浮世絵師東洲斎写楽が観た江戸の祭礼風景                                         「サイトの歩き方」も参照してください。

東洲斎写楽を名乗る浮世絵師は、十九世紀の初め(寛政六〜七年)頃、大江戸八丁堀に暮らしながら、版元の要請に応じて歌舞伎芝居の役者たちや江戸大相撲の関取たちを描き、生活の糧を得ていたと思われています。八丁堀という地名は、テレビ番組や時代小説などに必ず登場する江戸町奉行所勤務の与力・同心たちの組屋敷が在った場所としてご存知の方も多いことでしょう。それぞれの役宅は同心が百坪、与力は三百坪ほどの広さがあったのですが、江戸期を通じて諸物価は値上がりしても彼らの給金は一定額で昇給もありませんから、日々の暮らし向きも決して楽なものではありませんでした。そこで与力たちが編み出した窮余の策が土地建物の「賃貸」というもので、本来、将軍様から「拝領」している大切な財産を職務に関係のない勝手な使い方をするなど許されないはずなのですが、下級武士たちの懐具合を良く知る幕府の上層部が「見て見ぬふり」をしていたのかも知れません。そんな八丁堀の一角に、ある神社の御旅所がありました。どこの神様も普段は自分の家(神殿)に独りで居ますが、年がら年中家の中に籠りきりなのも退屈なものです。そんな神様の沈んだ気分を少しでも和らげて上げようと氏子たちが催す行事が各神社の例祭(神幸祭)で、大抵神々は人の担ぐ「御神輿(おみこし)」に乗って地域内を巡行します。その途中、氏神様たちが退屈しないよう、また、久しぶりの長旅でお疲れに成らない様、休憩をしていただく場所が「御旅所」で、勿論、それぞれの神々にとって所縁の深い重要な場所が選ばれます(所によっては神様の巡行先そのものが御旅所になる例もあるそうです。下の図、中央の赤い部分に御旅所が見えます。文字が逆さまになっています)

八丁堀図  方角分

大谷鬼次  成田屋六世  三津五郎  半五郎  鰕蔵

写楽は、わずか足掛け二年余りの間しか絵師として活動していませんが、彼が版画の世界から姿を消してから二十年余り経った文化十五年(1818)頃、歌舞伎俳優の瀬川富三郎という人が纏めたのではないかとされる『諸家人名江戸方角分』と呼ばれる一冊の有名人録が作成されました(この写本に関わる詳しい筆者の考察は「方角分再考」として既に公表していますが、ここでは通説に従がった記述を進めます)。上右で紹介している画像がその一部分なのですが、そこには「号 写楽斉」「地蔵橋」の文字が確認できます。つまり「写楽斉」を名乗った浮世絵師(名前の入る部分に故人を示す合印が付けてある)がかつて「八町堀、地蔵橋」に住んでいたと言う訳です。その地蔵橋と山王神社の御旅所がある場所は上の周辺図でも分かる通り、極めて近接しています。若し、写楽自身が八丁堀の住人であったのなら、きっと祭礼の折、地元の氏子たちが神輿や山車を連ねて御旅所に練り込む様子を見物していたに違いありません。また、その実際の棲家が八丁堀の組屋敷周辺では無かったとしても神田祭り、山王祭り、或いは深川祭りといった江戸名物だった賑やかな祭礼行事の様子をきっと楽しんだに違いありません。江戸っ子であれば商家の大旦那から裏長屋の熊さん八つぁんに至るまでが総がかりで祭に参加したと思われますが、隔年ごとに執り行われる山王祭あるいは神田祭といった大祭では、各町ごとに趣向を凝らした山車を引き回し最盛期には、その数が何と六十台にも達したと伝えられています。また、山車の行列には前もって決められた順番があり、祭りの当日(旧暦六月十五日)が近づくと参加する山車を絵入りで紹介する「祭礼番付」と呼ばれる刷り物が刊行されました。

この祭りの粋を凝縮したような「番付」の出版を担っていたのは書籍などを扱っていた大手の版元ではなく、江戸庶民の情報源になっていた瓦版などを手掛けていた零細な業者たちではなかったかと思われます。例えば、文化十四年に刷られた氷川神社の番付を見てみると八丁堀「七軒丁」に住む「近江屋虎吉」という人物の名前が版元として明記されています。この住所は地蔵橋の直ぐ近くに在る路地に面した一角に建てられた「七軒」(七棟?)の長屋一帯を指す俗裡名で「虎吉」以外にも数軒以上の版元が居たことも分かっています。下に幾つかの版元が文化年間に出した番付を貼り付けてみましたが、山車人形などの細かい描写も丁寧に刷り上がっています。きっと江戸っ子や、たまたま祭礼に巡り合った「おのぼりさん」達が競って買い求め、祭りの雰囲気を存分に楽しんだことでしょう。(古地図には七軒丁の部分に『埋立地』と書き入れた物も伝わっていますから、元々、川堀だった水路を埋め立てて出来た新地だった可能性もあります)

虎吉版  本屋版  與七版  佐倉屋版

目次  斎藤与右衛門  遠山景元  PR

ところで、東洲斎写楽という浮世絵師は、当時、江戸に住んでいた大名お抱えの能楽師・斎藤十郎兵衛の「仮の姿」である。そのような「説」が巷の写楽談義でも良く聞かれるようになっていますが、十郎兵衛の親族ではないかと想像される斎藤与右衛門という名前の人物も、多くの番付版元たちの住む「七軒丁」内で長らく住んでいました。二百年近くも昔に八丁堀の片隅に誰が住んでいたのかを、どのようにして知ることが出来るのか?不思議に思われるかも知れませんが、実は江戸期には「士分(侍の身分)」を持つものだけの紳士録『武鑑』が発行され、内容の修正加除も毎年行われていたのです。そこには徳川将軍家を頂点とした大名小名、旗本、御家人は勿論のこと幕府から「侍の身分」を与えられていた医師、学者、商人(所謂、将軍家御用達)、町年寄などと共に能役者たちも名鑑の末席に名を連ねていたのです。武家に限って見ても、誰が、いつ、どのような役職に就いて幕府を支えていたのか?また、その人物の年俸は如何ほどで家紋は何だったのかなど、歴史上の人物に興味を持っておられる読者の方は、是非、一度この資料をWEBで閲覧してみて下さい。今回は、江戸町奉行所の役人たちが脇役で登場しましたから、ドラマでも人気のある遠山金四郎景元の項目を例として上に紹介しておきました(町奉行の上に「ろ」とあるのは老中の支配下にあることを意味しています。「わ」は若年寄の配下になります)。

幕府公認の「天下祭り」 本八丁堀の山車は神功皇后

さて、肝心のお祭りの話をしましょう。神田明神や山王神社の祭礼では幕府から祭りのための費用が下され、十七世紀前半には江戸城内への立ち入りが許可されるなど、徳川幕府公認の祭りであったため、江戸の住人たちは此れを「天下祭」と呼んで自慢の種にしていました。そして、先頭を切って進む一番山車は「諫鼓鳥(かんこどり)」、それに続くのが山王権現の使いとされる「猿」を頂く二番山車、後、決められた順番通りに行列が練り歩くのですが、写楽斉たちの住まいが在った本八丁堀の山車は「神功皇后」の人形を飾り付けたものでした。その由来について何か資料が公表されていないか探してはみたのですが、何故、伝説上の人物で関東の武家たちとも縁の薄い帝室きっての女傑を山車の象徴に選んだのか、遂に由緒を明らかにすることは出来ませんでした。ただ、神功皇后人形は日本橋通り・呉服町・元大工町の山車にも載せられていますので、江戸っ子にとって某かの「贔屓」が在ったのだと推測されます。浮世絵版画の世界は、あくまでも人目を惹きつけるための「工夫」を凝らした商品ですから、当時の江戸情緒が「そのまま」に表現されている訳ではありませんが、芝居見物や社寺への参詣、春には花見見物そして夏の例祭は江戸に暮らす者にとって無くてはならない季節の楽しみの一つだったはずです。写楽自身は、何故か、そんな江戸の風情を切り取った作品を残していませんが、有名無名の浮世絵師たちが自慢の風景を版画で後世に残してくれています。

神輿  猿の山車  神田祭り

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