元禄十一年「分限帳」と斎藤与右衛門そして写楽                      「サイトの歩き方」も参照してください。

東洲斎写楽という江戸の浮世絵師について、彼は四国、阿波蜂須賀藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛の仮の姿であるとする解説などに引用されるのが『重修猿楽伝記』という能楽分野の資料に含まれている各座所属の役者の給与一覧とも言うべき「分限帳」(天保11年調べ)と文化7年(1810)に作成されたと考えられている『猿楽分限帳』の二つなのですが、実はこれまで誰も取り上げたことが無い分限帳(写本)が別にもう一本存在しています。そして「写楽=斎藤十郎兵衛」説を掲げる人たちが「斎藤家では十郎兵衛と与右衛門の名前を一代ごとに交互に名乗った」のだとする根拠も、猿楽伝記等に含まれている分限帳に記された文言にあるのです。下左の画像を見てもらえば分かるように、斎藤十郎兵衛という人物の右肩部分に「父 与右衛門」とあり名前の左下には「午 四十九(歳)」と年齢も記されています。この「午」という文字は「猿楽分限帳」が作成された文化七年(1810)が庚午(かのえうま)の歳にあたっていた事を意味しているもので、当時は数え年ですから「1810−48=1762」つまり十郎兵衛は「与右衛門」という名前の父を持つ「1762年生まれ」の能楽師だったことが分かります。一方、天保十四年(1843、癸卯)の年に作られた「重修猿楽伝記」の「喜多流分限帳」には、次の世代の人だと考えられる「卯 五十二」(1843−51=1792)の斎藤与右衛門の名前が掲載され、彼の父が「十郎兵衛」だったことも明らかになっています。

天保分限帳  猿楽伝記 

つまり猿楽(能楽)の部門に伝わる二つの文書にある記述によって喜多流・地謡の役者である斎藤家では「親が与右衛門であれば、その子は十郎兵衛」を名乗り、更に「その次の孫は再び与右衛門」の名前を受け継ぐ伝統があったのだとされてきた訳ですが、今回、ご紹介する資料は、上で見た物よりも更に一世紀近く遡った元禄時代に作られたもので名称は『元禄十一戌寅年、分限帳控』、明和八年(1771)に日吉氏によって筆写されたと奥書にあります。下左と中央の画像が、その元禄分限帳の一部ですが、そこに名前の見える斎藤與(与)右衛門は「寅年 七十九」とありますから元禄十一年(1698)現在で、数えの七十九歳、ということは1620年生まれの人だった事になります。さて、徳川幕府の肝いりで喜多流の一座が創設されたのが元和年間(1615〜1624)ですから、正に流派と同時に誕生した草創期の一員だった「與右衛門」ですが、下中央の画像に注目してもらえば、彼の父は「十郎兵衛」ではなく「清兵衛」と名乗る人物であったことが分かります。分限帳控と同じ年に発刊された「武鑑」には与右衛門と並んで「清左衛門」という名前の役者が居たことも判明していますので、若しかすると二人の斎藤氏は姻戚関係にあった可能性もあります。

元禄分限帳  元禄・武鑑  PR

この二人の能役者たちは宝永四年(1707)版の「武鑑」そして正徳三年(1713)版、さらには享保十六年(1731)版の「武鑑」にも名前が見えますが、寛延三年(1750)版になると斎藤清左衛門の名前は消え、代わりに斎藤清助という人物が登場します(下右の画像参照)。分限帳など親子関係を示した文書がありませんから断定的な事は言えませんが、その名前に「清」の一文字が含まれていますから「清左衛門」の子供か一族の役者ではないかと想像されます。この「斎藤清助」という能役者の名前は、これ以降も明和年間〜天明三年に到る間も武鑑が続けて掲載しているのですが、天明四年(1784)の版からは名前が消えてしまいます。寛延三年から数えて三十四年という歳月は、丁度、一人の役者が活躍する期間として妥当なものだと考えられますから、斎藤清助の家系はここに来て途絶えたものと推測することが出来ます。ただ、実子などが居ない場合でも太夫に頼めば一門の相応しい家から養子などを貰い受け、名跡を継ぐことは十分可能だったと思われるのですが、何故か、清助家ではそうしませんでした。また、この天明四年という時期は、斎藤与右衛門がそれまで住んでいた「八丁堀地蔵はし」から「八丁堀七けん丁」に引っ越した年でもあり、喜多流に限って見ると武鑑に掲載される能楽師の人数が最も少ない(太夫を除いて僅か十名)年でもありました。全ては偶然の出来事なのだろうとは云え、何か因縁めいたものを感じてしまうのは筆者だけなのでしょうか、それはさておき。

武鑑・宝栄二年版  武鑑・享保三年版 

武鑑・天明三年版  武鑑・天明四年版

「天明の大飢饉」が江戸の能楽師たちに、何の影響も与えなかったと考える人は恐らく一人もいないでしょう。若し、東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛と名乗る「1762年生まれ」の人であったのなら、彼は二十代半ば頃に、自分の眼で「江戸の打ちこわし」を見ていた可能性すら十分にあります。その激しさは町奉行所では沈静化できなかったほどだったとも言われています。東北地方を中心にした食糧事情の極端な悪化は、一部の地域で人口を半減させたと伝えられています。疲弊しきった農村部から逃げ出す農民も後を絶たず、耕す人を失った農地は荒廃の一途を辿るしかありませんでした。庶民たちと同様、江戸で暮らしていた能役者たちの生活も諸式が値上がりする中、決して楽なものではなかったはずです。斎藤家に関わる「過去帳」によれば、飢饉による騒動がやっと収まり、松平定信による「寛政の改革」がすすめられていた最中の寛政三年六月、十郎兵衛の父親と思われる斎藤与右衛門が阿波蜂須賀侯の江戸中屋敷内(南八丁堀)にあった長屋の一室で息を引き取りました。それまで親子二人の俸給が支えていた暮らし向きは一層厳しさを増したことでしょう。また、能楽資料に含まれる分限帳の記事から、寛政四年(1792)には十郎兵衛の子供・与右衛門が誕生していたことも明らかになっています。幕府は「改革」の名目で様々な規制を強化していました。そんな状況にも拘らず斎藤家の一家を養うべき当主が、一年近くにも亘り芝居小屋に入りびたり、歌舞伎役者の似顔絵を書き続けていた。果たして、そんな事が有り得たのでしょうか?

これまでにも再三取り上げてきた事柄ですが、江戸期を通して刊行された数々の「武鑑」に、斎藤十郎兵衛という名前の能役者は一度も登場しません。そして今回見てきた「元禄十一年分限帳」では「與(与)右衛門」の父の名前が「清兵衛」だったことも判明しました。しかし、一方では「猿楽伝記」などに記録された「与右衛門・十郎兵衛」親子が存在しています。この、明らかな矛盾は、それぞれの人たちが「別人」であることの証なのかも知れません。

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