お江戸の粋人たちの反応は至極冷静で、先ず、着衣などについて、

  露西亜の人物の衣服と似た仕立てであるし

  白い付け髪も露西亜の風俗のようだから

『案外、この婦人は露西亜属国』の人であるかも知れない、と推理した後、例の「蛮字」などについても、

  近頃、浦賀に来たイギリス船にも「蛮字」があったということなので

  そこから考えるとイギリスの者かも知れない

との判断を下しています。ここで琴嶺が言及している「イギリス船」云々は、恐らく文化十四年(1818)から文政五年(1822)にかけ相次ぎ浦賀の地に来航した船舶のことを指しているものと思われますが、兎園会が開催される直前の文政七年にはイギリス船の船員(軍人?)が無断上陸して、海岸警護に当っていた水戸藩の藩士たちに捕まえられる、という事件を起こしていますから、馬琴たちの外国人・外国への関心も相当高まっていたことが十分想像できるのです。また、一時代前の事になりますが、ロシアのラスクマンという人物が使節として根室に来航したのが寛政四年(1792)で、文化元年(1804)にはレザノフが長崎を訪れ開国を促しています。そして二年後の文化三年、ロシア船が樺太を侵略、外国からの脅威が現実のものとなった経緯があったのでした。この辺りの事情については司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』を読んだ方なら、よくご存知のことでしょう。

   不思議を伝える『扶桑略記』(京都大学収蔵)    

UFOs: Nazi Secret Weapon? (English Edition)

UFOなのか、女が宇宙人だったのか、それとも単なる漂流者に過ぎなかったのか、今となっては確かめる術もありませんが、謎の飛行物体ということであれば、もっと具体的な目撃談が平安時代の資料に残されています。恐らく勉強家の馬琴も知識として持っていたのではないかと想像されるのが『扶桑略記(ふそうりゃっき)』の存在。この本が十二世紀初頭頃(1100?)に僧・皇円によって著されたことは、このオノコロ・シリーズでも既に紹介(「オニさん、こちら」)してきましたが、問題の記述は推古天皇四年の記事です。仏教推進派の旗頭で、王家を凌ぐほどの実力者として並ぶもののなかった蘇我馬子(そが・うまこ)は九年の歳月をかけて飛鳥の地に法興寺(寺司は馬子の長男・善徳)を建立、推古四年十一月には貴族僧侶を一同に集め盛大な竣工記念行事を開催したのですが、異変が起こったのは正に、その式典の真っ最中のことでした。寺の上空に突然現れた、その不可景な光景は、

  一筋の紫雲がたなびき、花蓋のような形のものが

  天上より塔上を覆い、また佛堂をおおった

  五色の光を放ち、飛び去った

これを見た人々は、これこそ有り難い「瑞祥」に違いないと合掌して見送った、と「略記」は伝えているのですが、さてさて、これも本当にUFOだったのでしょうか?皆さんのご想像に任せましょう。それにしても、何事も日常生活の細かな出来事まで克明に「日記」として認めていた馬琴さんが、上で見た「蛮字」のことについて、もう少し詳しく調べてくれていたら……。いやいや、歴史に「IF」は禁物でしたね。

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