権現山51号墳と播磨と稲背入彦命                                     「サイトの歩き方」も参照してください。

考古学の世界では従来「三角縁神獣鏡と円筒埴輪は、一つの遺跡から同時に出土することは無い」とされていたのですが、兵庫県揖保郡の小さな山上に築かれていた権現山古墳群51号墳(現、たつの市御津町。全長約43メートル、前方後方墳)の発掘調査によって平成元年「特殊器台型埴輪、特殊壺型埴輪と五面の三角縁神獣鏡」などが発見されたことによって、その通説は変更されることになりました。筆者はかつて、この小山の頂上付近まで登り、木々の間から播磨灘の風景を眺めた経験もあったのですが、出土した遺物が意味するものを十分に理解することが出来ず、長く資料も放置したままとなっていました。しかし大和の初期王朝を調べて行く過程で吉備、播磨地方が占める重要性に思い至るようになり、古墳造営にも同地域が果たした役割は決して小さくなかったと考えるようになったのです。今回は、今までに集めた幾つかの材料を基に、ヤマト王権を支えた(と思われる)外部勢力の存在について推理してみることにしました。

先ず、権現山51号墳についてですが、その墳丘の形が「双方墳」であることから築造当時(三世紀半ば〜後半頃)被葬者が地域の有力氏族の長ではあるものの、未だ、中央王権からは一段も二段も「下」に見られていた(方円墳は作ることが出来なかった)者の墓だとも考えられます。ただ、五面出土した神獣鏡の内の三面が、大和に近い京都椿井大塚山古墳(三世紀後半頃、全長約175メートル、方円墳)から出た鏡と「同笵」だとされていることから、ヤマト政権とも一定のつながりを持った地方首長の墓であったことを窺わせます(註:京都の八幡茶臼山古墳との関連性から忖度すると、双方墳の形式を重んじる氏族の墓だったと考えることも出来るのかも知れません)。同墳の出土品で特に注目されるのが特殊器台型埴輪(円筒埴輪の原型になった土器で、吉備地方が起源とみられている)に見られる「蕨手紋」で、専門家の調査により「U−a、U−b」型に分類されている文様は、最古の方円墳と表現されることが多い箸墓古墳から出土した土器の文様に大変良く似ているのです。また、この独特の文様を持った遺物は、箸墓の近くに在る巻向石塚古墳の周濠からも見つかっています。石塚古墳は箸墓よりも更に古い時期(三世紀初め〜中頃)に築造された全長およそ96メートルの方円墳ですが「弧紋円板」と呼ばれる木製品には、埴輪の紋様と同種のものが彫られていました(復元すると完全な円形になると考えられています。下の画像参照)。

権現山から見る播磨灘  案内板 

箸墓古墳  巻向石塚古墳  弧紋円板

日本書紀が伝える「三輪山伝説」によれば第七代孝霊天皇の娘、倭迹迹日百襲姫が亡くなったので『すなわち大市に葬りまつる。故、時人、その墓を名付けて箸墓という。是の墓は、日は人作り、夜は神作』ったとされいますが、数代も前の皇女が崇神天皇と同じ時間軸で暮らしている訳がありませんから、この部分は明らかに記紀編集者たちによる伝承古事の潤色と考えるべきですが、その一方で、巨大古墳の築造そのものが実は崇神帝より前の世代から行われていた事も示唆していると見做せるでしょう。そうすると、石塚古墳など、明らかに箸墓より「古い」古墳が巻向周辺に多数存在している処からも、大和での古墳造りが崇神朝以前から吉備、播磨地方の葬送儀礼を取り入れていた可能性が色濃くなります。また、権現山の南側、朝臣(あさとみ)と呼ばれている所から阿蘇凝灰岩製の船形石棺(南肥後型)が出土していることも見逃せません。かつてオノコロ・シリーズでは阿蘇ピンク石について何度か取り上げ、九州肥の国宇土産の凝灰岩が遠く近畿まで運ばれてきた事実を紹介してきましたが、氷川下流域から切り出されたと思われる同種の南肥後型石棺は京都府の八幡茶臼山古墳(三世紀末〜四世紀初め頃、全長約50メートル、前方後方墳、下の画像参照)からも出土しており、古墳の築造年代が三世紀末ごろと推定されていることから、少なくとも崇神帝の治世時には大和と肥の国の交流が深まっていた事を思わせます。

 瑞籬朝(崇神天皇)の時、大分国造と同祖、志貴多奈彦命の児の遅男江命(健緒組)を火国造に定める。 「先代旧事本紀」国造本紀より 
 朝廷、勅して、肥君らが祖、健緒組を遣りて、伐たしめたまいき。(略)姓名を賜いて火君健緒純と云う。   「肥前風土記」より

記紀は、三〜四世紀の古墳築造については何も語りませんが、崇神天皇は「十年九月に四道将軍」を北陸・東海・西道(吉備)そして丹波に派遣したと伝え、大和王朝が四世紀初め頃から全国各地へ勢力範囲を広げていった事情を明らかにしています。続く、垂仁天皇の時代には出雲から呼び寄せた野見宿禰などにより土木技術が盛んになった事を窺わせる記述があり、帝と薊瓊入媛との間に生れた阿邪美都比売命が「播磨別の始祖」(書紀)とされる稲瀬毘古王(稲背入彦皇子)に嫁いでいます。紀が『景行天皇と五十河媛との間に生れた神櫛皇子の弟』だと主張している稲背入彦命は、当サイトの主人公の一人でもありますが、幾ら古代でも「娘と孫」による直系異世代の婚姻は困難だと言えます。従って、此処でも世代の改編が行われたと考えるべきで、他のページで詳しく解説した筆者の「玉・瓊・渟理論」に従がえば、垂仁と景行は「親子」の間柄ではなかったことになりますし、書紀の云うように稲背入彦命は景行天皇の皇子でも無く、垂仁の娘婿として王権の近くに位置していたのだと考えるのが自然です。次に、景行天皇は播磨稲日大郎姫を皇后に迎えて日本武尊などの子女を儲けていますが、同姫が古事記の云うように吉備臣らの祖、若建吉備津日子が父親であれば、景行の治世下において大和と吉備・播磨の繋がりは、より強固なものになったと見ることが出来そうです。今、筆者が頭の中で描いている大和初期王朝と外部勢力との関わり合いを示せば、およそ以下の様になります。

 1 崇神の「四道将軍」派遣は疑問だが、神武が大和入りする前に「八年、吉備の高島宮にいた」とする古事記の記述等を参考にするなら、大和と吉備地方のつながりは、
   少なくとも三世紀の半ば頃までには基本的な部分が出来ていたと思われる。(桃太郎伝説も歴史の一部を反映しているのかも知れない)
 2 神武一族の「成功」を耳にした九州居残り組や、姻戚関係にある者のうちの幾人かが「東」の新天地を求めて瀬戸内を東上したが、火(肥)国造の祖となった健緒組の後裔も
   遠い「縁」を頼りに九州を出て「四国」に到り、実力で新たな領土を切り開いた。(国立図書館収蔵の「諸系譜」第10冊に含まれる『漆島公』系図によれば、健緒組は、
   神武天皇−−神八井耳命−−彦八井耳命−−武宇都彦命−−武稲富命−−武河上命−−建久久知命−−建男組、と云う家系に生まれた人物である)
       景行の皇子とされてる稲背入彦命の「兄」神櫛皇子は日本書紀が「讃岐国造の祖」だと記録している。この神櫛皇子が健緒組の子供だと考えられる。
   (讃岐地方でも長崎鼻古墳(高松市屋島、全長45メートル、方円墳、5世紀初め頃)など三つの古墳から阿蘇溶結凝灰岩製の石棺が出土している)
 3 大和畿内では崇神、垂仁と続いた王権が限られた範囲内ではあったが権力基盤を確かなものにした。それには、吉備から導入された葬祭儀礼が役だったと思われるが、
   垂仁天皇は娘の一人を遠縁の稲背入彦命に嫁がせて播磨地域との連携を深めた(記紀の云う、天日矛の来朝は何かを寓意したものだとも考えられる)。
   更に次の大王、景行は吉備の実力者の娘を「皇后」として迎え入れ、大和と吉備の強い同盟関係を樹立、それを背景に九州など全国各地への支配権拡大を精力的に進め、
   最晩年には身内となっていた稲背入彦命の献策?を受け入れ、都そのものを近江に遷した。
   この背景には「鉄資源」の確保(独占)と有効利用(武器生産)があったと思われるが、長期的に見ると帝室の「入れ替わり(応神王朝の誕生)」を齎す結果となった。

八幡茶臼山古墳石棺  埴輪の紋様  朝臣の石棺

話を権現山51号墳に戻します。山の所在地が現在の「たつの市揖保川町」の御津町だと紹介しましたが、その名前の通り揖保川西岸の瀬戸内海(津)に近い所に古墳群が築造されています。そして筆者が、この古墳に注目したもう一つの理由が、ほぼ北側に位置する「阿曽(アソ)」の地名と阿宗神社の存在です。山と社はおよそ5キロメートル程離れていますが、阿宗神社には神功皇后・応神天皇親子と共に息長日子王が祀られており、摂社として高良神社も建てられています。そして社には、このお宮さんが「欽明天皇の頃」に九州の宇佐神宮から勧請されたと云う伝承があるのです。「阿曽」は「阿蘇」の書き換えであり、この地には阿蘇凝灰岩を近畿に持ち込んだ一族が暮らしていたに違いありません。そして、その「阿蘇」氏と息長氏は、とても近しい間柄だったと考えて良さそうです。古事記は開化天皇の系譜を述べた段の中で、

  日子坐王−−山代之大筒木真若王−−迦爾米雷王−−息長宿禰王−−息長帯比売命(神功皇后)

と云う系譜を記録し、神功皇后の弟・息長日子王が「吉備の品遅君、針間の阿宗の君」の祖であるとも記しています。「健緒組、稲背入彦命、阿蘇、息長氏」は全て一本の糸で繋がっているように見えます。

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