祇園神社と天津彦根命の後裔たち                                                 「サイトの歩き方」も参照してください。
神戸には昭和46年(1971)まで市営の路面電車・市電が走っていました。全盛期には全ての路線網の長さが凡そ36キロメートルもあって、東西に細長い市域の「山手」と「海手」を結ぶ市民の足として大変重宝されたもので、昭和30年代中ごろの運賃は確か一区間10円だったように思う。JR神戸駅近くの有馬道から山裾の平野までが「平野線」のルートで、その終点である平野停留所から三木市に通じる有馬街道の急な坂道が始まり、登り始めると直ぐ神社の鳥居と急こう配の石段が視野に入ってくる、祇園神社である。社伝によれば平安時代の末期、疫病と怨霊の跳梁跋扈に悩まされ続けていた朝廷は、播磨の国の廣峯神社に祀られているスサノオ大神を勧請して、都の安寧平安を少しでも回復しようと考え使者を送り出したのだと云います。時の天皇は清和(850〜881)で、彼は仏教に深く帰依し、譲位した後、自ら望んで出家しているほどの人なので、国家の安全とともに人々が穏やかに暮らせる世の中の実現を強く求めていたのかも知れません(尚、この天皇の腹違いの兄が木地師の祖で小野の宮と称された惟喬親王です)。

国を挙げての勧請に応えたスサノオ神の一行が、分霊を載せた御神輿を担いで姫路の廣峯社を出発したのが貞観十一年(869)のこととされ、京への道すがら、播磨の書写山円教寺(天台宗)で修業した経験を持ち、神社とも縁のあった徳城坊阿闍梨が近くの寺に住んでいた関係で、平野の地にも一泊することになったようで、日頃、地域で信仰の支えとなっていた阿闍梨から大神の勧請に至った話を聞いた地元の人々が、素戔嗚の「神徳」に大いに感銘を受け、小さな祠を建てて祀ったのが平野の祇園さんの始まりらしいのですが、毎年七月十三日から一週間行われる祇園祭りは人気が高く、近隣の人たちだけでなく遠隔地からも多くの人々がニ百軒余の露店で埋め尽くされた神社に通じる道路と社の周辺を訪れ、日没後の時間帯ともなると浴衣姿の人を含め、神社を詣でる人の波は途切れることがありません。

次に廣峯神社ですが、ここの主祭神は勿論スサノオと五十猛神の親子で、それに妻神の奇稲田姫、足摩乳、手摩乳、宗像三女神、天穂日命、天津彦根命などの諸神も配祀されています。そして、この社にも創建にまつわる興味深い一つの話が伝わっています。天平五年(733)の春、大唐から帰朝した留学生の吉備真備(695〜775)が、都へ帰り着く途中、この地で「神威」を感じ取り、それを直ぐ聖武天皇に伝えました。真備の能力を高く評価していた帝は早速、翌年、白幣山に社殿を創設したのです。それから二百四十年あまり経った天禄三年(972)に現在地へ遷座したと記録されていますから、清和天皇が分霊の勧請を求めた時は、まだ白幣山に社殿があった時代のことになるようです。吉備を代表する豪族が神社の創始に深く関わっていたのにもかかわらず、同社の宮司廣峯氏は凡河内忌寸の子孫でした。古文の授業でもお馴染みの三十六歌仙の一人、凡河内躬恒(859?〜925)の子・恒寿が始めて大別当に就任した後、代々世襲されましたが七代目勝賀に男子が無かったため、同じ播磨の豪族である阿曽氏の一族・広瀬三郎を婿に迎え、その子で孫の家長に神職を継がせたと言います。地方の官僚を幾つも勤め上げた躬恒の最後の任地が淡路国(地位は権掾)だったようなので、任期中に躬恒の人柄を認めた誰かが息子の別当就任を斡旋してくれたのかも知れません。

廣峯神社  祇園神社 

天皇本紀  古事記   PR

その凡河内家は、このサイトの主役の一人でもある天津彦根命の子孫に当り「天津彦根命−−天御影命−−意富伊賀都命−−彦己曾根命(凡河内国造)・・・香賜−−味張」という系譜を伝えている一族で、近江の御上神社の祝である三上氏(山背国造)とは同族になります。従って、天孫族の始祖とも言うべきスサノオたちを祀るには最適の人選だったとも言える訳ですが、同社に婿入りした阿曽(アソ)氏との関わりも見逃せません。と云うのも、近隣の白国という土地に建つ白国神社が、安産と「白幣」を主題にした伝承を持っているからです。同社の栞によれば由来は、

  今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入彦命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり
  大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、木花咲耶媛(コノハナサクヤヒメ、神吾田津日売命の別名)が忽然と現れ

願いを聞き届けてくれ、子供も無事に産まれたので阿曽氏が氏神として当地に社を建てたというものです。この起源譚は当然、阿曽氏の一族が伝えてきたものだと推測されますが、話の中身には幾つもの寓意が隠されているように思えます。先ず、コノハナサクヤ姫という女性はオオヤマツミの娘で、天孫降臨したアマテラスの孫・ニニギノミコトの妻で「一夜で身ごもった」事を夫に疑われたことに発奮、産屋に火を放ち「火中」で見事に三人の男の子を生んだ女傑なので、皇統の原点を支えた重要人物の一人だと言えます。この「火」の中で子供を産む話は、垂仁天皇と狭穂姫との息子・ホムツワケと同趣旨であり、このサイトで何度か取り上げたように「ホムツワケ」と名付けられた皇子が将来「大王」の位を継ぎ天下に君臨する事を暗示した物語ですから、ここでは「稲背入彦命」の子孫が皇統を継いだと暗喩していることになります。先代旧事本紀の「国造本紀」が、

  成務天皇の時、景行天皇の皇子、稲背入彦命の孫である伊許自別命を針間国造に任じた          (註:稲背入彦命は垂仁天皇の娘婿だったと考えられています)

と記載し「新撰姓氏録」(右京皇別)が、

  稲背入彦命の後、御諸別が針間別の祖である。阿良都別またの名・伊許自別命が針間佐伯直の祖である

と記録し、更には「播磨風土記」が『応神朝に阿我乃古が播磨国神埼郡多陀の里を賜り、佐伯直の祖となった』と伝えている様に、播磨は稲背入彦命の一族と深い縁のある地域であったことは明白なようです。奈良大安寺(真言宗)の行教和尚が宇佐八幡宮に参籠し熱い祈祷を捧げた結果、八幡大神(応神天皇)から『吾れ、都近くの男山に移坐して国家を鎮護せん』との有り難い託宣を得たのが貞観元年(859)、石清水の真新しい社殿に大神の分霊が遷座したのは翌二年のことだと記録されています。それから僅か十年後、最新の知識を会得したであろう吉備真備の「神威」譚を格好の材料として、朝廷に祇園神社・スサノオ大神を売り込んだ「天台宗」を擁護する立場の有力者が居たのではないか、と勘繰るのは少し斜め読みの憾無きにしも非ずですが…、当らずと云えども遠からずでは?終わりにもう一つ「白幣」について触れておきます。オノコロ・シリーズでは以前にも、この言葉について取り上げた経緯があるのですが、古文献に珍しい姓を持つ古代氏族が登場しています。それが「先代旧事本紀」(天皇本紀)iに見えている景行天皇の皇子を称する「息前彦人大兄皇子・菴智白幣造の祖」です。同じ、景行皇子の「日向蘇津彦命」は「菴智君の祖」とも記載されていることから、九州に故地を持つ一族かと推測されますが、その一方で「古事記」がスサノオとアマテラスの「誓約」段の中で、天津日子根命が、

  凡川内国造、額田部湯坐連、茨木国造、倭田中直、山代国造、倭淹知造、蒲生稲木、三枝部造などの祖

であると記録していますから、各氏のいずれもが天津彦根命と同族関係にあるという伝承、系譜を持っていた、つまり天孫族だったと解釈して良いのかも知れません。中田憲信が集めた古代氏族に関わる系図『東国諸国造』(「諸系譜」第一冊)によれば、菴智造の祖を筑波使主命(茨城国造)の孫・己呂毛だと位置付けています。この人物は額田部連の祖である美呂浪足尼の兄弟で、高市縣主の祖先でもあるので、やはり天津彦根命の後裔であることは間違いなさそうです。それだけ同神の子孫が祭祀に相応しい存在であるという認識が広く浸透していた証なのかも知れません。

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