もう一つの神託「道鏡」事件の真相を探る                        サイトの歩き方」も参照してください

昔々、奈良に都があった頃、道鏡(どうきょう)と言う、とても偉いお坊さんが居ました。このお坊さんは中国語は勿論、梵語(サンスクリット語)もペラペラの有数の知識人であったばかりでなく、気功術も会得した「超能力」をも兼ね備えていた超人だったので、天皇さまの病気も得意の呪法で、あっという間に治すことが出来ました。元気を取り戻された天皇さまは、この天才超人・道鏡を大変御気に召し、最初は少僧都に、次は大臣禅師に、また次には太政大臣禅師に任じられ、天平神護二年七月(766)には、ついに法王にまで任じられたのです。それから1年半が過ぎた神護景雲三年正月三日、九州にある宇佐八幡宮は『道鏡を皇位につけよ』とのお告げがあったと奏上し、偉いお坊さんも、自分から望んで天皇になろうと思いました。と、まあ簡単に言えばそれだけのお話しなのですが、ことが皇位(天皇の位)に関る事であっただけに朝廷内は大騒動になったのです。それでは、事件の主役・道鏡とは、一体どのような人物だったのでしょう。

宇佐八幡神社   弓削神社(WEBより)  孝謙天皇高野陵

生まれた年については定かではありませんが、恐らく700年代の初め頃河内の国・若江という所で生まれた彼は弓削連(ゆげのむらじ)の一族だったと伝えられ、物部守屋(もののべ・もりや,?〜587)の遠い子孫(守屋の母が弓削氏出身)だと言われています。優れた頭脳の持ち主だった道鏡は高僧・義淵(ぎえん,?〜728)に法相宗を、そして東大寺別当の良弁(ろうべん,689〜774)からは梵文(ぼんぶん、バラモン教の聖典)を学んだ後、独り葛城山に籠もって修行を重ね、ついには呪禁(じゅごん、悪霊を追い払う呪術)力をも身に付けたとされ『続日本紀』は「サンスクリットにほぼ通暁し、禅行で有名になった」と記しています。さて、そのお相手となった方が第46代孝謙天皇(のちに重祚して称徳天皇)その人なのですが、この女帝の略歴を書き出すだけでも相当なページ数が必要になってしまうので、恒例の表に移ります。関心のある読者はWEBで詳しく検索してみてください。

 西 暦   年齢  その年の主な出来事
 718  誕生。父・聖武天皇、母・光明皇后(藤原安宿姫)
 724 6   父が即位
 727 9   弟の基王が誕生(翌年夭折)
 729 11   長屋王の変
 737 19   藤原四兄弟が相次いで死去
 738 20   皇太子となる(歴史上初めてで唯一の女性皇太子)。伯父の橘諸兄が左大臣となる
 744 26   異母弟の安積親王が亡くなる
 749 31   7月・即位。母・光明皇后のため紫微中台の冠位を新たに定める。長官は藤原仲麻呂
 752 34   東大寺・大仏開眼供養に出席
 758 40   淳仁天皇に譲位、太上天皇となる(淳仁は仲麻呂の娘婿)
 藤原仲麻呂、大保となり恵美押勝の名を賜る(仲麻呂は従兄弟である)
 762 44   4月、道鏡が保良宮で孝謙上皇の病を宿曜秘法で癒す
 764 46   恵美押勝の乱。道鏡を大臣禅師とする
 765 47   道鏡を太政大臣禅師とする
 766 48   道鏡を法王とする。左大臣は藤原永手
 769 51   宇佐八幡宮が「神託」を下す。和気清麻呂が勅使として宇佐を訪れ「神託」の内容を再確認する 
 770 52   8月4日、崩御。道鏡は下野薬師寺に左遷
 772  4月、道鏡が亡くなる

これまで、一般的には、宇佐神宮の神託にからむ道鏡事件については、道鏡自身が『宇佐八幡宮のお告げだと偽って皇位をうかがい』それを『忠臣の清麻呂が正しいお告げを持ち帰ることによって』道鏡の野望を打ち砕き、皇位の安泰がもたらされた、という風な解釈がなされていますが、黄金発見までの筋書きを見てきた私たちにとって、それは素直に受け入れられるお話しではありません。詮索すれば、そこには深い暗闇が待ち受けている気配が濃厚ですが、いつも言っているように、このオノコロ・シリーズは歴史の「研究」(学問)をしている場ではありませんから、WEBで集めた手持ちの材料だけで、最も合理的だと思われる推理をしてみましょう。

誰が、どのような「神託」を望んだのか?黒幕はいたのか!

まず「神託」ですが、わたくしたちが何処かの神社でお御籤(みくじ)をひくとしましょう。その時、貴方は『吉』と出ることをを望みますか、それとも余り気にはしませんか?−−「お告げ」は、自分の望んでいる事、夢をかなえるものであることが前提ではないでしょうか?自分の意に全く添わない「お告げ」を受け入れる人が居るでしょうか?!だとするなら、宇佐八幡宮は、予め分かっていた「誰かが望んだ」(であろうと思われる)内容の「神託」を下したに違いないのです。黄金が望まれた時、奥州の地で「発見」されたように、今回の神託も、まず誰か「皇位」につく事(あるいは誰かを皇位につけること)を望んだ人物が確かに存在していたことは間違いありません。ただ、複雑な当時の政治状況を考えると、世知に長けた聡明な道鏡が自ら中心になって「神託」そのものを作為したとは思えない節があるのです。

      宇佐で託宣を受ける清麻呂   故実より  

道鏡

8世紀は正に藤原氏全盛の時代と言ってよいでしょう。そんな流れの中にあった聖武天皇(しょうむてんのう、701〜756)は仏教に深く帰依し、かつ親政に意欲を燃やしましたが、現実政治の壁は非情に厚く、実権は藤原氏一族に握られたままでした。しかし人の心は移ろい易いもので、一度は「恵美」という姓まで賜っていた藤原仲麻呂に代わって僧・道鏡が最高権力者の地位につくと、朝廷内の人脈も大いに揺れ動いたのです。769年1月、法王となった道鏡の元に大臣以下の百官が参賀に訪れました。この状況を見ていた官僚の一部が、自己の保身と栄達に走ったとしても無理はありません。兄の威光を反映して前年すでに大納言に昇進していた弓削浄人(ゆげ・きよひと)は、この時どういう理由か分かりませんが太宰帥(だざいのそつ)を兼任しており、宇佐八幡宮の大宮司は大神氏ではなく中臣習宜阿曽麻呂(なかとみ・すげのあそまろ)という人でした。黄金の献上に大きく貢献したはずの大神氏は大仏開眼の直後に神職の座を追われており、代わりに宮司になっていたのが宇佐氏、そして禰宜が辛嶋氏のコンビだったのです。(宇佐神宮の神職三家の関係については、余りにも複雑すぎて、このページでは紹介しきれないので、別の機会があれば書いてみます。ただ、大切なことなので一つだけお話しすると、辛嶋氏は渡来系の氏族だとされていますが、同家の系図は祖先神を、あのスサノオに求めています)

道鏡の野望(皇位)を知りえる立場にあった、古い豪族の末裔である中臣氏(中臣氏自身がもともと神祇を司る家柄)が「神託」に直接かかわっていること、そして道鏡にまつわる伝説として残っている、

    土佐に流されていた賀茂氏の氏神・一言主を葛城の地に戻した

というお話しなどを総合して考えると、どうやら僧であり第一級の知識人であった道鏡は、大仏建立で大きく仏教の側に傾きつつあった国家体制を、より古い神々の復活によって大変革しようとしていたらしい−。女帝が、若し、そのような理想を日々聞かされていたのなら、先ず、反対はしなかっただろうし、古きよき時代を鮮明に覚えている反藤原氏の諸豪族も、かつての栄華が再現されることを望んだに違いありません。そこで『道鏡即位すれば国家安泰』のお告げになるわけですが、流石に女帝も、そこまでは考えていなかった。『続日本紀』没伝も道鏡が自ら皇位に就くことを望んだと記しながら、その前に『宇佐八幡神の神託を信じたため』と断り書きを入れているのは、彼自身が事前に神託を仕組んだのではない、とでも言いたげです。

くつがえった宇佐八幡の神託が意味するもの PR

皇位をどうすればよいのか悩んでいた(らしい)天皇の夢枕に八幡神のお使いが立ち、天皇の側近である尼僧・法均を遣わす様にと要請があったのですが、虚弱な尼僧に九州までの長旅は無理だと判断した天皇は近衛将監であり、法均の実弟でもある和気清麻呂(わけ・きよまろ、733〜799)を派遣することに決めたのです。まあ、相手は神様ですから何でもご存知なのでしょうが、側近の尼僧の名前までちゃんと知っているのですから、恐らく、天皇の日常についても殆ど全てを把握していたのでしょうね。さて、勅使として宇佐に赴いた清麻呂が八幡宮に参宮して「宣命」の文を読み上げようとした時、八幡神は禰宜の辛嶋勝与曽女(からしますぐり・よそめ)に託宣して『天皇の宣命は聞きたくない』と拒否します。そして八幡神は「宣命」を聞く事を、その後も再び拒否するのですが、

    天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし(『八幡宇佐御託宣集』)

という神託は下したのです。つまり、皇族ではない者に資格はないので、皇位を道鏡に継がせてはならない、という分かりきった結論でした。この時、八幡神が「宣命」を聞きたくなかったのは、恐らく何かを聞かれたなら返事をしなければならなかった、からでしょう。神様としては言い訳をしたくはありませんし、質問などには答えられない、といったところでしょうか。とまあ、これで一件落着めでたしめでたし、なのですが、これだけの大事件を引き起こした、とされる道鏡自身は地方のお寺に移されたただけ、そして正反対の神託を下して国政を大混乱させた宇佐神宮と神官たちには何のお咎めも無く「女帝の希望通りの神託」を持ち帰らなかった清麻呂と姉の法均だけが流罪になったという事実からみて、陰で糸を引いていたのは、やはり実力者・藤原氏の一族だったのでしょう。何故そのように想像されるのか、という疑問には、

    大隈に流罪となった清麻呂に、二十戸の封戸を贈り生活を支えた

人物こそ、藤原氏一族の大物・藤原百川(ふじわら・ももかわ、732〜779。藤原廣継の弟)であった事実を明らかにしておきます。そして後日、百川の周辺から女帝と道鏡にまつわる醜聞が流布されていくのです。面白おかしく脚色された「お話し」は噂好きの一般庶民にまで浸透してゆき「道鏡事件」の裏にあった権力闘争の生臭い諸事情は闇に葬られてしまったのです。『日本書紀』に続けて書かれた国史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は称徳天皇が宝亀元年二月以来、由義の宮に行幸した時から病にかかり、8月4日、西宮(さいきゅう)で崩御と記していますが、女帝の死因については口をつぐんだままなのです。『日本紀略』という平安時代の末期頃に書かれた書物には『百川伝』からの引用として、百川自身が病の床に就いていた女帝の傍に居り、病状の一部始終と治療の方法について、全て知り得る立場にあったことを書き残しています。果たして、帝は何の病で亡くなられたのでしょう?

   孝謙天皇神社の存在は何を物語る?(WEBより)。  「続日本紀」より

そして、最後にいつものオマケを付け足して今回のお話しをしめくくります。孝謙女帝が亡くなったのは「西宮」だと正史は伝えているのですが、栃木県のある場所には、女帝が左遷された道鏡の後を追って下野・薬師寺まで行幸され、下都賀郡石橋の地で終焉を迎えられた、という「言い伝え」が残されており、現在、その場所には孝謙天皇神社が建てられています。天皇が、その地で亡くなられたのかどうかは別にしても、固有の天皇名を市井の者が勝手に使うことなど許されることではありませんから、少なくとも、その地域を管轄していた代々の地方長官なりが、人々が、そのような噂を信じることについて、また、天皇の名前を冠した神社を建ててお祀りすることにも理解を示していた証だと言えそうです。

「ホンダワケ」と「はた」についての書き足し

本当なら、前回のページ内に追加すべきことなのかも知れませんが、ホンダワケ・第15代応神天皇に関して、どうしても付け加えておきたいことがあるので、書き足しておきます。宇佐神宮の祭神として何故、この天皇が選ばれたのかという理由については、前回のコーナーでそれなりに説明していますが、この天皇については大変興味深い「言い伝え」が、まったく異なる神社に残されています。それは九州ではなく越前国、現在の福井県敦賀市にある気比(けひ)神社にまつわるものです。

  応神天皇  海神のお姫様たち  神功皇后    PR

敦賀市が古事記の言う「高志」(こし)の国にあたることから、出雲神話とされるヤマタノオロチ伝説にも容易につながることが理解できますが、その地で大神とされる気比神社の祭神は伊奢沙和気命(いざさわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉姫尊、武内宿禰の七神です。イザサワケを除いた六神は、いずれも半島「征伐」に関ったカミサマたちであり、その点でも敦賀が宇佐など九州の地と古代から深いつながりを持っていたことを窺がわせます(江戸期の学者・伴信友(ばん・のぶとも)は証拠こそ示しませんでしたが著書の中で『宇佐と気比は同体』と断定しています)そして「日本書紀」は次のような不思議な伝承を記しているのです。それは、

    応神天皇が敦賀を訪れたとき気比大神と名前を交換して、気比大神は誉田別(ホンダワケ)から伊奢沙和気に  

    応神天皇は、もとの伊奢沙和気(いざさわけ)から誉田別になった

という意味深長な内容のもので、この伝承と『福井県神社誌』の言う、気比神社の境内にある角鹿神社は、

    新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命として祀ったもの

だとするなら、今、応神天皇とされている人物は、もともと天日槍だった、ということになり、それなら宇佐八幡の祭神として応神が選ばれたことも納得できます。また、古事記が伝えている「御食津神(みけつのかみ)は気比神である」という伝承は、この気比のカミサマが稲荷神社の宇迦之御魂神と同様に、古い形の食物・豊穣のカミサマでもあることを示唆しています。さらに古事記は「神功皇后自身が天日槍の子孫」であるとも記しているので、神功・応神母子の原点が海外(半島?)にあることは確実であると考えられるのです。

はた」は「ぱた」()を意味しているのか 

そして、もう一つ「ヤハタ」神の「はた」について、先に機・幡・秦などの字が考えられることから、このシリーズで常連とも言える秦氏との関連を述べてきましたが、古代の日本語の「H音」(ha.hi.hu.he.ho=つまり[は行の音])が、少なくとも平安時代までは「F音」(fa.fi.fu.fe.fo)であったことが言語学の研究で明らかになり、それ以前の時代では「P音」であったことまで分かってきているそうです。秦と書いて「はた」と読ませる現在とは異なり、もし「はた」という言葉が先にあったとすれば、つまり、漢字としての「秦」よりも音としての「はた」が元々の形であるとするなら、その音表示は「はた」ではなく「ぱた」ということになり、これは取りも直さず「」を表す単語に他なりません。若し、そのように解釈できるのなら、正に秦氏こそ「海(の彼方から来た)」の人そのもの=カミ=であることになるでしょう。そして、秦氏が海の人であるなら、宇佐八幡宮の第三の祭神「ひめ」神が、実は宗像三女神である、という日本書紀の一書にも符合するのです。(「ひめ」神を玉依姫である、とする異説の通りでも、姫神の父親は海の神・大綿津見神(おおわたつみ)ですから余計に辻褄があいます。それに「わたつみ」の「わた」も「はた」と同義なのかも知れません。

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