阿波国分限帳に記されている斎藤十郎兵衛、与右衛門と写楽      サイトの歩き方」も参照してください

江戸期の浮世絵そのものには格別興味が無くても、東洲斎写楽という浮世絵師については関心が有るという方は少なくないと思いますが、多くのWEBサイトの写楽関連記事でも引用されることが多い近世の専門家の著作には次のような文言が記されています。(2007年2月刊、中公新書『写楽』)

  寛政四年八月成の『御両国無足以下分限帳』という、阿波と淡路両国の下級武士への給与表とも言うべき資料に、
  「御役者、五人扶持判金弐枚、斎藤十郎兵衛」という、まさしく寛政期の斎藤十郎兵衛の実在を明示する記事のあることを(中略)後藤捷一氏が報告された。

また「斎藤十郎兵衛=写楽」説の旗頭と目されている人が1999年に公刊した『写楽』(保育社刊)という作品の「阿波能役者の立証」というページにも、

  昭和31年、藍染研究家、後藤捷一氏は、阿波蜂須賀家藩士名簿とも呼べる蜂須賀家の古文書『蜂須賀家無足以下文限帳(徴古雑抄続編所収)』
  寛政四年度『御両国(阿波、淡路)無足以下分限帳』の御役者の項に、江戸住能役者斎藤十郎兵衛、斎藤与右衛門の名を発見した。
  十郎兵衛、与右衛門ともに能役者として五人扶持判金弐枚の給金で蜂須賀藩江戸藩邸に抱えられていたことが分かった。

と、より詳細に論拠を支えている元資料について明記しています。筆者を含め一般の読者が上記のような記述を読めば、恐らく内容そのものに疑念を抱くことは先ず無いでしょう。何故なら、読者にすれば社会的にある程度の地位を得ている人物が公にした書物の中で、その著者が読む側の判断を誤らせかねない事柄を敢えて披露するはずがない、という暗黙の了解とでも言うべき信頼感を「書籍」に対して抱いているからに他なりません。更に言えば、一般の読者が歴史的な文献資料などを直接閲覧できる機会は極限られているため、水先案内人の役割を果たしている著作者の「引用」を信用した上で論説などの文章を読むしかないというのが現実です。勿論「我田引水」は古今の現実、世の常ですが、それでも引用文にまで細工を弄していると考えながら読む人は稀でしょう。写楽について、というより斎藤十郎兵衛について調べた経験のある方なら、上の引用文の何処に問題があるのか、既に気づいておられることと思いますが、予備知識を持たずにサイトを訪れた読者のために解説を加えながら先に進みます。

 『浮世絵考証』(大田南畝) 写楽 これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む 

南畝  「江戸方角分」より  PR

江戸の町名主で文化的な活動への取り組みも熱心だった斎藤月岑(1804〜1878)が『増補浮世絵類考』の中で、東洲斎写楽という絵師が「八丁堀地蔵橋に住む、阿波徳島藩の能役者・斎藤十郎兵衛である」と、祖本となった大田南畝(1749〜1823)が寛政年間に書き上げた「浮世絵考証」の短い紹介文に、住所氏名など具体的な加筆修正を加えたのが天保十五年(1844)でした。そして写楽を含め江戸の浮世絵師たちについての同時代資料は殆ど存在しないため、幕末から昭和初期に至るまで一世紀ほどの間は「写楽別人説」も数えるほどしか発表されていなかったのですが、昭和30年代以降正に雨後の竹の子の如くに新説奇説が誕生、写楽探しは歴史ブームの後押しも手伝い、国民的な知的娯楽の観を呈するほどの人気を背景に「過熱」したものでした。そんな折、もう一つの「写楽斎」に関わる同時代資料が研究家によって「発見」されます。それが『諸家人名江戸方角分』(上の画像)と呼ばれる未刊の写本だったのです。ここから「写楽斎=写楽=斎藤十郎兵衛」説が勢いを得て巷間に流布することになり、能楽資料である『重修猿楽伝記』『猿楽分限帳』の調査によって斎藤家では「十郎兵衛と与右衛門の名前を代々交互に使用した」事実も明らかになりました。これが昭和58年(1983)夏までの推移です。更に十数年の後、十郎兵衛本人のものとされる過去帳が平成九年(1997)六月になって埼玉越谷で見つかり、彼の生没年が「1763〜1820年」であることも判明、同時に家族に関わる次のような記載事項も在ったことが公表されました。(一般的に過去帳には、故人の享年が記され、各人の諱も書き留められているはずなのですが、斎藤家の物は異なるようです)

  寛政三辛亥年(1791)六月朔日、火(ママ) 暁雲院釈素元居士 当時 八丁堀 松平阿波守様内居住 斎藤与右衛門 事

写楽・十郎兵衛説によれば、阿波徳島藩から扶持を貰っていたお抱え能楽師の身分でありながら、斎藤十郎兵衛という人物は阿波藩藩邸内の長屋に家族と一緒に生活しながら、寛政六年五月から凡そ十か月もの間歌舞伎芝居の小屋に入りびたりつつ役者絵などを描き続けていたとされる訳ですが、彼の家では「二つの名前」を世代ごとに交互に名乗ったはずですから、上に引用した人物は「斎藤十郎兵衛の父親か、或いは彼の子供」のどちらか以外では在り得ません。そして『猿楽分限帳』などの研究により、斎藤十郎兵衛を「父」に持つ「斎藤与右衛門は卯年(1843)で五十二歳」に成っていますから、この「寛政三年六月」に亡くなった「与右衛門」は、斎藤十郎兵衛の父親だと断定することが出来るはずなのですが画期的な「発見」を紹介した大手新聞社の記事ではどういう訳か過去帳に『父と妻の記載は無い』と書かれています。それはさておき、ここで、冒頭に引用した文章が包含する決定的な矛盾が明らかになってきます。つまり、

  寛政三年六月に亡くなっていたはずの斎藤与右衛門が、寛政四年八月時点で俸給を下されるはずがない

存在していない「家臣」に給与を支払う藩など在り得ないのです。従がって「寛政四年八月」に蜂須賀藩から「五人扶持判金二枚」を支給されていた斎藤与右衛門と、写楽だと名指しされてきた斎藤十郎兵衛は「親子」では無かった可能性が極めて高いことになるでしょう。筆者の備忘録には『斎藤与右衛門は二人居るのか?』と書かれた走り書きがあり、その想いをかつて記事にもしてきたのですが、再度「分限帳」を調べなおすことで、その当否を皆さんに判断して貰うことにしたいと思います。何はさておき、資料には何がどのように記されていたのか?直接見てみることから始めましょう。徳島出身の国学者・小杉榲邨(1835〜1910)は、ほぼ半世紀にも亘り日本各地を巡り阿波国に関係した古文書の書写を続けて正編142冊、続編46冊にも及ぶ郷土資料を収集し稿本として残しました。これが阿波国『徴古雑抄』および『徴古雑抄続編』と呼ばれる文書群で、家臣名簿一覧とも言うべき各種の分限帳は、その「続編」に含まれている文書なのです。小杉の郷里に対する熱い思いは大正二年『阿波国徴古雑抄』として結実、その続編が昭和三十三年に至って刊行されることになったのは先述の藍染研究家後藤捷一の尽力によるものだったと続編の序文が記しています。一般に流布している『阿波徳島藩蜂須賀家家臣無足以下分限帳』(桑井薫編、2001年3月刊)に収められている「寛政之頃無足以下分限帳」の元原稿だと考えて良いでしょう。(下右の画像は、昭和33年に「徴古雑抄続編」を作成する時に使われたと思われる手書きの資料で、誰の手によるものかは不明です。又、下左の画像では「江戸住」などの文字を本来の場所から移動させてあります)

桑井編のもの  徴古続編  原稿

詳しい説明は不要だと思いますが、念のために付記しておきます。「江戸住」は「江戸詰」とは異なり、藩主の参勤交代などに関係なく江戸藩邸で常に勤務している藩士を指す言葉です(「江戸詰」は文字通り江戸の藩邸に「詰めて」いる藩士ですから、当然、国許の阿波から藩命により江戸に下り、一時的に勤務している藩士を指します)。上の画像を見る限り一応『徴古続編』の編集者の一人が小杉の稿本から書き起こした元原稿には「江戸詰 斎藤与右衛門」とあったものが、実際、昭和33年に刊行された際「江戸住」と誤植されたものを、2001年になって桑井が分限帳の集成本出版にあたって「元通りに修正した」と考えることは可能ですが、国文学研究資料館が収蔵している原本まで確認していないので、現時点ではどちらが正しいとも言い切れません。ただ一つはっきりしている事は「寛政四年八月」の時点で「能役者・斎藤与右衛門」という家臣が確かに存在し彼は斎藤十郎兵衛とは勤務形態の異なる能役者の一人だった訳です。それとは別に指摘しておきたいのは、最初に見た引用文の書き方です。初めの文章は、あたかも「斎藤十郎兵衛」一人の名前だけが載っていたかのような表現であり、二つ目の文章では十郎兵衛・与右衛門が「二人とも江戸住」であったかのように引用されています。いずれも物書きが本業の方ですから、たまたまではなく何らかの意図を以ての事なのでしょうが、これでは折角小杉が苦労して集めた古文書が正しく役立てられたとは言えず、肝心の「写楽・十郎兵衛」説の信憑性を貶めることにも成りかねません。読者は先入観を持たずに様々な著作に接し、そこで新たな知識を習得してゆくのです。相手が素人だからと謂って侮ってはなりません。持説と合致しないものであっても、敢えてそれを明らかにすることで研究は深まるものではないでしょうか?

東洲斎写楽が阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛(1763〜1820)であるとし、その父親の名前が「与右衛門」だとする説を唱える人たちは、上で明らかにした問題に答えなければなりません。つまり、

  寛政四年八月の時点で阿波藩から俸給を得ていた斎藤与右衛門は一体誰なのか?(分限帳の記述に関わる疑問)
  寛政三年六月に亡くなった「過去帳」に記録が残る斎藤与右衛門とは一体誰なのか?(過去帳の記載に関わる疑問)
  二つの古文書に名前のあがっている斎藤与右衛門は同一人であるのか、それとも全くの別人なのか?

などについて誰にでも分かる形で説明を行い、歴史的な資料を恣意的に「加工」して利用したのではない事を証明すべきなのです。尚、写楽に擬せられている十郎兵衛に与右衛門を名乗る息子が居たことは「猿楽伝記」にある『父 十郎兵衛 卯に五十二歳』という記述により明らかですが、ここで云う「卯の年」とは「18434年、天保十四年」と見做されていますから、彼は寛政四年の生まれだと推測されます。生まれたての赤ん坊に俸給を頂く資格はありません。

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