「昭和」がレトロであり、昭和が静かな「ブーム」なのだそうである。そんなこと云われても、昭和生まれの管理人には、今ひとつピンと来ないのですが、本編のオノコロ・シリーズも、そろそろネタ切れ間近。という事情から、この新しいコーナーを造ってみることに致しました。例によって主題の選択は、その時々の思いつきによるもので、確たる基準がある訳ではありませんので、悪しからず。。

不敬」な名前を改名せよ!!                                      サイトの歩き方」も参照してください。

日本という国が、アメリカを初めとする国際連盟を相手に、全面世界戦争をするべく準備に本腰を入れていた昭和十六年春三月、一つの法令が内務省から発布された。市井の人間が普通に暮らしてゆく分には、ほとんど差しさわりの無いものではあったが、国という体制・権力が腹の底で何を考え、国民を何処へ連れてゆこうとしているのかを推し量るには格好の材料となる、画期的な出来事の一つだと云えた。

昔(昭和初め頃)のラジオは、こんな形をしていました。 レコード・プレイヤー  ディック・ミネ

大きな上体を前かがみにして、少し足を引き摺るようにして歌うのは、大学時代に所属していた相撲部の稽古(或いは試合だったか)で大腿部を傷めたせいなのだと、何かの歌番組で年配の司会者が「解説」していたが、ジャズの草分けとも云える彼の歌いっぷりは決して巧いとは言える代物ではなかった。しかし、鼻歌でも歌うように独特な節回しで歌う歌謡曲『旅姿三人男』と、唄歌いディック・ミネのミスマッチ振りには、はなから興味をそそられた。例によって「初見」の日付は茫洋とした記憶の遥か彼方に霞んでいるが、恐らく昭和四十年代に見聞きしたTVの「懐メロ」番組の一つだったに違いない。明治四十一年と云うから1908年、四国・徳島の生まれである。父親・三根円次郎は大正末に創立された地方の旧制私立中学の初代校長に迎えられた程の人物だったらしいが、息子の徳一は大学在学中からバンドを結成、卒業後も役所に勤めながらタンゴ楽団に所属して歌手兼ドラマーをこなす典型的な「二足のワラジ」人生を楽しみながら歩む男だった。

巷の噂によれば、ダンスホールに出演していた彼の個性が、当時、すでに大物レコード歌手になっていた淡谷のり子(あわや・のりこ、1907〜1999)の眼に留まり、作曲家・古賀政男(こが・まさお、1904〜1978)も歌唱力を高く評価したのだとか…。其の甲斐あって昭和九年、プロの歌手としてデビュー、低音の魅力も手伝い『ダイナ』は多くの女性ファンを生み、『人生の並木路』(昭和12年)、『旅姿三人男』(昭和14年)は同性の間でも人気を博し、一気にスターダムにのし上がったのだが、世は正に戦時色を益々濃くする軍国主義の只中であり、彼の「芸名」が、その筋の間でとかく批判されるようになった。淡谷の大ヒット『別れのブルース』が発売されたのが昭和十二年、翌年既に「国家総動員法」が公布され、日本は戦争への坂道を転げ落ちるように突き進んでゆく。

ストーブ型もあります。  なかなかレトロです。

予定されていた「東京五輪」は中止となり、昭和十四年になると国家は婦人の髪型にまで注文をつけるようになるのだが、ディックたち十六名の芸能人たちに「改名」が命じられたのは昭和十五年三月二十八日のことであった。その理由は、

  外国人と紛らわしい  国家に対して不敬

というものであったのだが、彼は本名の徳一ではなく「三根耕一」の芸名を名乗り、終戦まで歌い続けた。英語に堪能な方でなくても彼の「芸名」が如何に「不敬」な代物であるかは、お分かりだとは思うが、歌番組などで若い女性アナウンサーが、さも親しげに彼の芸名を連呼する姿は、いささか滑稽さを通り越し、グロテスク以外の何者でも無かったように記憶している。それはさておき、彼が「昭和」を代表する唄歌いの一人であったことは確かである。

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