継体天皇と攝津三島をめぐる縁(えにし)                    サイトの歩き方」も参照してください。

はてさて、何から何処から話し始めたものやら……、いつもの事ながら、ページの構成というか、お話の筋書きを事前に考えた上で書き始める訳では無いので、管理人としては、よっこいしょと椅子から体を持ち上げるような、ちょっとした『きっかけ』が欲しい訳ですね。…と、姿の見えもしない皆さん達に益も無いグチを言っても始まりません、ので、思いつくままに語ることにしましょう。

正史である「日本書紀」は記録として残してはいませんが、天台宗の僧侶・皇円(こうえん,1074?〜1169)が後に記したとされる史書『扶桑略記』は、天智天皇七年春正月の出来事として、次のような一文を伝えています。その文書には、

  「扶桑略記」(京都大学収蔵)  銅鐸

  ……近江国、滋賀の郡で、天皇の勅願により崇福寺を建てるための工事を行っていたところ
  高さ五尺五寸の寶鐸一個が掘り出された

とあるのですが、この「平地」から掘り出された大きな銅鐸が何に使うものなのか、七世紀後半には既に分からなくなっていたようです。それが編者の『奇異』という言葉使いにも表れている訳ですが、これより凡そ半世紀後になる和銅六年(713)七月六日には、大和国宇陀郡から、少し小振りな銅鐸が献上されたという記録が「続日本紀」にあります。そして、そこでは、

  村君東人が長岡野の地で「銅鐸」を得て献上した。
  高さ三尺、口径一尺で、その造りは普通のものとは異なっているが、
  その音色は律呂にかなっている。

とあり、銅鐸の「造り」と「音色」が言及され、更に、その「音」が「律呂」つまり当時の雅楽?の音の律(決まりごと・音階)に合致していると判断が下されているのです。八世紀の朝廷内に、たまたま音楽と銅鐸(の用途)双方の知識を兼ね備えた役人でも居たのでしょうか?一度、途絶えていたはずの古代の情報が復活することがあったのかも知れません。それはさておき、わが国において銅鐸が製造されるようになったのは紀元前二世紀の頃だとされています。それから、ほぼ400年の間に銅鐸は大型化するのですが「三世紀に入ると、突然」造られなくなったようです。ごく大雑把に、要するにオノコロ流に言えば「弥生時代」の後半が正に銅鐸の時代に相当し、読者の皆さんにはお馴染みの摂津三島には、その銅鐸の「製造工場」ではなかったかと目される大規模な環濠集落が存在しています。

その「東奈良遺跡」が大阪府茨木市(旧、摂津国嶋下郡)で発掘されたのが1973年の事。集落の規模の大きさもさることながら、同遺跡からは六甲山地産と見られる凝灰質砂岩を用いた「銅鐸の鋳型」が三十五点も見つかり、それらの鋳型で造られた製品が近畿一円は勿論、四国香川からも発見され、その分布図が今後とも更に広がりを持つ可能性も残されています。(1999年6月には国内最古の小銅鐸も東奈良で見つかりました。高さ、僅かに14cm)

己のホームページで何度も取り上げながら、迂闊なこと、この上も無い話なのですが、今年(平成十九年)は、あの継体帝が即位してから「1500年」の節目の年に当たるのです。(だから、色々な処が彼を取り上げているのですね…)迂闊ついでに、もう一つ。今年は、あの中原中也の生誕100周年にも当たります。

西園寺公衡(さいおんじ・きんひら,1264〜1315)が残してくれた『公衡日記』によれば、

  正応元年(1288)、今城塚古墳から鏡などを盗み出した者が捕まえられた

とあって、三島地方に伝わる「夜泣き石伝説」(古墳から勝手に持ち出された石が、夜になると鳴くので、盗掘者が困り果てて元の場所に返したと云われる)の背景を裏づけ、今城塚古墳が相当早い時期から大規模な盗掘に会い、石室も解体されていた可能性が強いのですが、上で見てきたように攝津三島という地域は弥生時代から文化的にも開けた「先進」地であったに違いありません。では「神話」を含めて、三島の「先進」性を明らかに出来る資料はあるのでしょうか?それも継体帝に深く繋がる縁(えにし)の認められる資料が?……、あるのですね、それが。「日本書紀」巻第三、神武天皇即位前紀によれば、神武帝は、

  塩土老翁(しおつちのおじ)から、東の方に美き国が有ると聞き
  青山四周れる、その中に又、天岩船に乗りて飛び下る者あり

と聞かされ「東征」を決意するのですが、その時、彼は重大な一言を漏らしています。それが、

  その飛び降るという者は、これ饒速日(にぎはやひ)と謂うか。

の一文なのですが、江戸期の国学者本居宣長(もとおり・のりなが,)は『古事記伝』(下右の画像)の中で、この「ニギハヤヒ」を『強いて天孫に付会した造作』だと切り捨て、日本古典文学大系の編集者たちも、この考えを踏襲しているのですが、この後も日本書記は何度も「ニギハヤヒ」と「天皇」との会話を載せ、長脛彦の件では『これ物部氏の遠祖なり』と明言、続いて神武帝は、

  事代主神が三嶋溝杭耳神の娘・玉櫛媛に生ませた姫蹈鞴五十鈴媛命

を「正妃(皇后)」として悦んで迎える段取りになるのです。とても偉い宣長先生と「論争」するつもりなど毛頭ありませんが、後の時代の人から疑いを差しはさまれたくなかったら、その様な疑義を生じさせる記述そのものを残さなければ良いだけの話で、このニギハヤヒに関連した事柄に限ってみても、記紀が編纂された当時の権力者にとって真に不都合だと判断される内容は、正史で「触れなければ」良いのです。(ただ、八世紀初頭の王朝を構成する重要なメンバー・豪族たちが「共有」している最も大切な情報の類については、この限りでは無かったと考えられます)下世話な言葉に言い換えれば「寝た子を起こすような」事はしなければ良いのですから、ニギハヤヒの「天降り」は、当時の「常識」だったと考える方がすっきりします。

三島溝杭神社  女九神社    PR

さて、今城塚古墳の南には継体帝の妃・尾張目子媛を祀る「女九神社(めここのつのやしろ)」があることは「蘇我氏と継体の謎」のページで紹介していますが、継体帝が大王の位を継ぐ前に正妃としていた「目子媛」は『尾張連等の祖、凡連の妹』(「古事記」)とされる女性で、その実家である尾張連は「火明命(ほあかりのみこと)」の子孫だとされてきました。現在「国宝」に指定されている唯一の系図が存在していることを皆さんはご存知でしょうか?それが「海部氏勘注系図」と呼ばれ、丹後・籠神社に伝えられてきた神々の系譜で「先代旧事本紀」天孫本紀が伝える内容から、従来「ニギハヤヒ」と同体同神ではないかと考えられていた「火明命」が、正しく同じ神であると記しているのです。籠神社では、海部直らの祖先神こそ「彦火明命」であり、その神様には、

  又の名を天火明命、又の名を天照国照彦火明命、又の名を天照御魂命

の別名があったと主張している訳です(註:あくまでも主張であり、何かが証明された訳ではありません)。ここで記憶力の良い、そしてオノコロ・シリーズの頼もしい?読者であるはずの方々は、かつて取り上げた「新屋坐天照御魂神社」の名前を思い出すことでしょう。宮内庁から「継体天皇稜」に比定されている太田茶臼山古墳のほぼ真西に位置している同神社の主祭神は「天照国照天彦火明大神」(天照御魂皇大神)で、社伝によれば社の創建は第十代崇神天皇七年秋九月にさかのぼり、その時「天皇」が使わされた人物こそ物部氏の太祖・伊香色雄命(記紀では[いかがしこお]と読ませていますが、神社側の資料には[いかしきお]とあります)であったとされています。また『新屋大社由緒記』では外部への配慮から明言されていませんが、同社には、

  社殿裏の丘山に天照御魂大神が天降った

とされる「日降り神話」が伝えられており、記紀の言う「ニギハヤヒの天降り」が、この摂津三島の地でもあったことを色濃く窺わせているのです。では、ここまでのお話を纏めてみると、どうなるでしょう。

  1 神話では、神武帝より前に「天降った」神がいた(先にヤマト入りした者が居た)。その名をニギハヤヒと言った。神武は三嶋の娘を正妃とした。
  2 「先代旧事本紀」はニギハヤヒと尾張氏の祖先「火明命」が同じ神であることを伝えていた。
  3 「海部氏勘注系図」も火明命の別名が「天照御魂命」だと伝えている。
  4 三嶋の新屋坐天照御魂神社は、物部氏の祖先が創建した。
  5 同神社には「天降り」神話が伝えられてきた。
  6 継体帝が大王に即位する前の正妃は尾張氏の娘・目子媛だった。

弥生時代から優れた鋳造技術で発展を重ね畿内一円に勢力を及ぼしていた物部氏一族でしたが、三世紀以降新たな技術を携えた「今来」の人々が続々と近畿各地に根を降ろし、それまでになかった権力集団を創り上げて行きます(物部氏を『単一の』氏族と考えるよりも、幾つもの物部《氏》が居たと考えるべきかも知れません)。物部氏が、それらの新勢力と敢えて衝突することは避け、むしろ「協調」する路線で臨んだことは先に見た神話にも明らかです。ただ、土木や造船、製鉄そして計数管理などのハイテクで武装した彼らとの間に、当初は存在しなかった上下関係が世代を経るにつれ生じる結果となったことでしょう、そして、それは主従の関係、隷属支配の関係に進んだとしてもおかしくありません。

丘からの遠望   丘の神域  日降丘の碑

時は六世紀初め、ヤマト朝廷は後嗣問題で大変な危機を迎えていました。先の大王に子供が無く、周囲を見回しても位を継がせるべき適当な人物が一人も見当たらないのです。武列帝の大連として軍事を司っていた物部麁鹿火(もののべ・あらかい)には或る人物の名前が既に浮かんでいたのですが、処世術に長けた物部の棟梁は、自分から敢えて口にせず、最近富に朝議を仕切ろうとする大伴金村大連の発言を待つことに決めたのでした。ただ、誰の目にも次の大王にふさわしい男が彼であることは分かり切ったことだったのですが……。

  男大迹王、人となり慈仁ありて孝順う。天緒承へつべし

麁鹿火の口元が綻んだのは理由がありました。それは、男大迹王(おおどのみこ)の夫人・目子媛は物部氏とは親しい間柄で、昔から交流のある尾張連の愛娘であり、すでに二人の王子の母だったからに他なりません。(つまり、巧く行けば最低三人の大王と国を運営出来るのです)更に、念には念を入れる慎重な正確だった彼は、腹心の河内馬飼首荒籠を王の元へ密使として送り込むことも忘れてはいませんでした。事態は麁鹿火の思惑通りに進んでゆく様に見えていました。しかし彼は、一つだけ大きな誤算をしていたのです…。それが次の主題になります。

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