遮光器土偶と昭和の空飛ぶ円盤ブーム                                                 「サイトの歩き方」も参照してください。

文化史などの記述によれば、我が国に初めての『円盤ブーム』が起こったのは、後に「団塊の世代」と呼ばれることになる、戦後のベビー・ブームの頃に生を享けた子供たちが小学校に入る年齢に達した昭和三十年だったが、その直接の要因が何であったのかは、物の本にも書かれてはいない。翌、三十一年一月末、大映が送り出した『宇宙人、東京に現わる』は好評を博したと伝えられていますが、残念ながら筆者は、そのフィルムを観ていません。ごく月並みな感想を述べるなら、終戦から十年を経て我が国の経済も何とか立て直しの時期を終え、少しは上向きに転じようとしていたのかも知れません。時の専門家が『もはや戦後ではない』と経済白書の中で宣言したのも同じ31年ですから、経済復興というプラスの側面があったことは確かだと言えそうです。戦火に脅かされる恐れは無くなり、十二分とまでは行かないまでも生活が安定したからこそ、人々の関心も宇宙に向けられたと考えることが出来そうです。また「宇宙」は何処の国にも属さない未知の可能性を秘めた新世界なのですから、想像力さえ逞しくすれば、どのような形での進出も可能な訳です。(『空飛ぶ円盤』という言葉使いは、1947年、アメリカ人のケネス・アーノルドが目撃した未知の飛行物体をフライング・ソーサー[Flying saucer]と表現した事に基づいたものです。また、現在『UFO』と呼ばれている対象は、本来、航空用語である未確認飛行物体の総称なのですが、いつの間にか円盤の代名詞のように使われ始めました)

ポスター 岡本太郎(左)

また、怪獣映画の元祖ともいうべき『ゴジラは』昭和29年に既に公開されていますし、子供向けの雑誌『少年』では、その二年も前から科学漫画の代表作である「鉄腕アトム」の連載が始まっていますから、子供たち否、大人たちも含めた国民の関心事の一つとして「宇宙」という分野が強く意識されつつあったのは確かなようです。この映画で「宇宙人(パイラ星人)」(上右の画像)のキャラクターを考案したのが画家の岡本太郎(1911〜1996)だったのは良く知られていますが、その岡本自身、東京国立博物館で見た縄文土器に強い衝撃を受けたのが昭和26年だったようですから、筆者は彼の感受性に訴えかけた縄文の熱い息吹が「宇宙人パイラ」を生み、更には後の大阪万国博覧会の「太陽の塔」誕生にまでつながったのだと考えています。岡本が国博で見た土器の中に今回の主役である亀ケ岡遺跡出土の遮光器土偶が含まれていたのかどうか分かりませんが、考古学の解説書などによれば「遮光器」モデルの土偶は東北各地で造られていたようで、その製作時期は主に縄文後期〜晩期だと分析されています。そして「破壊されて」見つかる場合が多い出土状況から、縄文人たちが土偶を「敢えて壊して埋める」事で、再生・豊穣(復活としての誕生)の未来を招こうとした呪術的行為の象徴ではなかったか、という解釈が一般的な見方になっているようです。美術や造形といった分野の知識に乏しいので的外れな分析になるかも知れませんが、縄文土偶には一方で破壊されず、反対に修復跡が見られることから人家内部で長期間保有されていたのではないかと思われる具象的な物(青森県、八戸市風張遺跡出土の合掌土偶、紀元前1300年頃、縄文後期、下段中央の画像参照、国宝)もあり、縄文の工人たちが必ずしも「抽象的」あるいは「誇張的」な造形だけを行っていた訳では無いことも又明らかなのです。

つまり筆者の内部にある思いは、縄文の人々が具体的な「名前(名辞)」は未だ付けられてはいなくても、彼等の「畏れ」や「祈り」の対象となるモノが存在していたとして、彼等は、それを、どのように表現しようとしたのだろうか、という素朴な疑問に他なりません。縄文人たちの感性が大変豊かなものであったとしても、心の内部に芽生えた、未だ言葉にはならない「思い」を「具体的」な形として現わすことは、とても難しい事ではなかったでしょうか?絵画の心得に乏しい筆者などにとっては、目の前にある一個の静物でさえ、それらしく描き切れずにいる位なのですから、増してや「情念」などと云う得体のしれない心の動きを表出することは至極の技だったに違いないと思えてしまうのです。その様な気持ちで縄文土偶を見つめてみると、こちら側の疑念や雑念を一切受け付けない程、迷いのない形象が表現されています。彼らが「どの様に作ろうか」などと悩んだ雰囲気は微塵も感じられないのは何故なのでしょうか!

その問い掛けに対する最も簡単で明瞭な「答え」は、土偶として表現されたものには、それに相応しい「現物としてのモデル」が存在していたと想像することです。つまり、誰でも「見たことも無い、名前すら無いモノ」よりも「実際に眼にしたモノ」の方が遥かに描きやすい、作りやすいという素人の理屈で、ここに土偶「宇宙人説」が生まれる素地が在った訳です。下右で紹介している土面も、土偶と同様に亀ケ岡から出土したものですが『眼』周辺の象りに類似性が見られる反面、土偶では省略されている『鼻、口、頬』など顔がリアルに作り出されており、明らかに異なった対象を造形したものだと推理できます。言葉を代えれば土偶は『人ではない何物か』を表現したものだと云うことになります(第一、眼だけしかない顔の生き物は有り得ません)。この想像は別の土偶との比較からも導き出されるもので、山梨県東八代郡御坂町上黒駒[現在の笛吹市]から出土した縄文中期(前3,000年〜前2,000年頃)の土偶は、別な意味で特異な表情をしています(下段左の画像)。

亀ケ岡遺跡出土  土面  PR

上黒駒出土  合掌土偶 

笛吹市出土の土偶が果たして「ヒト」を象ったものなのか、それとも「ヒト以外」のモノを具象化したものなのか判然としませんが、若しも此れが何かの生物をモデルにした造形であるとしても、頭部の後ろに正確に開けられた大きな『穴』はどう説明すべきものでしょう?また、胸の前で優雅な曲線を描く左手の指が「三本」しか無い点も、この土偶が縄文人自らの姿を表したものとは考え難いのです。更に、亀ケ岡の物と最も良く似た意匠を持つ宮城県遠田郡田尻町出土の遮光器土偶(上右の画像)にも不可解な点が見られます。それが頭頂部に開けられた大きな『穴』の存在で、隣の「合掌土偶」の頭が明らかに髪を束ねて巻きつけた様に拵えてあるのとは対照的で、この形状が何を表現したものなのか不明です。笛吹市のものと同様、生き物の頭部には此の様な穴が開いていることは有り得ないので、ここでも縄文人が『穴』として表現したかったモノが何であったのか謎は深まるばかりです。縄文時代の土偶は、良く知られている「ビーナス」を持ちだすまでもなく女性を象った物が多く、それが「生命力」「豊饒さ」「新生への期待」という評価に直結している訳ですが、確かに国宝に指定されている土偶は「若い女性」をモデルにした作品であると一目で分かります。そして、長野県茅野市の棚畑遺跡から完全な形のまま出土した「女神」は亀ケ岡の遮光器土偶よりも遥かに古い時代(縄文中期前葉、紀元前3,300年頃)の製作であるにも関わらず、その顔の表情は自然で、頭部も長めの髪を耳の上に持ち上げて、その毛先を丸く巻いている様な形に表現されています。勿論、足腰や胸などの部分には女性特有の曲線を出すために「誇張」が施されていますが、その小さ目の鼻にはちゃんと鼻孔も穿たれており、今から五千年以上前の陶工たちが人の顔を「見たまま」に再現する技量を十分持ち合せていた事は間違いなさそうです。また、青森県西津軽郡の森田村(現、つるが市)で見つかった「女性土偶」は、その表情から合掌土偶を作りだした工人たちとの「交流」が相互にあったのではないか、そんな思いに駆られるのですが、太平洋側の八戸と津軽半島の付け根近くの「つがる市」では相当の距離があるのも事実です。

縄文のビーナス  森田土偶 みみずく?

東京国立博物館のサイトを訪れると沢山の縄文土器や土偶そして土面などを見る事が出来ます。家に居ながらにして数千年もの時空を一気に飛び越えて、かつて超古代の先人たちが熱い思いを込めて作り上げた数々の作品の詳細まで鑑賞することが可能です。皆さんも、自由な発想で彼らの作り上げた意匠の彼方にある「モノ」に想いを馳せてみては如何でしょうか。かつて、この日本のどこかに、宇宙の果てからの訪問者が居たかも知れない…、そんな夢物語を描きつつ。

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