はにわ」造りの元祖は相撲取り?                        サイトの歩き方」も参照してください。

生まれてこの方、一度も訪れたことが無い、にもかかわらず、ある日、ある場所に佇んだとき『ここには、以前、確かに来たことがある』と云う気持ちになってしまう…。そのような脳の早合点、勘違いのことを、その筋の専門家たちはデジャ・ビュー(既知感覚)と呼ぶのだそうですが、似たような経験は多少の差こそあれ、皆さんにもあるでしょう。人の感覚(眼・耳)が案外当てにならないことは承知していますが、逆もまた真なりで、私たちは「見ていないようでも(意識的に、という意味で)、実際には見えている(見ている)訳」ですから、瞬く間に通り過ぎた風景の切れ端も、記憶の小箱の隅っこに、知らないうちに収納しているのかも知れません。 

「埴輪・土偶」と、漢字で書いてしまうと、さして感じないのですが、これを「はにわ・ハニワ」と仮名で表現してみると、何とはなしに、昔むかし、そのハニワを創り、生活の場で使っていた人たちと、今でも直接触れ合うことが出来そうな気持ちになるのは何故でしょう。上(左側)で紹介している画像は昭和61年9月8日、夕刻、茅野市米沢の棚畑遺跡から出土した全長27センチの人形埴輪ですが、これほど立派なものではなくても、土から造られた作品には、それらを創り上げた人たちの手の温もりが感じられます。これらの「ハニワ」が形になるまでには、土探し一つ取ってみても相当の時間が費やされたに違いありません。−という事で今回の主題は、そのハニワなのですが、流石に縄文時代(紀元前10,000年?〜紀元前1,000年?)のお話となると、文字による資料など、どこをひっくり返しても金輪際見つかりっこ、ありません。となると、いつもの様に記紀神話から関連のありそうな箇所を探すしか道はないでしょう。

大阪・近鉄南大阪線の沿線に「土師の里」という小さな駅があります。行政の区分では確か藤井寺市に属しているはずです。その名の由来は、かつて、といっても、どの位昔なのかは定かではありませんが、その一帯を技術集団である「土師(はじ)」が支配していたことによるものだと思われ、その土師に関する言い伝えが日本書紀にも記されています。(下中央の画像は、道明寺天満宮の門前に置かれた物です。境内には土師神社もあります)

縄文土偶(東京大学収蔵)   出雲のハニワ ビーナス

縄文時代の「仮面」   縄文時代の「土面」

第十一代垂仁天皇の七年、そして七月七日といいますから、…そう、随分と大昔のことです。その頃、富麻邑(たぎまむら)の住人で富摩蹶速(たぎま・けはや)と名乗る、とても勇敢な力持ちがおりました。里人の話によれば『鉄の鉤をも指で曲げ伸ばす』ほどの怪力の持ち主なのですが、近在には、その余りの強さに力比べを挑む者は誰一人としてなく、本人も『ワシに適う者なぞ、この日本には一人もおるまい。ふん、ふん』と豪語していたのです。そのお話を小耳にはさまれた天皇『富摩蹶速が天下一の力士(ちからびと)だと盛んに自慢しているそうだが、本当に、彼より強い者は誰一人居ないのか?』と、ご下問。居並ぶ群臣の一人が次のように答えました。

  出雲国に野見宿禰という勇人が居ると聞きます。この者を召されては如何でしょう。

天皇は即ちにOKを出されたので、その日のうちに使者・倭直長尾市は出発、出雲から野見宿禰を都に連れて来たのです。そこで、いざ力比べとなるのですが、どうも昔の相撲は今の取り組みと違い「足蹴り」という荒業が幅を利かせていたようです。何か、外国式のボクシングを思い起こさせる試合振りを書紀から転記してみましょう。

  即ち富摩蹶速と野見宿禰と相撲とらしむ。二人相向かいて立つ。各々足を上げて相蹶(ふ)む

  即ち富摩蹶速が脇骨を蹶み裂く。又、その腰を踏みくじきて殺しつ。

なんともあっけないことに、あれほど武勇を自慢していた蹶速は、あっという間も無く敗れ去りました。それほど野見宿禰(のみ・すくね)という人は強かったのです。ここで余談になりますが、日本一の勇人(いさみびと)である彼の名前に付けられた「宿禰(すくね)」の呼称は、西暦684年に定められた「八色の姓(やくさのかばね)」(真人、朝臣など)とは別物の、古代に生きたとされる偉人たちへの尊称なのです(超人伝説のある武内宿禰もそうです)。そして「続日本紀」「姓氏録」などによれば、彼は天穂日命(あめのほのひのみこと)の十四世の孫だというのですが…。この神様、聞き覚えがありますよね。−−そうです、あの、オオクニヌシをお祀りしている出雲大社の出雲国造家が、同じ神様の十二世の孫(一部の資料では十一世孫)から始まる超旧家でした。

初代横綱が殉死に代わる「埴輪」を提案

 伎楽面   土師神社   出雲大社   

野見宿禰と大和出雲―日本相撲史の源流を探る

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天覧試合の勝者、初代横綱となった野見宿禰には、それ相応の土地が与えられ都に移り住むことになったのですが、彼が武芸だけで朝廷に仕えていたのではないことが書紀の記述から窺えます。同じく垂仁天皇の三十二年七月、お后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなられ、埋葬することになりました。その時『弟の葬儀の時にも話したが、古来からある殉死の風は良くない。皇后の葬儀にあたっては、どのようにすれば良いと思うか?』と天皇が質問、進み出た野見宿禰は、次のように答えました。

  それ君王の陵墓に、生人を埋み立つるは、是、不良(さがな)し

  あに後葉(のちのよ)に伝ふること得む。願はくは今、便事をはかり奏さむ。

殉死の代わりとして彼が提案したものが「土物(はに)」でした。野見宿禰は故郷・出雲へ使いを出し「出雲国の土部」百人を呼び寄せ、自ら土部たちに混じって「埴(はにつち)」を集め「人・馬および沢山の供物」の土物を形作り、天皇に献上したのです。この『土物をもって生人に代えて陵墓に立てる』という案は直ちに裁可され、その土物は「埴輪(はにわ)」と名付けられました。そして、野見宿禰の功績を大いに讃えた天皇は、新たに「鍛地」(かたしどころ=埴輪工房のための用地)を彼に与え、土部の長に任命、姓も「土部臣」と称するようになったのでした。つまり、ここまでのお話を一言に要約すると、

  出雲国の出身である野見宿禰が、相撲と埴輪造りの元祖

だ、ということになるのですが…。例によって、と云うか、オオクニヌシの場合と同様「出雲風土記」に、この重要な人物、そして埴輪起源説さらには野見宿禰その人に関する逸話、の一切が触れられていないのです。確かに、出雲の飯石郡には「野見」という地名があり、それが現在の赤木町周辺であることは確かなようですが、これだけ有名?な人だったにもかかわらず、それらしい「伝承」も見当たりません。言い伝えは、むしろ別の土地に残されています。例えば「播磨風土記」には、立野の条で、

  昔、土師・弩美宿禰、出雲の国に通いて、日下部野に宿り、即ち病を得て死せき。

  その時、出雲の国の人、来たりて、人衆を連ね立てて運び伝え、

  川の小石を上げて、墓の山を造りき。故、立野と名づく。

と地名の由来を紹介する中で「弩美宿禰」と出雲の国の関係を示唆していますし、時代がかなり下りますが奈良の桜井市出雲には彼に因んだ建造物(五輪の塔)も残されています。野見さんの本籍が果たして出雲であったのかどうか?推理する手段が全く無い訳ではありません。「土師の里」に近い藤井寺市道明寺には、今も「土師神社」があり、確かに野見宿禰が祀られています。そして、一緒に祀られている神様が重要なヒントを与えてくれそうです。誰だと思いますか皆さんは?伏線は張っておいたつもりなので、お分かりになった方もあるでしょう、そう、遠祖と共に鎮座されているカミサマはオオクニヌシその人です。

野見宿禰と出雲が合体するまでの筋書きは、こうです。

  もともと大阪周辺に土木などの技術を持つ集団が居た

  記紀が編集される時点でも彼らの評価は高かった

その彼らは昔から「土師」を自ら名乗っていたのかも知れませんし、土師部は朝廷にとっても不可欠な存在だったのです。そして日本が国家的な組織作りを進め、諸豪族が次々と興亡を遂げてゆく過程で「土師」の長たちも自らの存在証明を求めて運動したに違いありません。他の有力氏族のように華麗で説得力のある「祖先神話」を持たない彼らでしたが、それでも大和朝廷の基盤作りには、当時の先端技術で大いに貢献をしていた功績が認められ、その結果が「野見宿禰」伝説の誕生となったのです。また、彼らの遠祖が天穂日命の子供、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと、別名・天鳥船命、武夷鳥命、天日照命)だとされたのも、朝廷の勢力拡大にも眼に見える形で十分協力していたことに関連していると思われます(土師集団が、所謂「国譲り」に一役かっていた可能性があります)。そして、天夷鳥命の親である天穂日命が出雲国造の祖となっていた関係上、野見さんの古里まで出雲になってしまったのでしょう。「土師」氏という技術集団と「出雲」という地域の間に、全く繋がりがなかった、とは断言出来ませんが…。(平成24年2月にお披露目された松江市東出雲町の島田一号墳出土の男子ハニワが、藤井寺にかつてあった番上山古墳出土のものに大変良く似ているという報道がありましたので、五世紀〜六世紀にかけて出雲と河内が技術交流していたことは確かなようです。上の画像参照)

「古事記」    穴師の遺跡  PR

 天夷鳥命=出雲国造が朝廷に奏上する『出雲国造神賀詞』では「天穂比命の児天夷鳥命に布都怒志命(ふつぬしのみこと)を副えて天降し、荒ぶる神々を悉く平らげ国を
 作った大神(大穴持大神)をも媚び鎮めて大八嶋国の実権を譲らせた」とある。
 国譲り神話と天夷鳥命=WEBでは古事記の記述に出てくる「天鳥船(神)を天夷鳥命の別名だとする意見が多く見受けられましたが、両者は明らかに異なる存在であると思
 います。確かに「天鳥船」は国譲りの段に登場してはいますが、その実態は記が「鳥之石楠船神」と別名をあげている通り「早い交通手段・船」を象徴したものであり、また、この
 「神」はイザナギ・イザナミ両神の「国生み」の段階で「産まれた」カミサマですから、天穂日命の子供では有り得ません

この推理を裏付けるような神社が大阪・高槻の中心部にあります。それが下の画像、野身神社です。突然、話が飛びますが、皆さん良くご存知の菅原道真(すがはら・みちざね、845〜903、贈太政大臣)は土師の流れを汲む人物で、道真の曾祖父さんは元々土師宿禰古人と称していたのですが、桓武天皇の時代に願い出て、居住地の「菅原」に姓を改めました。…だから、彼の祖先は野見宿禰ということになります。その縁で、上宮天満宮に摂社として野身神社が祀られているのです。

大阪高槻にある野身神社(天神さんの摂社です)

「天夷鳥命」が「国譲り」の使者として、つまり主役の一人として登場しているのは、先に見た「出雲国造神賀詞」だけ、という点から推測すると、神々の名前や性質について詳しい「誰か」が、本来は全く別の「神格」である「天鳥船」と「天夷鳥命」を強引に「一つの神の別名」だとする「神話」を創り上げたような気がしてなりません。そして「鳥船」=早い船、という言葉に拘るなら、技術集団であった土師氏の中には「造船」の業に長けた者たちも居たことが想像されるのです。また、垂仁記などの記述の端々からは野見宿禰という人物が単なる一家臣というよりは、身内と呼んでもいい位の親しい存在であったような印象を受けるのは管理人独りだけでしょうか…。(蛇足ですが、古代史の中でも有名人と言える継体帝の母親は垂仁帝の後裔を称しています)

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