奉行さまに出世した隠密お庭番の妻はアイドル!             サイトの歩き方」も参照してください

手に入る限りの医学書・薬学書を読み漁り、自らの「健康」維持・増進につとめるだけでなく、家来たちの「症状」に合わせて特効薬を調合。加えて効き目も絶大であったことから、家臣たちのあつい信頼を築く基にもなったのだとか…。とかく長生きの好例として取り上げられる機会が多い徳川家康(1543〜1616)ですが、小石川御殿と称された綱吉(つなよし,1646〜1709)時代の別邸跡に薬草園が移転したのは貞享元年(1684)のこと、そして時代劇などでも有名な八代将軍・吉宗(1684〜1751)の時代になると45,000坪余りの御殿跡のほとんど全てが薬園に様変わりします。「享保の改革」を強力に推し進めた吉宗が「目安箱への投書」を参考にして小石川療養所「施薬院」を設けたのも享保6年の事でした。文政元年と言いますから、ほぼ半世紀の後、古希を迎えることになった杏花園こと大田南畝(おおた・なんぽ、1749〜1823)は備忘録『武江披砂』を記し、その「外編巻一」の中で次のように述べています。

  小石川白山御殿跡瘡守稲荷の儀
  宝永年中和田倉御用屋敷に住居の節、京都吉田家の雑掌屋敷へ相越し、摂津国芥川瘡守稲荷を屋敷の鎮守に勧請致す。
  正徳年中、右の御用屋敷一統引き払い、白山御殿跡にて替地拝領致し候節、右鎮守をも白山へ移し候処、奇瑞の義有り、
  これを信仰の者も有り。(割注)大前氏屋敷。
  その後、三崎の旦那寺へ移したるなり。

ここで紹介されている「摂津国芥川」の「瘡守稲荷」というお社は、これまでにも石川年足の墓誌や、蘇我氏あるいは藤原鎌足に関するページなどで何度か取り上げたことのある、大阪高槻の笠森神社のことなのですが、江戸期には「瘡(かさ)=皮膚の病気(天然痘など)」から守ってくれる有りがたい神様として人気が高かったようです。ただ、WEB上での幾つかの記事を見ると、史実を伝えようとした南畝の思惑とは異なり、瘡守稲荷の実像とは異なる「解釈」も一部には流布しているような按配です。少し、調べてみると情報混乱の一因が明らかになったように思われますので、皆さん方にもお披露目しておきましょう。(幕府に差し出した「家伝」によれば、大前氏の本姓は藤原氏で、もともと三代家光(いえみつ,1604〜1651)に仕えたようです。南畝の「情報」では、京都の吉田家の名が挙げられていますから、江戸中期には笠森稲荷の「名声」は既に相当なものだったのでしょう。この「吉田家」は、神道の本宗家だと推測されます)

笠森神社(高槻) 年足神社  茶屋の店先

南畝が上で書きとめた「大前氏」は、宝永五年(1708)徳川綱吉に召抱えられた大前孫兵衛重職(しげもと)だと思われ、彼は元文三年八月に七十一歳で亡くなっていますが、同家の墓は「谷中の大円寺」と伝えられています(『寛政重修諸家譜』ならびに『江戸幕府旗本人名事典』より)。そこで『大日本寺院総覧』を紐解くと、次の記述にめぐり合いました。

  瘡守薬王菩薩を安置す。俗に笠森稲荷と称し、その名高く、像は正徳元年、幕臣大前孫兵衛重織(ママ)の摂津より勧請したるものにして、
  享保五年、当寺の日芳上人に帰依して、これを当山に納めたるものなり。

移転の時期について多少の異動はありますが、南畝が記録しておいてくれた「瘡守稲荷」が、現在の台東区谷中(旧・三崎町)にある大円寺の「瘡守薬王菩薩」であることは確かなようです。お稲荷さんが、どうして「菩薩」に変身したのかについては想像するしかないのですが、恐らく、明治の御一新に伴って嵐のように吹き荒れた「廃仏毀釈」(と言うか、神仏分離)の大波から、由緒ある(しかも大切な檀家が勧請した)神様を護るためだったように思われます。また元々が能役者(猿楽)の家筋だったとされる大前氏が、態々、摂津の笠森神社を氏神のようにして祀った理由も良く分からないのですが、同じ「谷中」には、もっと有名な笠森稲荷が存在していました。そして、こちらの情報を世に知らしめたのも又、大田南畝だったのです。文人あるいは趣味人として幅広い分野の人々と親交のあった南畝ですが、あまた居る「絵師」の中でも特に『妙を得た』と高く評価、随筆でも『今の錦絵という物は、この人を祖とす』とまで語ったのが鈴木春信(すずき・はるのぶ,1725〜1770)。平賀源内(ひらが・げんない,1728〜1780)と共催した絵暦交換会は有名ですが、明和の頃(1764〜1771)春信が好んで描いた一人の人物がおりました、その名も「笠森お仙」と申します。(以下に紹介する浮世絵は全て東京国立博物館が収蔵している物です)

春信が描く「お仙」 土平伝より  大田南畝  PR

日本随筆大成』に収められている南畝の『半日閑話』巻12には「笠森お仙その外」という一項があり、次のように紹介されています。(少し、長い引用になりますが、当時の人気ぶりを偲ぶには格好の文章だと思いますので…)

  谷中、笠森稲荷地内、水茶屋女お仙(18歳)美なりとて、皆、人見に行く。家名、鎰屋五兵衛という。錦絵の一枚絵、或いは絵草紙、双六、
  読み売りなどに出る。手ぬぐいに染める。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形にも作りて奉納す。
  明和五年五月、堺町にて中村三甫蔵が台詞に言う、采女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙と云々。是よりして益々評判あり。
  その秋七月、森田座にて中村松江おせんの狂言あり大当たり。浅草観音堂の後ろ、銀杏の木の下の楊枝見せ、お藤も又、評判あり。(中略)
  童謡「なんぼ笠森お仙でも銀杏娘にかなやしよまい(実は笠森の方、美なり)道理でカボチャが唐茄子だ」という詞はやる。

解説を加えるまでも無いと思いますが「明和五年(1768)」頃、江戸では茶屋娘・お仙の人気が沸騰、錦絵は勿論、読み物・双六・瓦版などにも度々取り上げられ、姿を似せた人形まで作られました。また、庶民が集まる歌舞伎の舞台でも相次いで「時の人」として取り上げられ、即興の台詞にまで、その名が登場して大喝采を博したというのですから、これは正に「お江戸のアイドル」No.1と言って良いでしょう。そんな大人気の「おせん」さんを一目見ようと、武士町人の別を問わず茶屋にお客が殺到、その有様は、子供たちの間の流行り歌にまでなったのです。

  向こう横丁のお稲荷さんへ。一文あげて、ざっと拝んで、お仙の茶屋へ。
  腰を掛けたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目でみたらば、米の団子か土の団子か、お団子団子。
  この団子を、犬にやろうか、猫にやろうか、とうとう鳶にさらわれた。

この「鎰屋(かぎや)」が店を構えていた場所が、谷中感応寺の裏門脇で、春信の浮世絵(上左の画像)に描かれた様な格好で客に「茶」と「団子」を売り、商いとしていたようです。幕末、天保元年(1830)に刊行された喜多村信節の『嬉遊笑覧』という著作にも、瘡守稲荷に関わる事柄が詳しく書かれているそうなのですが、国立国会図書館の近代ライブラリーで見た限り確認できませんでした。そして「事件?」は起こります。お仙の人気が最高潮に達した明和七年春二月、突然、彼女の姿が店先から消えたのです。詮索好きの江戸っ子たちは『神隠しにでも遭ったのでは』『いやいや、誰かと駆け落ちしたに違いない』はたまた『人気者だから外の店が引き抜いたのだ』などと噂しあったのですが、実は、この時、お仙は武家に嫁いでいたのです。(注記=この「感応寺」は、元禄12年天台宗に改宗した後、1833年に「天王寺」と改称しています。お仙の居た茶店があった場所は、現在の「功徳林寺」辺りだとされています。)

お仙(重政) 寛政武鑑より 挿絵   錦絵(晴信)

ご存知のように、八代将軍吉宗は紀州藩主から正徳六年に徳川の宗家を継いだ人物ですが、江戸入りに際しては政権の運営に必要な人材(御用取次など)は勿論、彼が最も信頼を置く子飼いの藩士二百余名を帯同しました。その中には、俗に「伊賀者お庭番」と称される警備と隠密御用を担当する者も十七人含まれていたのですが、お仙を娶った倉地家も吉宗の母、浄圓院の下向に従い享保三年(1718)江戸に移り住んでいます。「家伝」では家祖の右馬助が家康の父である徳川広忠に仕え、その息子も当初は家康に仕えたが、十男の頼信(1602〜1671)が紀伊大納言として関西に送り込まれた折、警備・隠密専門家として扈従したようです。(古い資料には『御庭番家筋の者共』という表現がありますから、少なくとも吉宗が紀州藩を治めていた頃には、世襲の家柄になっていたものと考えられます)

ここからは想像の域を出ませんが、本来「人目を忍んで」職分を果たすべき「御庭番」の一員であった倉地家の三代目・文左衛門が、選りにもよってお寺の出入り口に近い敷地をわざわざ借り上げ、関東では珍しい?「笠森稲荷」を勧請したのかと言えば「情報収集のため」という理由しか浮かびません。彼が大の信者であったのは、神君家康が瘡の病に悩んでいた時、笠森稲荷に頼んだところ忽ち全快した、からなのだといった「伝承」もあるようなのですが、感応寺が「富くじ」の勧進元であったことも考慮すれば、黙っていても人が群がる場所に「霊験」あらたかな稲荷を祀り、合わせて茶店も開けば、江戸中の「噂」の類は向こうから勝手に飛び込んでくる…、そう考えたとしても決して可笑しくはありません。二十歳のお仙を嫁とした果報者は、明和二年六月に家督を継いだ倉地政之助という人物でしたが、彼はお庭番を務めた後、明和三年には御休息お庭の者支配に昇格し、更に東洲斎写楽が蔦屋からデビューした直後の寛政六年七月には、幕府の金庫を管理する払方御金奉行(上右の画像参照)にまで登りつめています。つまり、大変「優秀」なお庭番だったと云うことです。

「かさもり稲荷」についての情報が混乱した背景には、江戸っ子たちが「お仙」の居た「笠森」と、病気平癒の「瘡守」を混同した事情があったのでは無いでしょうか?そして何より、庶民の間で「お仙」の人気は只事ではありませんでした。何故そのように推測出来るのかと言うと、茶屋の店頭から彼女が消えて百年近くが過ぎ去った後でさへ『怪談、月の笠森』『雨催、月の笠森』『空朧、月の笠森』などの外題で次々と歌舞伎芝居が演じられているのです。正に「笠森お仙」は伝説上の「美女」としてお江戸の男達によって語り継がれた存在だったようです。また、大正時代に「文豪」たちが建てた石碑も、今となっては余計なお世話だったとしか言い様がありませんね。

お仙の旦那・政之助は1741年頃の生まれだと考えられますから、当然、南畝の出世作となった『寝惚先生文集』は勿論の事、妻・お仙の評判を題材にした『飴売土平伝』などの作品の内容も職掌柄承知していたでしょう。心機一転?した南畝・大田直次郎が第二回学問吟味で主席となった後、勘定奉行配下の支配勘定を務めることになったのを見て、彼は、どのような印象を懐いたことでしょう。余談ですが、政之介・お仙夫婦の息子たちも父に劣らず優秀な「お庭番」であったらしく、家督を継いだ「久太郎」は東京大学資料編纂所が調査した新潟市郷土資料館所蔵の『川村清兵衛修就文書』によれば、天保八年三月に起きた「大塩平八郎の乱」に際して直後に「大坂表」へ遠国御用を命じられていますし、それ以前にも「上方筋」(天保四年三月)、「紀州」(天保五年六月)などへ「御用」のため派遣されています。

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