銅鐸に描かれた鹿の線画について考える                   「サイトの歩き方」も参照してください。

三国志の魏書・東夷伝にある「倭人」の条によれば、当時の倭国内は『其地無牛馬虎豹羊鵲(かささぎ)』という状態であったらしく虎や豹は勿論のこと、牛馬羊も生息していなかったようです。また考古学などの研究によって古代の人々が猪や鹿などの動物を食糧としていたことも明らかになっていますが、弥生時代に各地で作成された謎の多い銅鐸にも、狩猟の様子が他の動物などと共に線画で表現されています。教科書などで良く取り上げられるのは「伝香川出土」銅鐸のもので、そこには弥生時代を生きた人たちの日常生活の一部と思われる風景が力強いタッチで描かれ、千数百年の歳月の経過など無かったかのような錯覚すら覚えます。銅鐸そのものについては古代人の祭祀の場で重要な役割を果たしていたのではないかとする解説がWEB上でも散見されますが、それだけ弥生人たちの心を捉えていた祭器が何故使われなくなり、更には全国各地で埋納されたのかについては明確な答えが見つけられない様でもあります。また、鹿についても縄文時代からの「食べ物」の一つに過ぎなかったはずの存在が、何時ごろから「神様の使い」として意識されるようになったのかも不明です。言葉を変えれば「分からない事だらけ」なのですが、風土記に見える記述を手掛かりに鹿の姿を追いかけてみましょう。

  昔むかし刀我野(とがの)に夫婦の鹿が住んでいて、夫の鹿は妻に内緒で野島(淡路国)に住む別の牝鹿のもとへ通っていた。
  ある夜、鹿は、自分の背中に薄(ススキ)が生えて、雪まで積もった夢を見た。それを聞いた鹿の妻は、夢占いをして、大変不吉な内容なので、
  島へは通はないように言ったのだが、鹿は恋慕の念をどうしても押さえられず、海を泳いで渡る途中で舟人に見つかり射殺されてしまった。 「摂津風土記」より

日本書紀の仁徳三十八年秋七月条には、皇后と共に「菟餓野(とがの)」から聞こえてくる「鹿の声」に心を打たれた天皇が『清かにして悲し』気な声を『可怜(あわれ)』と感じ入った様子が情緒的に述べられ、その後に摂津風土記(逸文)に記載されていた、上で紹介した説話とほぼ同じ内容の伝承も紀の本文として取り上げられているのですが、風土記と根本的に異なっている部分も含まれています。それは「鹿の声が聞こえなくなった」翌日、猪名縣の佐伯部が苞苴(おおにえ=贈り物)を献上したのですが、何とそれが「菟餓野で捕獲された」牡鹿だったのです。食事を担当する膳夫からその事実を聞いた仁徳帝は『あの鹿の声を聞いて慰(こころや)すんでいた』『佐伯部は適逢(たまさか)獲物の一つとして獲たのだろうが、なお、恨めしく思えてならない』と心情を語り、役人に命じて彼を安芸国の渟田に左遷したのでした。風土記では擬人化された牝鹿(女性)による「夢占い」と、その占いが示した未来の姿を信じなかった(欲望に負けた)牡鹿(男性)の死という単純明快なストーリーが、書紀の中では「何一つ落ち度がない者であっても、意のままに自在に処罰することが出来る大王像」を殊更主張した内容に変えられている訳です。そこには、かつて古い時代の大王たちが「占い」によって日々の行動などを決めていたが、最早そのような時代は過ぎ去り、その時の大王(天皇)の意志一つで何事も決める事ができるのだ、と日本書紀の編集者たちは云いたかったのかも知れません。また古代においては「鹿の肩甲骨」を用いた「骨卜」が行われていた事が遺跡の出土品などから明らかになっていますが、その「占い」を「鹿」自身にさせている辺りは風土記編集者に伝承を語った土地の古老(或いは民話を採取した者)の頓智の妙を感じさせます。

銅鐸の線画  東夷伝  三国遺事 

銅鐸(伝香川出土)  播磨風土記  骨占い  PR

菟餓野については仁徳帝の都近くの大阪市北部(現在の兎我野町付近)に比定する説が一般的のようですが、書紀の神功皇后・摂政前記に出てくる仲哀天皇の遺児二人による「反乱」の記事にも次のような記述があるので、若しかすると特定の場所(地名)を意味する言葉ではない可能性もあります。

  すなわち天皇の喪を収めて、海路よりして京に向す。時に麛坂王(香坂王)・忍熊王、天皇崩りましぬ、また皇后、西を征ちたまい、併せて皇子新たに生れませりと聞きて、
  密かに謀りて曰く「今、皇后、子有します。群臣、皆従がえり。必ず共に議りて幼き主を立てん。吾ら何ぞ兄を以て弟に従わん」と云う。
  すなわち詳りて天皇の為に陵を作るまねにして、播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。よりて船を編みて淡路島に渡して、その嶋の石を運びて造る。(中略)
  時に麛坂王・忍熊王、ともに菟餓野に出でて、祈狩して曰く「若し事を成すこと有らば、必ず良き獣を獲ん」と言う。

前掲の摂津風土記は菟餓野を「雄伴郡刀我野」とし、古事記は二人の王子たちが「斗賀野に進み出て」と表現していますから、仁徳帝たちが声を聞いた鹿の居た「とがの」とは明らかに異なる場所に違いありません。筆者はかつて兵庫の夢野を取り上げた際に「とがの」と「つげの」を結びつけた仮説を立てた経緯があるのですが、この「とがの」が「誓約・占い」に深く関わった「場」を意味する特別な言葉であると解釈するなら「神の声=神託を告げる」場所そのものを古代の人たちは「つげの」と呼び習わしていたのではないでしょうか?十三世紀末ころに成立したと考えられている『三国遺事』という外国の資料には「祭天所名迎日縣、また都祈野」とあり、半島では天を祀る所を「迎日縣」あるいは「都祈野(つきの)」と言ったそうですから、同じような祭天迎日の風習が倭国にも有って「天意」を占い、その「お告げ=吉凶」を聞いた後に自らの行動を決めていた可能性は十分にあります。

一方「占い」ではありませんが「播磨風土記」には鹿についての大変珍しい伝承が残されています。それは讃容の郡の冒頭に置かれた次のような記事です。

  讃容(さよ)という所以は、大神(伊和大神)妹妋二柱、おのおの競いて国占めまししとき、妹・玉津日女命(佐用都比売命)、生ける鹿を捕りふせて、
  その腹を割きて、その血に稲種きき。よりて、一夜の間に苗生いき。すなわち取りて植えしめたまいき。(中略)
  今も讃容の町田あり。すなわち、鹿を放ちし山を鹿庭山(かにわやま)と号く。

女神の行為はとても呪術的に見えますが、日本古典文学大系の監修者は「町田」に占いの原点となる「骨の町形=図形、紋様」であると注釈を付けていますから、古代においては鹿の血そのものに強い霊力が含まれているという信仰に近いものがあったのかも知れません。筆者はむしろ鹿を放った山の名前が鹿庭(カニワ)であるという文言が大変気になるのですが、それは「カニワ」が「神庭=カンバ」と繋がりを持った言葉だと思えるからに他なりません。また、更にはオノコロ・シリーズの主人公である応神天皇・継体天皇たちを頂点とする天孫族の一派息長氏の系譜に登場する「迦爾米雷王」という名前に含まれている「カニ」にも通じる、古代史を解釈する上で重要な言葉の一つだと考えているからなのですが…、それはさておき。

スサノオの乱暴狼藉に立腹したアマテラスが自ら天の岩屋戸に閉じこもり、世の中が真暗闇の世界になった折も、天界の神々は「天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天の波波迦(朱桜)を取りて、占合い麻迦那波しめ」て「神意」を推しはかろうとしましたが、垂仁天皇も言葉が不自由な皇子の為にどうすれば良いのか、神意が何処にあるのかを窺い知るために、霊夢を見た直後「布斗摩邇邇占相(ふとまににうらな)い」どの(何という)神様の心に添うようにすれば良いのかを導き出しています。長い縄文時代、狩猟を通して大変身近な存在であった「獲物」としての鹿が、いつ「占い」に不可欠なものとなったのかは不明ですが、農耕を主体とした弥生文化が浸透して行く中で古代人の意識に変化が起きたことだけは確かなようです。大王たちが占いの結果ではなく自らの意志を優先させた背景には、大陸から伝えられた仏教の強い影響があったとみられますが、鹿の持つ霊力(再生能力)への根強い信仰は銅鐸が地中へ埋納された後の古墳時代にも健在でした。倭国の人々は永い長い触れ合いを通じて得た独特の感情を「神の使い」と言う、他の動物には無い格別の地位を鹿に与えることで昇華させたのかも知れません。

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