大王たちと「トベトメ」について考える                                      サイトの歩き方」も参照してください

JR奈良駅で桜井線(まほろば線とも呼ぶそうです)に乗り換えて十数分、柳本という小さな無人駅でおりて真東に800mほど進むと見上げる様な位置に石段が迫り、石の鳥居の上部が顔を覗かせているのが目に入ります。急な階段を登りきると一気に視界が広がり、そこが広い濠に囲まれた大きな古墳であることが分かります。後世、御肇国天皇(ハツクニシラス)の称号と「崇神」の諡号を贈られた御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)は、神武、応神と並び大王の中でも格別な地位を与えられた存在なのですが、その治世は初めから順風満帆だった訳ではなく、日本書紀は、

  五年に、国内に疾病多くして、民、死亡れる者ありて、且大半(なかばにす)ぎなんとし
  六年に、百姓流離いぬ。或いはそむく者あり。その勢い、徳をもって治めんこと難し

の極めて不安定な状況の中で国の舵取りをしなければならなかったと告白しています。また元々「大殿」の内部で祀られていた天照大神(アマテラス)と倭大国魂(オオモノヌシ)の二柱を『共に住みたまうに安からず』の理由から、

  天照大神をもては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫村に祭り、
  また日本大国魂神をもては、渟名城入姫命に託けて祭らしむ

事とし神祇を篤く祀ったにも関わらず渟名城入姫命は『髪が落ち、體も痩せ細』る有様、たまりかねた大王は自ら神浅茅原に出向き亀卜によって『災を致す所由を極め』ようと試みました。すると倭迹迹日百襲姫命(孝霊天皇の娘)に憑依した大物主神は「我を敬い祭れば、必ず當に自平ぎなん」と応え、すぐに祭祀ったのですが験がありません。大王は気を取り直し沐浴斎戒し、殿の内を潔浄して再び神々に祈ると、その夜、夢に現れた大物主神は、

  国の治らざるは、是吾が意ぞ。若し吾が兒、大田田根子をもて吾を令祭りたまわば、立に平らぎなん。

と告げました。秋八月には倭迹速神浅茅原目妙姫命と大水口宿禰(穂積臣の祖)そして伊勢麻績君の三人も「共に同じ内容の夢を見た」として『大田田根子をもて、大物主大神を祭う主とし、また、市磯長尾市(倭直の祖)をもて、倭大国魂神を祭う主とせば、必ず天下太平ぎなん』と奏上、大王は「歓び」直ちに国内で捜索を始めると茅渟県(和泉国)の陶邑に居た大田田根子が見つかります。大王の問いかけに彼は「父が大物主大神で、母は陶津耳の娘の活玉依姫です」と答え、大王は思わず『朕、栄楽えんとするかな』と感嘆の声をあげたのです。よく知られた大神神社の創始にまつわる伝承なのでご承知の方も多いと思いますが、この崇神帝は『倭成す大物主』に続き、九年春の神託に基づき同年四月に墨坂神と大坂神を祀るなど、首都の防衛拠点と思われる地域の神々も大切にしていたのですが、

  然るに先の皇、御間城天皇、神祇を祭祀りたまうと雖も、微細しくは未だ其の根源を探りたまわずして、粗に枝葉に留めたまえり(垂仁25年3月条)

との批判を受けているのも事実なのです。書記の口ぶりには何処となく醒めた感覚が漂い『彼も、良くやっているが、祭祀の本質を理解していない』から仕方がない、と言っているようにも見えます。つまり遠津年魚眼眼妙姫との間に産まれた(とされる)豊鍬入姫命に天照大神を祀らせたことと、尾張大海姫との間に産まれた(とされる)渟名城入姫命に大国魂神を祀らせた事自体、祭祀の『根源』を知らない故の「枝葉」の行為=重要ではない取るに足らない出来事に属するものだと言っているのに等しい訳です。問題は二つあったように思えます。先ず、一つ目がアマテラスの祭祀です。そもそも崇神の頃に「郊祀」の考え方が存在していたのか、という「根源的」な問いかけはさておくとしても、彼の都は磯城瑞籬宮(桜井市金屋の付近)だったのですから大神神社は勿論、元伊勢とされる桧原神社も明らかに都の「北」に鎮座しています。『王都の南郊に天(神)を祀り、北郊に地(神)を祀る』のが大陸風の天地祭祀の原点であるとするなら、崇神のとった遣り方は全く間違っていたことになります(崇神にとってアマテラスも地神に過ぎなかったという仮定も成り立ちますが…)。そして二つ目の問題が尾張氏の娘に大物主を祀らせた事でした。

崇神陵  桧原神社  大神神社 

さて今回もまたまた長い前口上になってしまいました。本題は、ここから始まります。「イリヒコ」という名前に拘るわけではありませんが、自らが都と決め宮殿を建てた金屋の目と鼻の先に在る地元の神々に関する基本的な知識に乏しく、最も大切に扱うべき祖先神の社についても「粗(おろそか)に」したと揶揄された大王は、果たして何処の出身だったのでしょう?素朴な疑問が湧きますね!それはさておき−−、古事記によれば彼は、最初の妻として、

  木国造、名は荒河刀辨(アラカワトベ)の女、遠津年魚目目微比売(トオツアユメマグワシ)を娶り、豊木入日子命次に豊鍬入日売命

の二人の子供を儲けています。崇神帝が初代の神武と「同一人」ではないかという説も多々あるそうですが、神倭伊波禮毘古命は日下の蓼津で登美毘古と戦い敗れた後、紀国の男之水門から熊野に入り山越えでヤマト攻略を目指します。古事記には全く記述が無いのですが、行軍の途中で神武は、

  名草邑に至り、すなわち名草戸畔(ナクサトベ)という者

を打ち破り、更には熊野の荒坂津またの名、丹敷浦という土地でも「丹敷戸畔(ニシキトベ)」を葬り去っています。また長髄彦の抵抗を同族?饒速日(ニギハヤヒ)の協力によって排除した後、層富県に入った折にも新城戸畔(ニイキトベ)を和邇の坂本の居勢祝、臍見の長柄の猪祝などと相前後して倒しているのですが、その理由として『その勇力をたのみて、来庭きかえにず』を挙げ、いずれも「土蜘蛛」が武力を背景に帰順しなかったからだと記述しています。神武に象徴されるヤマト最初期王族たちの軍勢の中核は一族数十人程度と推測している管理人としては、難波の先住者に手も足も出なかった彼らが、紀の国に入った瞬間から急に無敵の大軍団に変貌したとはとても思えませんから、この辺りの「記録」は、八世紀の書記編集者たちが頭の中で想像し創造した戦闘場面であったと考えたほうが無難です。ただ、実際に上で見てきた地域すべてに、それぞれ祭祀権を有する「トベ」が居たのかどうかは別にしても、後に「国造」の地位を得るほどの実力者たちが神武がやってくる前から近畿一円に住み着いていたことは確かで、神とも讃えられた大王たちと雖も、有力なトベを無視して政を行うことは出来なかったと言えそうです。物部氏の伝承によれば、崇神朝を支えた伊香色雄命(イカガシコオ)は天津彦根命を祖に持つ山代県主の娘二人を妻にし、その息子に位置付けられる大新河命は崇神と同様、紀伊・荒川戸俾の娘(中日女)を娶っています≪つまり系譜上、崇神と大新河命は義理の兄弟という仲です≫。また後で見る、出雲神宝事件で大王の使者を務めた建諸隅は伊香色雄命の孫に当たりますが、彼も紀国造・智名曾の妹で中名草姫という女性を妻に迎えています。尾張氏側の伝承では崇神の妃となった大海姫は建諸隅の同母妹ですから、書紀の編集者は案外、これに近い資料にあった固有名詞を基に神武の勝ち戦を演出したのかも分かりません。

アマテラスに八咫鏡を献上した石凝戸邊

さて「地名+トベ」という名前の持ち主が神武の時代以前から各地に蟠踞していたのかどうか分かりませんが、少なくとも第十代の大王は「トベ」を名乗る者の娘と結ばれ、その子孫が上毛野・上毛野両氏の祖先となっているのですから、時の大王家とも釣り合うほどの豪族だったと考えても良いでしょう。いや、むしろ「トベ」と結びつく事こそ大王の地位を高める政略だったと考えた方が的を射ているのかも知れません。崇神の息子・垂仁帝(イクメイリヒコ)が後宮に入れた婦人たちの名前を見れば、その答は一目瞭然です。崇神四十八年春の夢占いによって「嗣=ひつぎ」の位を得た活目尊は第十一代の大王となりますが、三十四年春三月、

  山背に行幸した天皇は「この国に山背大国不遅の娘で綺戸邊(カニハタトベ)という佳人がおります」という奏上を受け途中で奇瑞が現れたので

妃として迎え、三尾氏の祖先である磐衝別命を儲けています(古事記は山代大国の淵の娘・弟苅羽田刀辨とする等、カリハタトベに関わる資料に混乱が見られます)。また、これより以前にも五日足彦命の母となる山背の苅幡戸邊(カリハタトベ)を娶っているのです。更に、大王妃ではありませんが、古事記が開化帝の系譜を述べた段の中で、崇神の異母弟(彦坐王)の家系について,

  次に日子坐王、山代の荏名津比売、またの名は苅幡戸辨を娶して生める子、大俣王次に小俣王次に志夫美宿禰王
  また春日の建国勝戸売(タケクニカツトメ)の女、名は沙本之大闇見戸売を娶して生める子、沙本毘古王次に袁邪本王次に…

と述べて「トベ・トメ」を名乗る二名の妻を娶ったことが明らかになっています。婚姻以外でも、崇神六十年秋七月条では「出雲大神の神宝」献上後の祭祀復活に関連して「丹波の氷上の人」で、氷香戸邊(ヒカトベ)という名の人物が登場し、自分の子供に憑いた神の託宣を直接「皇太子」の活目尊に言上したとあって「トベ」を名乗る者が帝室の極身近な存在であったことを窺わせます。このように見てくると「トベ・トメ」の名称をもった人物が神武即位前と崇神・垂仁朝という限られた期間に集中して記紀に現れていることが明らかになった訳ですが、それが何か特別な意味を持っていたのかどうかは未だ解明できていません(尾張氏、建稲種命の娘・尻綱真若刀婢が景行帝の息子に嫁いだ例もあるが垂仁・景行・仲哀朝の系譜は疑問な点も多い)。卑弥呼・台与を例として持ち出すまでもなく三世紀半ばから後半の倭地において、霊力をもった女性首長がクニグニを支配していたのですから、四世紀前半に初めて「ヤマト」という広い地域の王となった崇神や垂仁たちが権力の安定を求めて旧勢力の代表ともいえる「トベ」「トメ」と姻戚関係を積極的に結んだとしても不自然ではありません。特に彦坐王の血統は垂仁の皇后を出しただけでなく、和邇氏や丹波氏更には三上氏など多くの古代有力氏族を包括して伝説の神功皇后を含む息長一族の「源泉」を構成しているのですから、後世の「系譜編集」を考慮に入れても、イリヒコ大王の実在性を高める傍証になるのではないかと推測しています。

書紀の記述に従えば、始祖王の神武は「まつろわぬ」各地の土蜘蛛たちを打ち滅ぼしてから融和策に転じ、二人目の始祖王崇神は紀伊の有力者の娘と結ばれ、その次の大王は山背の実力者の娘達を妃としました。ところで岩波版・日本古典文学大系の編集者は垂仁妃の綺戸邊(カニハタトベ)について、

  綺は、文様が斜めになった織物をいう。従って語源は斜行するする蟹の機であろう

と注釈を付け、その後で「相楽郡山城町綺田」の地名を合わせて紹介し「カニ機トベ」つまり特殊な機織り技術を持った女性(技術集団の首長の娘)を大王が娶った可能性を示唆しています。また「和名類聚抄」に『錦に似て、しかも薄い物は加無波太(カムハタ)という』事例も併記していますから、先に紀伊国の地名の一つとして片づけてきた丹敷戸畔の「ニシキ」も「錦」であった可能性を捨て去ることが出来なくなります。そして、この「職能+トベ」の名称には、恰好の先例があるのです。その人物こそ

  スサノオが高天原で大暴れしたためアマテラスが天石窟に閉じこもった折、日矛を作ったとされる石凝姥(イシコリドメ)

に他ならず、書紀は神代第七段第一の一書の末尾に『石凝姥、これをば伊之居梨(イシコリドメ)という』とわざわざ注釈を入れ、同じく古事記は「天の金山の鐡を取」って「鏡を作」ったのは伊斯許理度売命(イシコリドメ)であったと本文に記しています。加えて、書紀第三の一書では、

  是に、天兒屋命、天香山の真坂木を掘して、上枝には、鏡作の遠祖天抜戸が子石凝戸邊が作れる八咫鏡を懸け

と表記も垂仁妃と同じ「戸邊」に揃えています。書紀は同じ人物を表す場合でも、古事記の内容を意識していたのか、殊更に読みにくく更に言えば読み間違えを誘うような書き方をすることが、間々あるのですが、至高神アマテラスの鏡作りに携わった人物と、初めて国をしらしめた大王の第一婦人の親、加えて次の大王妃たちの何れもが「同じ呼称」を有していたと書紀が伝えた事実に重みを感じるのです。「姥」の文字をどのように解釈しても『トメ・ドメ』『トベ』という言葉は浮かびようが有りません。「イリヒコ」大王たちの政権を支えた婦人と其の一族「トメ・トベ」に纏わる根強い伝承が受け継がれていたに違いありません。以下は、いつものオマケです。

「崇神陵」古墳と西殿塚古墳の被葬者について推理する

延喜式  手白香衾田陵

治世六十二年の冬十月に依網池を築造した崇神帝は六十八年十二月に亡くなり、翌年秋八月に山邊道上陵に葬られたと書紀は記録しています。これが、現在「崇神陵」に比定されている行燈山古墳なのですが、古事記は『是の御世に、依網池を作り、また軽の酒折池を作り』『御陵は山邊の道の勾の岡の上に在り』と伝えています。一度、崇神陵のある山辺の道を歩いてみれば直ぐ分かりますが、行燈山古墳が「岡の上」に在るという表現には違和感を覚えてしまいます。確かに、国道169号線に沿った渋谷・柳本・中山と続く一帯の地域は緩い勾配があって「登り道」であることに違い無いのですが、景行陵がそうであるように崇神陵もまた「岡の上」しかも「勾(まがり)」くねった道の先にある岡の上に築造されたものではありません(二つの陵とも前方部が標高100mの等高線上にあります)。

また、崇神帝の治世を西暦300年前後と推定するなら、崇神陵古墳は少し新しいようにも思えます。妄想好きの管理人が周辺を歩き回った感触を述べるなら、中山町にある西殿塚古墳(全長234m、方円墳)がふさわしい様に感じました。国道から東に民家や果樹畑の合間を縫って龍王山の斜面を登る時、古事記の言う『勾の岡の上』が実感されるのです。この古墳は現在、継体帝の皇后であった手白香皇女の衾田陵に比定されていますが、築造年代(3世紀後半〜4世紀初め頃)一つとっても万人が首肯できるものではありません。お隣に寄り添うように置かれた東殿塚古墳(全長139m、方円墳)は、恐らく西に埋葬された人物にとって大変近しい人の陵墓だと考えられます。では、現崇神陵は一体誰のものなのか?という事になりますが、西殿塚を「イリヒコ」王朝初代の陵だと仮定するなら、ほぼ真南に続く「崇神陵」がイクメイリヒコの垂仁陵、さらに続くのが景行陵ではないでしょうか。延喜式の諸陵寮は『衾田陵には陵を守る者がいないが、崇神陵の陵戸が兼務している』(上右画像)の記述が残されていますから、二つの陵墓に「何らかの繋がりがある」のだという言い伝えが存在していたと思われます。

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