倭国大乱と淡路島の五斗長垣内遺跡          「サイトの歩き方」も参照してください。

瀬戸内海の穏やかな海原を見下ろす淡路島北部、黒谷と呼ばれる傾斜地に弥生時代を代表する鉄器工房の集落・五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡が広がっています。淡路市の教育委員会が発行している案内誌などによると、この遺跡には竪穴式の建物が合計二十三棟あって、そのうちの十二棟に鍛冶工房があったと考えられています。年代的には弥生後期(紀元一~二世紀頃)に最盛期を迎えたと思われ、最も大きな建物では直径が10.5メートルもあって太い柱が10本建てられ、少なくとも3回の立て直しが施されて、およそ100年以上の長期間にわたって鉄器類などが作られていたようです。

范曄(398~445)が五世紀の前半に著した『後漢書』東夷伝によると、西暦57年(建武中元二年)には早くも「倭奴国」が大陸の王朝に「使人」を送り、その凡そ半世紀後には「倭国王」帥升が安帝永初元年(西暦107)に自ら「生口160人」を献じて謁見を願い出ています。同書は列伝第七五の中で、

  桓帝、霊帝の治世の間(西暦146~189年)倭国は大いに乱れ、何年にもわたってお互いに攻め合い、国の主が存在していなかった

と具体的な年号を上げて倭国内の「大乱」を伝えています。西暦二世紀に淡路島内で稼働していた「工房」を思わせる集落跡は、黒谷の更に6㎞ほど北部にも別にあり、それが舟木遺跡と呼ばれるもので、四棟の大型竪穴建物の内一棟に炉の跡が確認されており、今後の調査の結果いかんでは五斗長垣内遺跡を上回る規模の集落だったことが明らかになる可能性があります。ただ、今のところ武器類の出土例が無く、珍しい漁具(鉄製のヤス)が発見されていますから、もっぱら海を生活圏にしていた人たちに最新式の鉄製用具類を供給していたのかも知れません。

 

 炉の跡  石器 

また一世紀の後半、王充(西暦27~97年)が編集した『論衛』にも、

  周の時、天下泰平にして、倭人来りて暢草を献ず

と記されていますから、倭人の実力者・盟主たちは「珍しい薬草(ウコンとする説がある)」を手土産に中国の王朝詣でを企て、何倍何十倍あるいは其れ以上の「見返り」を期待して、危険を伴う大陸への渡航を相当古い時代から繰り返していたのかも知れません。時代は違いますが三国志の魏書、東夷伝弁辰条の中には、

  国、鐡を出だす。韓、濊、倭みな従ってこれを取る。諸市に買うに鐡を用う。中国の銭を用いるが如し。また以って二郡(楽浪、帯方)に供給す。

の一文があり良質の鉄を産出する弁辰(韓半島の南部一帯)に様々な地域から人々が集まり「産鉄」に励んでいたことも明らかです。中国の歴史書が記録した「倭国大乱」が二世紀後半の出来事であれば、淡路島の二つの鉄器工房は正しく同じ時期に活動していた訳ですから、戦乱に明け暮れていた北九州ではなく別の地域、ルートを通じて生産に不可欠な材料(板状鉄斧や鉄鋌など)を入手していたと考えるしかありません(関門海峡の周辺も戦線に含まれていた可能性が高い)。小鍛冶とは言え二つの集団がほぼ同じ頃に並行して鉄器の製造に従事していたのですから、相応する規模の材料を確実に安定して調達することが可能でなければ、そもそも工房を立ち上げる事すら出来なかったでしょう。瀬戸内に九州と畿内を遮断するように浮かんでいる淡路島を鉄器(武器と漁具類)の供給庫として管理した人々は、恐らく対岸の播磨、吉備さらには日本海側に勢力圏を持っていた出雲などとの結びつきが強かったのではないかと思われます。

その傍証となるものの一つが淡路島南部で出土した松帆銅鐸です。平成二十七年四月、偶然、集積した砂山から見つかった銅鐸七個の内の1号鐸は全国でも11例しかない最も古いタイプ菱環鈕式に分類されるもので、5号鐸が出雲、荒神谷遺跡から出た6号鐸と同范、さらに3号鐸は出雲、加茂岩倉遺跡から出た27号鐸と同范と確認されたのです。また、これらの銅鐸は「舌(ぜつ)」と呼ばれる棒状の部品が付いたままの状態で見つかり、4号鐸には舌を結び付けていた「紐」の一部と思われる「繊維」も確認できました。そして専門家が科学的な分析を行った結果、松帆銅鐸は「遅くとも紀元前二世紀」までに埋納されたと考えられています。この鑑定結果について筆者は、少々とまどいを覚えています。銅鐸の制作が開始され始めた年代自体が遡るのなら「それなりに」理解はしやすいのですが、埋納された時期そのものが従来の見方より「150年」余りも早まることになると、銅鐸が持っていたであろう祭祀的な役割が、何故、そのような時期に終焉を迎えたのか、これまでの解釈を根底から見直す必要が出てくる事になるかも知れません。

紀元前二世紀と言えば、恐らく北九州地方においても「クニ」の原型が誕生したばかりの状況ではなかったでしょうか?銅鐸の持ち主たちが、当時、最高級の財宝でもあった私物を土中に「埋めて」しまうのには、相応の十分な理由がなければなりません。筆者は、いわゆる天孫族たちの東進は早くても紀元一世紀頃だと推定していますので、淡路島内での支配権の交代も、当然それ以降だと考えています。同島では松帆銅鐸のほかにも幾つも銅鐸が出土したと伝えられており、今後、新たな出土の可能性も尚残されています。また古事記の国生み神話によれば大八島国で「最初」に生まれたのが「淡道之穂之狭別島」であり、その次に「伊予之二名島」が生まれたとあり、本州よりも「淡路、伊予」の地が最も早く大和王朝の勢力圏に取り込まれた可能性を示唆しており、天孫族の優秀な指導者であった少彦名神がオオクニヌシとの国造りを終える前に「粟島に行き粟茎に登った」と日本書紀が伝えているのも、淡路島が極めて早い時期から阿波忌部たちによって開発されてきた歴史を物語っているように思えてきます。

 TOP  
   
 人気のページ   オオクニヌシは居なかった   お地蔵様の正体をさぐる   石川五右衛門の仲間たち   邪馬台国と卑弥呼   出雲の阿国は歌舞伎の元祖