写楽は能役者だったか?武鑑に名前の無い斎藤十郎兵衛の謎              「サイトの歩き方」も参照してください。

「武鑑」は江戸期に発刊された謂わば紳士録のような書物で、上は征夷大将軍の徳川宗家から下は御家人、奥医師、奥絵師、御坊主まで、ありとあらゆる階層の「武士」の身分を持っている人たちを、それぞれの区分に従って列記した名鑑です。その原型は十七世紀前半には凡そ出来ていたようですが、現在伝えられる一定の形式が整えられたのは十七世紀半ば位のようで、オノコロ共和国日本史探訪の主役の一人、お江戸の浮世絵師・東洲斎写楽その人ではないかと多くの論者が考えている阿波蜂須賀藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛の縁者の名前(輿右衛門)が見られるのも、同世紀後半に発刊された「武鑑」からです。但し、筆者が全ての武鑑を調べ上げた訳ではありませんので、彼の名前がより以前から掲載されていた可能性は残ります。十郎兵衛が属していた喜多流が徳川家の後援によって金剛坐から独立して一流を立てたのが1620年、その十年後位には喜多「坐」も出来上がりつつあったようですから、喜多流草創期近くから謡(うたい)を専門とする坐の一員であったことは確かなようです。

江戸期の猿楽(能)に関する資料『重修猿楽伝記』と『猿楽分限帳』(文化七年)には喜多七太夫支配の役者として「父 与右衛門 斎藤十郎兵衛 午四十九」が記録されており、国立公文書館が収蔵している「御役者明細短冊」の中にも「無足人 地謡 本国武蔵、生国武蔵 父斎藤十郎兵衛 斎藤与右衛門 丑に七十歳」と明記されています。さらに嘉永七年(文政元年、1854)版の『改正本八町堀辺図』(近江屋金吾堂)でも八丁堀地蔵橋の家並の一角に、村田治兵エの隣人として斎藤与右エ門の名前が見えていますから、斎藤与右衛門を名乗る人物が1854年当時、地蔵橋で暮らしていたことに間違いはなさそうです。ただ、僅か八年後の文久二年(1862)版『文久八町堀細見絵図』には既に名前が掲載されていない点は不審と云えるでしょう。何故なら、この「与右衛門」は上の『重修猿楽伝記』の「喜多流分限帳」に「無足人」と記された人に他ならないとすれば「明細短冊」にある様に「丑に七十歳」つまり慶応元年(1865)で七十歳になっているのですから、文久二年の細見図に名前が無いのはおかしいのです。引っ越したかも知れない…、そう考える事もできます。では、次の表を見てください。「武鑑」自身に能役者の歴史、足跡を語らせてみましょう。

和 暦  西 暦 名  前  住  所  和 暦  西 暦 名  前  住  所 和 暦   西 暦  名  前 住  所 
 天和元年  1681  斎藤与右衛門  京はし四丁目  宝暦三年  1753  斎藤与右衛門  弓丁よこ丁  天保八年 1837  斎藤与右衛門  八丁掘七けん丁
 天和三年  1683  同  上  同  上 宝暦十一年  1761  同  上  京はし 天保十年  1839 同  上 同  上 
 元禄元年  1688  同  上  同  上 明和元年  1764  同  上  京はし 弘化三年 1846 同  上 同  上 
 元禄四年  1691  同  上  同  上 安永三年  1774  同  上  八丁堀地蔵はし 弘化四年 1847  同  上  八丁堀
 元禄八年  1695  同  上  京橋さい木丁 安永七年  1777  同  上  同  上 嘉永四年 1851  同  上 八丁堀七軒丁 
元禄十一年  1698 同  上  同  上 天明元年  1781  同  上  同  上  嘉永七年 1854 斎藤輿右衛門 八丁堀 
元禄十七年  1704 同  上  さい木丁五丁メ 寛政九年  1797  同  上  八丁堀七けん丁 万延二年 1861 同  上 同  上
 宝永元年  1704 同  上  同  上 寛政十二年  1800  同  上  同  上 元治二年 1865 同  上 同  上 
 宝永七年  1710 同  上  同  上 享和元年  1801  同  上  同  上 慶応二年  1866 同  上 同  上
 正徳四年  1714 同  上  さいき丁 文化三年  1806  同  上  同  上 慶応三年  1867 同  上 同  上
 享保三年  1718 同  上 こびき丁?  文化六年  1809  同  上  同  上 この表に見えているものが江戸期に出版された物の
全てではなく、武鑑自体は毎年ごとに発刊されています
嘉永年間以降については先行していた須原屋版のもの
が国立国会図書館にもほとんど収蔵されていないため
やむを得ず出雲寺版の記載内容によっていますが、恐ら
く「七軒丁」にそのまま住み続けていたと思われます         
享保十六年  1731 同  上 弓丁ヨコ丁  文化八年  1811  同  上  同  上
元文六年  1741 同  上 記載なし  文政二年  1819  同  上  同  上
延享四年  1747 同  上 弓丁ヨコ丁  文政六年  1823  同  上  同  上
寛延三年  1750 同  上 記載なし  文政十一年  1828  同  上  同  上
 [追録]国文研が収蔵している「武鑑」を調べた結果、斎藤与右衛門が八丁堀地蔵橋から八丁堀「七軒丁」に転居したのは天明4年(1784)であることが分かりました。        

詳しい説明は不要だと思いますが、一応解説を加えます。史家の中には「民間業者」が営利目的で出版していた「武鑑」の資料価値を殊更に低く貶めようとする向きがありますが、商家の「売り物」だからこそ間違った情報は載せられないと考える方が理にかなっています。この書物を求める人々は記事の内容に利用価値を認めて購入するのであり、誤情報は正に言葉通り命取りにも成りかねないのですから…。(A職の責任者だと思い陳情したらB職の下っ端に過ぎなかったとしたら名鑑の役目を果たせません。下右の画像は寛政十年から文化八年の間に作成されたと考えられる『古組屋敷絵図』の一部で八丁堀地蔵橋周辺を描いたものです。この絵図では斎藤家や国学者村田春海の家があった場所は「明き与力屋敷」と表現されています。赤枠で囲んだ上にある木目状の部分が地蔵橋です)

安永三年版の武鑑より  寛政九年版の武鑑より  屋敷図(部分)

先ず、喜多流能楽師の古参メンバーの一人である斎藤輿(与)右衛門を名乗った人々は、天和元年の「京橋四丁目」を振り出しに「京橋材木丁(1695)」、「材木丁五丁目(1704)」「材木丁」そして「木挽丁(1718)」、「弓丁横丁(1731)」、「京橋(1761)」と何度も転居を繰り返し、安永三年(1774)に「八丁堀地蔵橋」に移った後、寛政九年(1797)には「八丁堀七軒丁」に引っ越しますが、その後は幕末まで八丁堀以外の土地へ住居を移すことはありませんでした。東洲斎写楽に擬せられる斎藤十郎兵衛は『重修猿楽伝記』などの資料から「1763年」の生まれだと見られますので、上表の中に彼を位置付けるとすれば、

  十二歳の年(1774年頃)に父母らと共に初めて「八丁堀」に移り住み、働き盛りの三十代半ば(1797年頃)までに「七軒丁」に竟の棲家を構えた

のだと見てとることが出来るでしょう。ところが十郎兵衛一家の物であるとされるお寺(法生寺)の過去帳は、全く異なった記事を記録しています。研究家たちによれば、その資料には斎藤家の人たちと思われる記述が豊富にあり、今、問題となっている住居に関わる情報も間接的な表現で示されています。最も関連の深い寛政年間には、

  三年六月(1791)   「当時 八丁堀 松平阿波守様内居住 斎藤与右衛門 事」(この人は、十郎兵衛の父親だと思われる・筆者註)
  十年十二月(1798) 「南八丁堀 松平阿波守様内 斎藤重郎兵衛 祖母」
  十一年三月(1799) 「南八丁堀 松平阿波守様 家中 斎藤重郎兵衛 子 二歳」  

とあって彼らの住いが「寛政十一年三月」まで阿波藩屋敷内にあった事を想像させます。そして、これに続き享和元年(1801)三月の事として「北八丁堀地蔵橋 斎藤十良兵衛 子」に関する記述が現れることから、十郎兵衛たちが元号が享和に変わるまでの間に藩邸内の長屋を出て「八丁堀地蔵橋」に新居を移したのだと考えられるのです。これは上述した表の移動記録とは全く矛盾している事になります。何より、十郎兵衛の父親は「寛政三年」に死去しているのですから、少なくとも寛政四年から文政三年の間、斎藤家の当主は次世代の「十郎兵衛」本人であったはずなのに、その期間も武鑑に彼の名前は一度も出ていないのです(上表の背景を青くしている部分)。また、冒頭の部分では混乱するのを避けるため敢えて触れませんでしたが「猿楽分限帳」等の資料に出ている「与右衛門」と「明細短冊」に名前がある「与右衛門」は別人である可能性もあります。それは『重修猿楽伝記』に収められている「天保十四年(1843、癸卯)」の喜多流分限帳に記された名簿の中で斎藤与右衛門は「卯に五十二歳」(下左の画像)と紹介されています。当時は「数え年」ですから彼の生年は1792年と云うことになります。ところが、慶応元年(1865、乙丑)に能役者たちが幕府あるいは徳川家の一門に提出したと思われる「明細短冊」の与右衛門は「丑に七十歳」(下右から二番目の画像)とあって、生年は1796年に繰り下がります。また幕末に記録された「明細短冊」は公式な文書ですから、当時「四十六歳」になっていたはずの息子・十郎兵衛(卯に二十四歳)の明細も同時に上げられていなければならないはずですが、何故か見当たりません。息子の記載が無いのは@旧幕府から明治政府へ文書が引き継がれた時に散逸した、A何らかの事情で幕末までの間にお役者を辞していた、B親に先立ち亡くなっていた、などの理由も考えられなくはありませんが、肝心の与右衛門の生まれた年が「四年」も違っているのはどう考えても不自然としか言いようがありません。

分限帳  分限帳  明細

相反する三つの記録を無理なくまとめて説明できる方法は無い物かと随分思案したのですが、どちらかが間違っていたにせよ、三方の記述内容には@名前、A時間(年月)、B場所(住い)の三点で食い違っているため、整合性のある結論を見つけ出すことが出来ません。それは、

  T 写楽研究家たちが探し出した斎藤十郎兵衛、斎藤与右衛門親子と「武鑑」に掲載されている斎藤与右衛門は別人であるかも知れない。
  U 「重修猿楽伝記」「猿楽分限帳」に見える斎藤十郎兵衛、斎藤与右衛門親子と「明細短冊」を提出した斎藤与右衛門は別人であるかも知れない。

の二つの事柄を示唆しています。江戸期の八丁堀細見図に見える「斎藤与右衛門」が同姓同名の別人であったかも知れないという一縷の可能性は、村田春海の姪が「垣隣」の能楽師の子供を養子に迎えたという「証言」(伝聞)によって否定されていますから、些かも残されていないように思えます。であれば斎藤与右衛門を名乗った人物が「二人」居たと考えるしか無いのですが、それも又「在り得ない」事柄であるとするなら、一体どのように考えれば良いのでしょうか?五里霧中とは正に此のことです。何にしろ、今までに集め得た文献資料の何れもが、それぞれに異なった内容を伝えているため、肝心の部分で資料同志を交叉させて真実の姿を浮かび上がらせようとする試みは成功していません。村田一家が地蔵橋近くに落ち着く前、寛政六年から寛政十一年(1799)まで住んでいた場所が「南八丁堀五丁目 相模屋文次地面内」であることは、彼が本居宣長宛てに出した書簡によって明らかになっていますが、そこが正に斎藤十郎兵衛たちが生活していた阿波蜂須賀藩邸の真向かいだったのは果たして偶然だったのか?謎は尽きることがありません。過去帳記載の記事内容から斎藤十郎兵衛には1792年に産まれた与右衛門(長男?)の他にも1798年と1801年に産まれた子供が居た事が分かっています。三文小説を得意とする散文家であれば、ここで『1795年頃に産まれた利発な次男が、何かの機会に村田の姪・多勢子と出会った』一幕物のシナリオを書きあげるところです。そうすれば「阿洲侯の能楽師」の子を幼い頃から養子として育てたという伝記とも齟齬することはありません。如何にお抱え能楽師といえども長屋ではなく、元与力屋敷の一角(数十坪)を賃借するのは経済的にも困難だったのではないかと思われますが、養父の春海を多勢子が説得し、自分の養子とした春路の両親たちのために隣家に住む為の費用の一部を負担していたのではないかと忖度することも強ち的外れな見方ではないでしょう。藩邸内に居れば「家賃」は不要のはずです。少ない給金の中から今まで必要のなかった決して小さくない出費を伴う転居を十郎兵衛が、この時期、つまり寛政十二年頃に行うには何らかの明確な理由があったと推測すべきです。人は訳もなく、不経済な行為をしないものです。

歌人国学者として高名な村田春海自身が、阿波藩邸内に居住していた詩や書を得意とするお抱え文人たちに招かれていたと考える方が自然かも知れません。多勢子が「偶然」藩邸から出てきた子供に町中で遭遇する確率よりも、幾度となく父に連れられ訪れた阿波藩邸の一隅で、能楽師の子供に出会う機会の方が断然多いことは言うまでも無いでしょう。歌舞伎役者瀬川富三郎(下右画像)が編集したとされる『諸家人名江戸方角分』の奥書が、大田南畝の筆によるものなのか疑問視される理由については前回詳述しましたが、偽筆であれば「方角分」の資料価値が格段に低くなります。つまり「写楽斎」の存在自体が疑われると云うことです。また、過去十年近くにわたって写楽シリーズの中でも展開してきた持論ですが、寛政三年六月に父親が死去したため、斎藤家の収入は十郎兵衛の給金「五人扶持、切米金二枚」のみとなり、一家数人は相当切り詰めた生活を余儀なくされます。そして、ほぼ同じ頃に結婚したと思われる彼は翌寛政四年に跡取りの与右衛門を授かっているのです。藩主直々ではなくとも、御役者を監督する立場にある直接の上司から『稽古に励み精進して役者の本分を尽くすよう』激励の言葉が掛けられたことでしょう。案外、出産祝いに赤ん坊の肌着位は貰い受けたかも知れません。家族全ての将来が十郎兵衛の肩にかかっていたのです。そのような生涯の最も大事な時期に、事もあろうに歌舞伎小屋に入りびたり、毎日、ただ只管十か月近くも役者絵を描き続ける生活を彼が選んだと皆さんは思われるでしょうか?しかも同じ藩邸内には、能楽師たちだけが暮らしていた訳ではありません。少し後の時代の資料になりますが文久三年に出版された『文久文雅人名録』という出版物には、

  伊藤 雄之進(画)     宮内 与三郎(画)     増田 孝之助(詩書)     高 鋭一(詩)     増田 道太郎(詩書)     宮崎 実右衛門(書)

など分かっているだけで六名もの人物が「阿州藩」の藩士として掲載されているのです。先輩の能楽師たちだけではなく、これらの文人たち家族も同じように屋敷内の一隅に皆居を構えていたでしょう。壁に耳あり障子に眼ありの諺ではありませんが、各人の暮らしぶりが現在と同様、周りから遮断されプライバシーが厳重に守られていたなどと考える方がどうかしています。更には、藩士の生活ぶりを常に監視する目付制度があり上級者だけでなく下級武士たちにも監察者の視線が注がれていたことを忘れてはなりません。いかに「非番」の折であっても長期間にわたる不行跡が簡単に見過ごされるなど在り得ない時代だったのです。その意味で「藩お抱えの能楽師が、片手間に役者絵を描く」ことは、正に絵空事に近いと言えるでしょう。江戸でも音に聞こえた歌人の家族から、利発な次男?を養子として貰い受けたい、ついては将来の事も考えて八丁堀地蔵橋に家を構えることにした…、ぎりぎりの生活をしていたある日、そんな申し出があったとして、貴方ならどのような返答をしますか?(下左画像の青枠部分が南八丁堀五丁目です)

藩邸周辺の図  加藤千蔭像  瀬川路蝶 

村田と阿波藩のつながりは単なる思い付きではありません、物証もあります。彼と同門、賀茂真淵を師と仰ぐ県門の兄弟子で加藤千蔭(本姓は橘、1735〜1808)という人がいました。放蕩が過ぎて家業を潰し落魄していた村田の才能を惜しんで、地蔵橋の居宅を斡旋したのも加藤だと見られていますが、元々、町奉行与力の職に在った彼が八丁堀界隈の「住宅事情」に精通していたのは当然でした。その千蔭は春海に先立つ事三年、文化八年(1808)に物故しているのですが、その前年六月に描かれた肖像画が東京国立博物館に収蔵されています(上中央の画像)。その絵は二人の画家による合作と伝えられ、その内の一人が阿波蜂須賀藩のお抱え絵師・渡辺弘輝(阿波生まれ、1778〜1838)でした。彼は、江戸において住吉派と称される流派に属していた人物ですが、それは渡辺の師匠が幕府の御用絵師・住吉広之(1755〜1811)だった縁によるものです。彼は千蔭の肖像を描く三年ほど前、老中職を辞して文化活動に励んでいた松平定信が編集した『輿車図考』(文化元年成立?)という書物の挿絵も担当しています。定信が阿波藩にさえ正式に出仕していない一画学生を知っていたとは考えられませんから、定信と交流のあった住吉の推挙によるものだったと考えられます。ただ、千蔭の肖像画に関しては村田と同様、国学と和歌の師として阿波藩主が屋敷に招き講義を受けていた縁が在った証ではないかと想像されるのです(最期の物になるかも知れない自画像を、何の関わり合いも無い絵師に頼むのは不自然ですから)。加藤は定信が行おうとした「寛政の改革」に先駆け天明八年(1788)「病」を理由に与力を辞して学問と和歌の世界に没頭していました。春海とは性格も歌い振りも異なりますが、失意の渦中にあった村田にとっては大変頼り甲斐のある存在だったに違いありません。筆者は二人で香取への旅(寛政六年四月十八日〜五月二日『香とりの日記』)を楽しんだ後、阿波藩邸前の南八丁堀に借家を周旋したのも千蔭自身であり、更には阿波藩そのものに村田春海の文才を売り込んだのも加藤本人だったと睨んでいるのですが、流石にその証拠までは見つけ出せません。

竟の棲家のある八丁堀地蔵橋には絵師・谷文晁(1763〜1832)の妹(谷舜英)夫婦が既に住んでいましたから、春海が屋敷の直ぐ近くに引っ越してきた事は、旬日を経るまでも無く定信の耳に入ったことでしょう。村田が何時から白河侯の俸禄(五人扶持)を受けるようになったのか、正確な期日までは不明ですが転居に必要な出費などを考慮すると、南八丁堀で暮らしていた時から扶持米を頂いていたと考える方が良いのかも知れません。彼は一度財産全てを失った後で、与力だった板倉氏屋敷の「台所部分だけ」を借りたのではなく「購入」していますから、相応の蓄えが手許になければとても一部とはいえ家屋を入手することなど出来なかったはずです。書簡の中に見える『大切な書物があるので蔵の或る家が望ましい』と云う春海の贅沢な希望こそ叶いませんでしたが、真から弟弟子の行く末を案じていた加藤は、自宅にも近く加えて村田の庇護者である定信の屋敷からも遠くない、理想的な住居を探し出して呉れたのだと言えます。これで村田と斎藤両家の養子縁組の背景は大体説明がついたと思うのですが、資料によって異なる「年齢」と「住所」の問題は未解決のままです。次回は、やや論点が写楽探しから外れますが「武鑑」そのものの紹介と、お抱え能役者の給金について述べてみたいと思います。とは言え、何時ものことで突如変更されるかも分かりません。

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