秦氏藤原氏そして摂津三嶋について                                     「サイトの歩き方」も参照してください。

千数百年の歴史を改めて振り返ってみる時、自ずと脳裏に浮かぶ印象的な『風景』が幾つかある。その内容は人により、年齢により、そして又育った環境などにより、それぞれ微妙に異なっているものなのだろうが、管理人の場合には、どうしても特定の古代豪族たちの登場する場面に焦点が合ってしまう。では、何故それらの「古代豪族」が関心の的になったのか?自問自答ではないが、これまでにも数え切れない程、色々な機会を通じてその理由を探ろうと試みはしたのだが、明確な答えは未だに見つかってはいない。それだけ謎は深い、のか!それとも歴史の闇が暗いのか……。

記紀(「古事記」と「日本書紀」)を中心とした神話の世界を独りで旅する時『この伝承や言い伝え、昔話には一体どの程度、かつてあったであろう史実・事実が隠されているのだろう』『この話を、この場面で登場させた編集者たちは、読み手に何を伝えようとしたのだろう』そして『伝承や神話は、そうであっても、事実は別な処にあったのではないのか?』など、自分だけの勝手な空想にひたる事の楽しさが、人々を歴史の小部屋に誘うのでしょうが、一つの出来事についても見方を変えることで、少し切り口を変えてみることで又、別な興味をそそることが多々あります。例えば、遷都などはどうでしょう。

国立の権威ある研究機関が行った平成の試算によれば、今、わが国が「遷都」を行うには10数兆円の費用を見込まねばならないそうです。と言うことは、取りも直さず国家予算の数分の一にも匹敵する「お金」が必要になる訳ですが、この膨大な財政的負担は古代も現代も変わりありません。国債のなかった当時、一体、どのようにして経費を捻出していたのでしょう?

第五十代桓武天皇(かんむてんのう,737〜806)は、わずか十年の間に二度の遷都を実現しました。豪腕として知られた藤原宇合(ふじわら・うまかい,737〜785、初め『馬養』を名乗り、藤家の者としては珍しく持節大将軍として東北の反乱軍を自ら鎮圧しています)の孫の一人が物語の主人公なのですが、彼の話をする前に八世紀後半から末にかけての宮廷が一体どのような「状況」にあったのか、述べておく必要があります。そこで、人気?の歴史年表にうつります。(いつもの事ですが年表には最低限の情報しか記入していません。この間に起きた出来事の詳細は、皆さんご自身で検索なさって下さい)

西 暦 出  来  事
 764年   9月、恵美押勝の乱が起こる。10月、孝謙上皇が重祚して称徳天皇になる
 769年  宇佐八幡神宮の「託宣事件」が起こる。道鏡事件。
 770年  称徳天皇が亡くなり、白壁王が即位する
 772年  井上皇后が度重なる「呪詛」の嫌疑を受けて廃される。道鏡が下野で死去。
 773年  廃された他戸親王に代わり山部親王が皇太子となる
 781年  桓武天皇が即位する

恵美押勝(藤原仲麻呂,706〜764)の起こした「乱」の原因解明については専門家に任せるとしても、一つの要因が宮廷内での権力掌握合戦にあったことは否めません。孝謙天皇に聞いて見なければ分からないことかも知れませんが、半ば身内とも言える仲麻呂との「抗争」に懲りた女帝が弓削道鏡(ゆげ・どうきょう,700〜772)の説く「世界」の何処に共鳴されたのか、今となっては闇の中。しかし、彼女が「仏教的」世界の人間である道鏡を重用されたことは事実で、神護景雲三年に至り、誰かの意を汲んだ宇佐八幡神宮が破天荒な「お告げ」を明らかにします。簡単に言えば『道鏡を天皇にすれば国家は栄える』と言うものだったのですが、この国家簒奪にも等しい動きの中心に在ったはずの人物が「事件」後、地方のお寺の住職として追放されただけで他には何の「罰」も受けていないことから、誰か達の陰謀説が囁かれる結果にもなったのです。

和気清麻呂(わけ・きよまろ,733〜799)が大分から持ち帰った「新たな神託」に衝撃を受けた孝謙天皇は、気力が急激に萎えたのか翌四年病を得て不帰の客となります。ここで宮廷の実力者、藤原百川(ふじわら・ももかわ,732〜779)が担ぎ出した人物こそ白壁王(後の光仁天皇)その人だったのです。歴史家の一部は『深慮遠謀を得意とする百川は、本人よりもむしろ子供の山部親王に目星を付け、彼を将来の天皇にするために、先ず、親の白壁王を神輿として担いだのだ』と、些かうがった分析をしているようですが、百川の意図が何れにあったにせよ、この選択は極めて重要な「方向付け」を意味していたのです。それが「天智天皇系」王朝の復活でした。つまり壬申の乱(672年)以降「天武系」が100年間独占していた皇位に光仁が就いたことは、天智系の蘇りであり、少なくとも桓武にとって、これは「新王朝」の発足と捉えられていたのです。そして白壁王の登場は、もう一つの意味をも象徴していました。

桓武天皇と藤原種継をつなぐ「(えにし)」とは

山部親王が皇太子となり、781年に即位するまでの間、宮廷内では一つの大きなうねりがありました。それは、いつもの権力闘争・政変などではなく自然な世代交代によるもので、八世紀を生き、朝廷をとりしきってきた藤原家の実力者たちが770年代に相次いで他界したのです。(藤原永手771年、藤原良継777年、藤原百川779年)ここで新しい政界のリーダーとして一人の男が頭角を現します。式家の藤原種継(ふじわら・たねつぐ,737〜785)は、桓武の即位に当たって「従四位上」を特授され周囲からの注目を集めますが、中納言に昇進した延暦三年、長岡への遷都を強く進言しました。新しい王朝は、新しい都で政を執り行うべきだ、という一種の天命思想の持ち主であったと思われる天皇は、この「建議」に励まされ種継を造営官に任命、旧難波宮(現在の大阪市、大阪城の南側)にあった建物の再利用という奥の手を駆使し、わずか半年余りの工期で新都の主要施設を完成させたのです。この時、旧都の解体された建築資材は淀川(山背川)の流れを使い長岡へ搬送されたと言います。

続紀薨伝』という書物は、遷都経営の見事な手腕が認められた種継は、延暦三年十二月、従三位に列せられ、天皇の信任は殊更に篤く、朝堂の「内外の一切」を取り仕切っていたと伝えていますが、桓武さんは、何故そこまで、この男を信頼していたのでしょうか?父親そして己の即位に藤原一族が果たした「役割」に対する評価、論功行賞だけではなさそうです。そこで、違った角度から「二人の共通項」といったものが見つけられないか、推理してみましょう。先ず、そのためには、桓武天皇と白壁王が歴史の表舞台に登場した事情も見ておかねばなりません。国の歴史書に、つまり公の文書に皇位継承をめぐる政争に巻き込まれないよう、ひたすら『酒をほしいままにして、迹をくらませていた』とまで書かれた62歳の白壁王は、思いもかけなかった「棚ぼた?」(失礼)の皇位に至極感激されたことでしょうが、その思いは当時、只の親王であった山部王についても同様だったのですが、彼の場合には父親とは全く質の異なる要件から、皇位に就けるとは夢にも思っていなかったのです。それは何故か?その理由の一部が上の表内に記してありますが、要約すれば父・白壁王には聖武天皇(しょうむてんのう)の長女である井上内親王(いかみないしんのう)という血統の優れた皇后がおり、皇位は当然、皇后の子・他戸親王が継ぐべきものだと考えられていたからです。

復元された大極殿

一時期には斎王をも務めていた皇后に「夫を呪」わねばならない必然性が何処にあるのか(更に実の息子が既に皇太子なのです)、少し冷静な目で眺めれば答えは明らかなのですが、歴史は市井の者が思いもかけない方向へと舵を切ったのです。その結果、光仁の、別の夫人の子供に日嗣の位が舞い込むことになりました。和乙継(やまと・おとつぐ)を父に持ち、土師宿禰真妹を母親として生まれた百済系官僚の娘・高野新笠(たかの・にいがさ)が737年に生んだ山部王こそが、その幸運な人に他なりません。そして、不思議なことに桓武が寵愛した宇合の孫で長岡京の造営で真価を発揮した藤原式家の大黒柱・種継の母も、また、渡来系氏族の一人、秦忌寸朝元(はた・いみき・ちょうげん)の娘でした。本姓を「和史(やまとのふひと)」と言う乙継は今来の、つまり最近になって渡来した氏族(半島情勢の変化を受け七世紀にも多くの人が渡って来ている)ではなく、相当古い時代に百済からやってきた一族だと思われますが、それでも遠い血が海の外へ繋がっていたことに変わりはありません。種継が殊更「外国」の話を持ち出し、新たな旅立ちに想いをはせる桓武の胸を心地よく刺激した事もあったかも知れませんが、長岡への遷都は、もっと現実的な意味合いをも含んでいました。

 藤原氏と秦氏=種継と同世代で「北家」の藤原小黒麿(733〜794)も平安京遷都を推進した中心人物として知られていますが、彼の妻もまた、秦島麻呂の娘で、その息子は「葛野麻呂」と名づけられました

遷都に莫大な費用がかかることは今も昔も変わりありません。あまた在る大和の寺社勢力そして豪族達の影響力を可能な限りそぎ落とし、自前の「王朝」を実現させたい天皇の思いに、藤原種継が素早く応えられたのは妻の実家・秦氏の存在があったからなのです。渡来系の雄・秦氏が、正確には何時ごろから山背川(淀川)や木津川水系の各地を開拓・開発し山城国嵯峨野に巨大な地盤を築き上げたのかは不明ですが、遷都の対象となった長岡(現在の向日町)には、既に秦氏の集落が数十町もあって、皆、他の土地へ移住させられたことが分かっていますから、種継は広範な地域に数多くの支援者を擁していたと考えられます。また、それらの秦氏一族が、長岡遷都応援を自分たちの「将来」を約束する有効な手形と捉えていたのかも知れません。そして、その「賭け」は見事に成功しました。(今の京都にある神社の主な祭神を調べてみれば、成功の証しが見てとれるでしょう)

摂津の三島鴨神社が祀る大山積神とは?

さて、お話しを淀川水系を使った建築資材の「搬送」に戻します。一口に搬送と言いましたが、これには「造船」「操船」などの高度な技術を持った職業集団が背景に控えていなければ到底実現しません。また、輸送に適した大型船は今日言って(命令して)明日、現物が手に入るものでもなく、相当の準備期間を要する事業であったことになります(具体的には、何処の樹木を何本切り出すのか?から始めなければなりません。ある意味で現在に伝わる神社の遷宮に似ています)。つまり、種継が天皇へ「建議」するまでの間に、周到な準備がなされていた…、全ての条件を整えた後に進言したことが分かります。聖武天皇(しょうむてんのう)が曽祖父・天武の遺志を受け継いで大伴氏の本拠地・大阪に副都を造営しようと思い立ったのは、機内と西国とを結ぶ交易都市を押さえて貿易などによる権益を直に握るためであったとされていますが、奇しくも種継の祖父・藤原宇合が知造営事として建築した難波宮の資材を、今次は孫の種継が秦氏の力を借りて淀川の流れを遡り、新都に運び入れるのです。(話は、少し脇道に逸れますが、大極殿など都の主な建物が『予め再利用を見込んで』(解体が可能な構造で)造られていたのだとすると、法隆寺再建に関連した『使用材料の謎』も、解明出来そうですね)

三嶋鴨神社  溝杭神社

穀物の恵みをもたらす土地・田んぼに豊饒の神様、田の神様そして食物の神様などがおられるように、河川にも「担当」の神様がおられたとしても不思議ではありません。かつて河内(大阪市)と長岡(向日市)を結ぶ水の幹線であった淀川の、ほぼ中間辺りを指して「三島(みしま)」と呼んだのですが、そこに川(を含めた地域全般)を司る神様が鎮座なされています。「伊予国風土記」は言います。

  乎知の郡(愛媛県越智)、御嶋(みしま)、坐す神の御名は大山積の神
  一名(またの名)は和多志(わたし)の大神なり
  この神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき
  この神、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋に坐しき。
  御嶋と謂うは、津の御嶋の名なり

詳しく説明するまでも無いと思いますが『釈日本紀』第七巻に引用された逸文は、今(風土記が記された当時)瀬戸内の大三島の宮浦に祀られている大山積(おおやまづみ)という神様は、元々、仁徳天皇の時代に百済から渡って来た大神を、大阪府高槻市の三島江にある三島(鴨)神社で斎祀っていたものだ、と言っているのですが果たしてその様なお社は実在するのか?…、あるのですね、これが、ちゃんと。千数百年の歳月を経た現在の姿からは想像できませんが、摂津に三島鴨神社の主祭神が来られた頃は、恐らく神社の建つ辺り一面、川中の洲であったに違いなく、風土記が態々「わたし=渡し」の神でもあると解説してくれているように、この半島から渡来された川の神様は「渡し」=航海・水運の神様でもあった訳です。そして、ここには、もう一人、いや、もう一柱、大切な神様がおいでになります。その名を事代主神(ことしろぬし)と申し上げます。

もともと大和の葛城地方を根拠地として大きな勢力を誇った「鴨」一族の主祭神が、オオクニヌシの子供として系譜上位置づけられた事代主神なのですが、この神様が大きな「ワニ」に化身して摂津三島の溝杭姫の許に通ったお話しを思い出して下さい。神話が昔話の形態を取りつつ「史実」の一部を巧みに代弁していることが若しあるとすれば、差し詰めワニさん伝説などは、その代表格と言って良いでしょう。恐らく天から「降臨」してきた神様以前から大和の地で暮らし発展してきた鴨一族は、大和盆地内の主(=鴨神)だけで終わることに満足せず、得意の水運技術などを利用して河内、山城方面への進出を積極的に試みました。ここで気になるのが他の氏族との競合、若しくは出先での諍い揉め事なのですが、上の「ワニ」神話を見る限り、鴨族と「三島」一族との縁結びはとても円滑に進められたことが認められます。何故なら、記紀双方が、神名や続き柄では少しの異同があるものの、

  事代主神と三島溝杭神の娘・三島溝杭姫との間に誕生した姫蹈鞴五十鈴姫が
  初代神武天皇の皇后として迎えられた

と明記し、史実がどうであったにせよ『大和王朝の初代天皇の皇后は、鴨族と三島族の子供であった(鴨と三島は姻戚)』という認識が八世紀初頭の諸豪族間の共通した「伝承」であったことを示しているからです。(鴨一族は当初から進取の気質に富んだ指導者層を抱えていたのでしょうが、管理人は、鴨族の勢力伸張を蔭で支えたのが秦一族の持つ[技術者集団+経済力]ではなかったかと妄想しています。河川の利用は、先ず水利を確保するための土木事業を行い、周囲を含めた治水に万全を期さなければなりませんが「古事記」は仁徳天皇(にんとくてんのう)の御世に『秦人を役ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また和邇池、依網池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小橋江を掘り、また墨江の津を定めたまひき』と古代王朝の公共事業に果たした秦一族の役割の大さを、固有名詞を出して正確に伝えています。(なお、ここで「茨田堤」と呼ばれている堤が丁度、三島鴨神社の東に相当する場所なのです。大雑把に言うと、摂津の御嶋は淀川の真ん中に位置し、そこに向けて安満川・芥川・女瀬川・玉川などの河川から水が流れ込み、堤の完成には大変な困難が伴ったと思われますから、多くの犠牲が出たのかも知れません。また土木の技術だけでなく、恐らく秦の内部には製鉄や鋳造に関わる集団もいたはずで、今なら差し詰めハイテク一族といったところでしょうか!)

鴨族の山城進出と茨田堤造成に関連した三島鴨神社の創建は、何時の頃とは断定できないものの、いずれの言い伝えも「仁徳天皇」の時代の事として捉えていることを思えば、そして秦氏の渡来が「応神天皇」の時代の出来事だとされていることなどから類推すれば、遅くとも五世紀の中頃までには鴨・三島・秦大連合が摂津三島の地で組織化されていたに違いありません。(順序からすれば茨田堤の完成に寄与した秦氏が、霊験あらたかな事を証明して見せた大山積神を、鴨氏と三島氏の了解の下に祀ったと考えるのが自然です)なお、民族・歴史研究家の一部では「神魂命(カミムスビ)」を接点として鴨県主と三島県主が『元々同じ祖先』から出た氏族であるとする解釈があるようですが『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)が、

  三島宿禰  神魂命十六世孫、建日穂命の後
  賀茂県主  神魂命の孫、武津之身命の後

と明記しているように鴨族が「神魂命」の極近い子孫(孫)であるのに対し、三島宿禰は「神魂命」の十六世孫に位置づけられているに過ぎません。つまり、遠縁だと言っている訳です。ただ、二つの有力氏族を結びつける「縁結び役」に神魂命の神様を登場させていることが別な意味で重要です(鴨氏については追って、新たに調べなおします)。それは、もう一つの巨大勢力・藤原氏の出自と関係してきます。よく知られている様に藤原氏の遠祖は天御中主尊(あめのみなかぬし)の系統に属する天児屋根命ですが、春日神社の主祭神で藤原氏の直接の祖とされる天児屋根命の「三代」前の神様を津速魂命(つはやたまのみこと)と言い、この神様と上で見た鴨族や三島宿禰の祖神・神魂命が系譜上の「兄弟」なのです。(後世の「改変」や意図的な「改竄」も疑われる各種の系図を全面的に信用して、各家々の祖先たちの存在証明とすることは極めて「学究的」ではありませんが、いつも申し上げているように、このオノコロ・シリーズは「学問」とはかけ離れた、むしろ妄想の類に近い雑文に過ぎませんから、入手できる「情報」の一部分として各氏族固有の系譜も取り上げることにします)大山積命を巡る「渡来」の伝承には、その時期もさることながらスサノオの八岐大蛇退治「伝説」ともからんで、とても複雑な問題を孕んでいるのですが、それについては又、別の処でお話しようと思います。

茨田堤の石碑   大織冠神社   PR

神様たちを通じて色々な氏族の成り立ち、或いは出自の古さと己の立場の正当性の証明に都合よく利用する「やり口」は、記紀に限らず多くの歴史的な資料にも見られる傾向ですから、今まで見てきた夫々の神様の素性が、どこまで伝えられた通りであるのか?分かり辛いというのが本音なのですが、敢えて今回はその辺りの不透明さには目を瞑り、頼りない脳細胞の趣くままに話を進めます。では「神魂命」と「津速魂命」が本当に「兄弟」であったとしたら、どういうことになるのか!なに、簡単なことです。つまり、鴨一族は『祖先を同じくする藤原氏の近い親戚』であり、三島族は、その鴨族と『親密な姻戚関係』にある『遠い親戚』だと藤原氏の系図が語っている訳です。果たしてそうなのでしょうか?

よく知られているように皇極三年、朝廷から中臣家本来の仕事(祭官)に就くように求められた中臣(藤原)鎌足(ふじわら・かまたり,614〜669)は、

  その役職に就任することを固く辞して摂津三島の別邸に退いた

とされ、その死にあたっては、

  初め、摂津国安威の地に葬られた

と伝えられています(「安威(あい)」は現在の茨木市に属する三島の地です。かつては染物の原料となる「藍」が多く取れた事に因むとされています。また『多武峰略記』は墓地を山階だとする)。そして、彼の死因が、

  山科の野で狩の途中、落馬して負傷した

ことであったことは有名です。人は、それも大きな権力を手に入れはしたものの、尚「政敵」と目される人々が周囲に居た場合、彼は、どのような土地を「避難所」として選ぶでしょう。また、緊張の連続から開放され、真の自由な時間を得たとき、その人は、どのような場所で「憩い」たいと望むでしょうか。何れの場合でも、その当事者は「安全」を最優先し、身に危険が及ばない場所、つまり己の影響力が最大限に発揮できる場所を選択するに違いありません。『藤氏家伝』は鎌足の産まれ故郷を大和国高市郡としていますが斉明天皇三年、鎌足が自らの住まいを築いた所は「山科の陶原」(陶原の館)であり、だからこそ彼は心ゆくまで「山科の野」で狩りを楽しんでいられたのです。(この陶原の地には山階精舎と呼ばれるお堂も建立され、後、移転して興福寺になったと言い伝えられています)では、鎌足が中央政界での実質的なクーデター(乙巳の変)を目論んでいた時期に「引きこもっていた」「三島」の地に、どうして彼の「別邸」が設けられていたのでしょう?。難しく考えることはありません。三島が鎌足の強い影響下にあった(もっと言えば、三島は鎌足の領地だった)と考えるのが妥当です。

阿武山古墳に葬られた「貴人」とは誰なのか?

昭和九年、京都帝国大学は摂津茨木と高槻の境界にある標高210メートルの阿武山(あぶやま)山頂に、新たな地震観測施設を建設しようと計画し、必要な更地を確保するため土砂の掘削を連日行っていました。四月二十二日、工事が進む中、作業員がレンガ、瓦そして大きな石の層に突き当たり、これを取り除いたところ古代人の墳墓、そして柩が発見されたのです。大阪朝日新聞が『貴人の墓』としてスクープし、考古学ブームに火をつけた遺体は錦をまとい、墓には金の糸が多数散乱、ガラス玉を編み込んで作った「玉枕」に横たわっていた被葬者は六十歳前後の男性と断定されました。この「阿武山古墳」が鎌足の墓ではないか、金の糸は「大織冠」の名残ではないか、と言われていることは皆さんもご存知でしょう。『周辺から出土した須恵器が七世紀前半のもの』である点から、鎌足の墓説が100%証明された訳ではありませんが、目印となる盛り土を一切用いず、千三百年にも渡りあらゆる盗掘から免れた超一級の墓が、三島を支配した豪族と何らの縁も無い人のものだとする根拠はどこにもありません。(昭和62年になって、発見当時に撮影された被葬者のエックス線写真から、彼が「腰椎」などを骨折する大怪我を負い、それが死因の一部になっていたことも判明しています)

「継体天皇陵」古墳 出土した埴輪  鎌足像・談山神社収蔵

論旨をことさら混乱させるつもりは無いのですが、ここで、もう一つ気がかりな存在が浮上します。鎌足の墓ではないか、とされる阿武山古墳のほぼ真南約3.0kmの所に在る「継体天皇稜」古墳がそれです。考古学的な研究が進み、古墳を囲むお濠から見つかった埴輪の年代測定などから「継体稜」は五世紀中頃に築造されたもので、西暦531年に亡くなったとされる継体天皇の稜としては年代が一世紀余り合わないことが明らかになってきました。(この古墳は、所在地から太田茶臼山古墳とも呼ばれています。全長226m)そして、この古墳の北西1.2キロの所に古代のハニワ工場(新池)があり「継体天皇陵」古墳と、真の継体陵だと推定されている今城塚古墳(全長350m、二重の濠、国内最大の家型埴輪が出土、六世紀中頃の築造)で使用された各種のハニワを製造していたことが分かったのです。若し、茶臼山古墳が「天皇陵」でないのなら、そこには誰が葬られているのでしょう?管理人には、一つの推理があります。

先に鴨(事代主命)と三島(三島溝杭耳命・溝杭姫)が結婚して娘が誕生、そして天孫の神武と結ばれたのだと言いましたが、これには別の言い伝えもあります。つまり三島の神「三島溝杭耳命」は「陶津耳命(すえつみみ)」の別名であり、三輪の大物主と夫婦の契りを結んだ姫の名は「活玉依毘売(いくたまよりひめ)」である、とするもので、この系図に従うと、鴨族は、

  大物主大神(事代主)−−櫛御方命−−飯肩巣見命−−建甕槌命−−意富多多泥子

と続く神々の後裔だということになり、上の系図で最後に名前の上がっているのは神話でも有名な「オオタタネコ」その人です。「陶」が「須恵器」のスエであるならば「三島」の地で古くから栄え、地域の守護神としてあがめられ、かつ大王にも匹敵する「五世紀中頃」の人物と言えば、神話上「すえつみみ」と称えられ、実際には神武天皇に皇后として娘を差し出した三島一族の首長以外には考えられません。更に、その「三島一」の王であり、大和の最有力者の一人でもある鴨族とも親しかった一族の創始者・鎌足の墓が、三島王の墓より、そして又、六世紀の大王の墓より遥かに展望の良い山頂に築かれた事実は、何を物語っているのでしょう。「足」の「カマ」はカモフラージュで、本当は「」であり「」であったのかも知れません。茶臼山古墳のすぐ西に、まるで古墳を守るために建てられたような神社がひっそり佇んでいます。その名は、ご想像の通り「太田神社」そのものなのです。『えっ、と言うことは、やっぱり三島と鴨は同族なの?』−−そんな声が聞こえそうですが…。

太田神社 本殿  大直禰子神社

もう一度「新撰姓氏録」(815年編纂)をひもとくと、手品の種明かしが出来そうです。スサノオそして天照皇大神、豊受皇大神の三神を祭神とすることと「太田氏」に関連する言い伝えなどから里人たちは、あくまでも「オオタタネコ」=大物主、鴨系(三輪系統)の神社だと思い込んでいますが「配神」の少彦名命に鍵が隠されています。オオクニヌシの国創りに大いに協力しながら、仕事の途中で惜しまれつつ「常世の国」に弾き飛ばされた事でも有名なスクナヒコナですが、この神を「天日鷲命」と同神とする伝承があり、更に、

  三島溝杭耳命、鴨建角身命、陶津耳命、八意思兼神とも同神である

との言い伝えも存在するのです。長かった今回の歴史の旅も終わりに近づいたようです…。「姓氏録」摂津国神別に言います、

  中臣藍連   天児屋根命、十二世の孫、大江臣の後なり
  中臣太田連  天児屋根命、十三世の孫、御身宿禰の後なり

天児屋根命の後裔を自負する地元豪族たちは、一体、誰のために、わざわざ「古墳」の間近に「太田神社」を建立したのでしょう?阿武山の南西1.5kmの所に位置している「阿為神社」は、山頂の主を今も見守っているような気がしてなりません。その祭神は、もう、言うまでもありませんね。

森のように見えているものは古墳?  PR

正直に白状しますと、今回は冒頭の見出しにも示したように、

  藤原氏こそ秦氏そのものだ

と言う「妄想」を何とか証明できないまでも、少しは実体を伴った(資料により裏付けられた)文章として皆さんの許にお届けけする目論見から書き始めたものだったのですが、例のごとく、前もって系統立てた資料調べなどもせず、ただ闇雲に思いついた事柄のみを追いかけたため、無残な結果となりました。ただ、古代史に興味をお持ちの皆さん方には「ちょっとした刺激」になったのでは?では、最後に藤原氏が「氏神」として現在も崇める「武甕槌命(建甕槌命)」に関わる系図の一部を紹介して、今回のお話もお開きと致します。それは、

  津速魂尊−−(三代孫)−−天児屋根命−−(孫)−−天種子命−−宇佐津臣命

と云う内容のものなのですが、この「系図」では、天子屋根命の妻「姫神」の父親こそ武甕槌命だと言っています。若し、この「系図」通りであれば、

  藤原氏の祖先が三島・鴨一族の娘を娶った(婿になった)

事になるでしょう。なにやらオオクニヌシの話に似てきましたね。おまけの序に、もう一言、天児屋根命の「孫」、天種子命は宇佐津彦命の娘・宇佐津姫を娶って「宇佐津臣命」を産んだのですが、この神様の名前(あまのタネコ)、誰かに似ていませんか?!あー、それから「記紀」によれば、オオタタネコは茅渟県の「陶村(すえむら)」に住んでいたそうです。(本来なら、ここで藤原氏と宇佐氏について語るべきなのですが、今回、とても、そこまで手が回りませんので、機会を改めたいと思います)

おまけ話をもう一つ。藤原氏と秦氏の関係を明らかにするためには補助線となる資料が幾つか必要になると思われますが、奈良平安時代の土地所有(と譲渡、贈与)に関する情報が大きな鍵になりそうです。娘が産んだ惟仁親王(これひとしんのう、850〜880、後の清和天皇)を加護するため藤原良房(ふじわら・よしふさ,804〜872)は深草の地にあった嘉祥寺に西院を建立、これを後に独立させて貞観寺としましたが、これらの寺院の土地が当時すでに藤原氏北家の所領であったと考えられています。深草と言えば「聖徳太子」や山背大兄王の時代から秦氏とは切っても切れない関係にある土地のはず。それが、何時、どの様な経緯で藤原氏宗家が所有するようになったのか?その間の事情を知り得る資料があれば謎の一端が明らかになり、更には藤原氏と秦氏を結ぶ有効な補助線となるかも知れません。

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