日葉酢姫命は垂仁天皇の皇后だったのか?                        「サイトの歩き方」も参照してください。

日本書紀によれば、垂仁天皇の弟・倭彦命が亡くなった折、まだ殉死の風習が守られており『近習者を集へて、ことごとく生けながらにして陵の域に埋めて』いました。その有様を具に見た垂仁は大変心を痛め、群卿たちに「古風であっても、良くないものには従う必要はない。今後、殉死は止めよ」と言明したと伝えています。帝の諡号「仁を垂れる」は、ここに由来している訳で、三十二年秋七月に皇后の日葉酢媛命が薨去し、葬送の儀を前にした垂仁帝は再び群卿たちに「此のたびの葬儀はどうすべきだろうか」と下問したのです。この時、即答したのが出雲の国出身の野見宿禰で、彼は出雲から土部(はじべ)の人百人を招集して『埴を取りて人、馬および種々の物の形を造作りて』天皇に献上し、「今後は、この土物(はに)をもって生人に代えて、陵墓に建てることに致しましょう」と申し上げ、天皇もこの提案を喜んで取り入れました。野見宿禰は天穂日命の後裔を称する土師宿禰の祖でもあるので、この埴輪起源説話は天津彦根命一族や出雲国造が伝えた可能性がありますが、鉄器具の導入などによって大規模な古墳作りが積極的に進められ始めたのが垂仁朝だったのかも知れません、それはさておき、考古学や歴史を専門的に学んだことのない者の素朴な疑問が一つあります。それは、日葉酢媛陵の位置に関わるものです。

記紀の伝承では、先の皇后だった狭穂姫の指名を受けて垂仁天皇の許に嫁いだ日葉酢媛は、丹波道主王の長女で垂仁十五年春二月に渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛、竹野媛と共に「掖庭(うちつみや=後宮)」に入っています。このうち末娘の五女は容姿が優れていなかったため国許に返されましたが、皇后と二人の妃はそれぞれ、次の表にあげた皇子皇女を垂仁との間に儲けたと記録されています(註:表の一番右に出ている稚浅津姫命[阿邪美都比売命]は稲瀬毘古王=稲背入彦命の妻となる女性で、応神天皇の実の母親ではないかと考えられている人物です。表の上の段にある名前が日本書紀に記されたもの)。

 日葉酢媛  五十敷入彦命 大足彦尊(景行) 大中姫命 稚城入彦命  倭姫命   渟葉田入媛  鐸石別命 膽香足姫命   薊入媛  池速別命 稚浅津姫命 
 (古事記)  印色入日子命 大帯日子 大中津日子命 倭比売命 若木入日子命  沼帯別命 伊賀帯日子命(イカタラシヒコ)  伊許婆夜和気命 阿邪美都比売命

垂仁帝の后妃と子供たちに関わる「問題点」については過去何度もオノコロ・シリーズで取り上げてきましたが、その推理の核となっている筆者の「瓊、玉、渟理論」を簡潔に言えば「書紀は王統の系譜などで後世改編を加えられたと思われる人物の名前には、目印として特別な字(瓊、玉、渟など)を用いて」区別しているのではないか?と云う単純な見方なのですが、それを上の后妃たちにも当てはめてみると、これまでとは又違った姫たちの一面が浮かび上がって来るかも知れません。ただ、垂仁や景行の周辺では相当大がかりな系譜の造作が行われたと考えられ、その原型の修復にも注意が必要です。また、垂仁の先の皇后である狭穂姫は開化天皇の子に位置付けられている「彦坐王(日子坐王)の娘」ですから、日葉酢媛にとっては「おば」に当たりますが、この当時に異世代婚が存在していたのかも大いに疑問です。更に、景行帝より先に生まれたとされる五十瓊敷入彦命の実在性も疑われますから、開化記(古事記)に登場しない「渟葉田瓊入媛と薊瓊入媛」の二人についても、別人の名前を変えた表記である可能性が強くなります。つまり、上の表に上げた人物で「瓊=玉」の字を持っている者は、全て実在していなかったか、実在したとしても実際は異なる名前の持ち主だったと云うのが筆者の推測です。加えて、この「瓊」という字は「玉」と同じ意味を持っていますから「正統性をもった皇統に属している者」の象徴でもある訳です。(垂仁天皇には上とは別に天津彦根命の後裔である山代(山背)氏の娘も嫁いでおり、その女性たちの名前に含まれている『ハタ』が渟葉田瓊入媛の『葉田』に投影されている可能性もぬぐい切れません。また、山代氏の娘たち二人が彦坐王の妃となり、その内の一人が日葉酢姫の祖母とされる息長水仍姫命に他なりません)

右が日葉酢媛陵  付近図 

最も分かりやすい五十瓊敷入彦命から見て行くと、この皇子は大王をも凌ぐほどの業績を上げ、天皇からほぼ「全ての権限」を与えられたにも拘らず、記紀はその最期も陵墓についても何も伝えていません。では全くの架空の人物なのかと言えば決してそうではなく、次の大王である景行天皇の「分身」である可能性が高く、その諡に含まれている「五十瓊」は偉大な崇神帝の名前「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)」の一部分をそのまま踏襲していることから、彼は「垂仁の子供」ではなく「崇神の皇子」つまり垂仁帝の兄弟だったのではないかと考えられるのです。稚城瓊入彦命も「城、瓊」の二字を含んでいますから、恐らく、これも景行を暗示した変名の一つでしょう。つまり「日葉酢媛が産んだとする三人の皇子の実体は景行天皇ただ一人」だった事になります。更に、皇后は後二人の皇女も生んだことに成っていますが「大中姫」という名前は「本来、四人姉妹の次女」を表す呼称ですから、二人姉妹に付けるべきものではありません、つまり、これも造作の跡という訳です(日葉酢媛本人が四人姉妹であった可能性もあるので、帝紀編集の過程で伝承が混乱したのかも知れませんが…)。では、古事記にだけ見られる「大中津日子命」とは誰のことなのか?垂仁の子供つまり「景行と同世代」(という設定)の人物で、

  山辺の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張国の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥の君、牟禮の別などの祖

と記が注釈を付けて手掛かりを残してくれている彼の実体については「山辺の別(ワケ)」と「吉備の石无(イワナシ)の別」と云う豪族が情報を与えてくれます。それが「新撰姓氏録」(右京皇別)に載せられている次の文章です。

  和気朝臣 垂仁天皇皇子鐸石別命之後也。神功皇后征伐新羅凱帰。明年車駕還都。于時忍熊別皇子等。窃搆逆謀。於明石堺。備兵待之。皇后鑑識。
  遣弟彦王於針間吉備堺。造関防所謂和気関是也。太平之後。録従駕勲。酬以封地。仍被吉備磐梨(イワナシ)県。始家之焉。光仁天皇宝亀五年。改賜和気朝臣姓也

姓氏録は続けて「山辺公 和気朝臣と同祖」と記録していますから古事記が云う「大中津日子命」とは「鐸石別命(ヌデシワケ)」に他ならないことが分かります。つまり上表で「渟葉田瓊入姫」が母親だとする人物と同じ人と云うことです。次に上げられている「膽香足姫命・伊賀帯日子命」はそれぞれ「イカタラシヒメ・イカタラシヒコ」と読み、いずれも「五十(イ)」の文言を含んでいます。記紀で男女の性別が逆転しているのは大中津日子命の例と全く同じですから、恐らくは古事記にある名前がより実態に近いもので、書紀の編者たちは系譜の加工跡を出来る限り消したかった(分かりにくくした)のかも知れません(記は四人兄弟として記録)。つまり姫が生んだのは「二人の皇子」で、その二人目が「イカタラシヒコ」だった訳です。この皇子についても推理の手掛かりを与えてくれるのは「姓氏録」にある記述です。

  讃岐公(後の讃岐朝臣、さらに和気朝臣の姓を賜る) 大足彦忍代別(景行)天皇皇子、五十香彦命(又の名、神櫛別命)の後なり。

上で見た「和気朝臣」と同族の「讃岐公」の祖先が「五十香彦命(イカヒコ)」で、景行天皇の皇子とされる彼が「イカタラシ彦」と同一人であるとすれば、日本書紀が「景行と五十河媛との間に生れた」とする神櫛皇子(讃岐国造の始祖で稲背入彦皇子の兄とされる)とも同人である確率は極めて高くなるでしょう。(因みに『先代旧事本紀』は「五十河彦命」を讃岐直、五十河別の祖と記録しています=天皇本紀、景行段。全ての資料をつき合わせて考えれば伊賀帯日子命=五十香彦命=神櫛別命=五十河彦命の全てが同じ人だった事が分かります)ここまでで系譜の大がかりな改編が垂仁・景行両天皇の周辺で行われていた実態が明らかになりましたが、最期に残った薊瓊入媛の子についても同様の疑念が持たれます。ただ、女性である稚浅津姫命(阿邪美都比売命)は後に稲瀬毘古王(稲背入彦命)に嫁ぎ、夫が「播磨別の始祖」(景行紀四年条)になっており池速別命(伊許婆夜和気命)も「沙本穴太部之別の祖」と古事記が子孫を明らかにしていますから、実体の無い全く架空の系譜(人名)では無さそうです。「二人が本当の兄妹なのか」又皇后の妹が生んだ子供という設定そのものが正しいのかが疑われるという事です。

成務天皇陵  絵図    PR

さて肝心の主題について語りましょう。考古学など専門的な知識を持った研究者たちが、今、どのような判断を下しているのか分かりませんが、奈良佐紀(広陵町)の地に存在している日葉酢媛陵(佐紀陵山古墳)の主は本当に彼女なのでしょうか?江戸期には既に、その所在が明らかではなくなっていた陵墓を調査し、政府が皇后陵だと比定したのは明治八年の事だと聞きます。上左の航空写真を見ても分かる通り、二つの古墳は正に寄り添うように造営されていますが、この「皇后」陵の左側に在る古墳は現在成務天皇陵とされています。彼は太安万侶がわざわざ古事記の序文で『境を定め邦を開きて、近淡海に制め』てと事績の紹介をしている人物ですが、日葉酢媛には「孫」に当る人物であり、二人の間に何か特別親密な関係があったとも考えられません。そこで媛が「垂仁天皇の後の皇后」だったとする記紀の設定そのものが事実であったのかが疑問視されてきます。確かに垂仁記は「この后は、狭木の寺間の陵に葬りまつりき」の一文で締めくくられていますが、その直前、多遅摩毛理(田道間守)の逸話を載せています。そこには、

  故、多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木実を採りて縵八縵、矛八矛を将ち来たりし間に、天皇(垂仁)既に崩りましき。
  ここに多遅摩毛理、縵四縵、矛四矛を分けて、大后に献り、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木実をささげて、叫び哭きて曰ししく

と彼が帰朝した時の様子が詳しく述べられているのですが、何かがおかしい事に気付かれましたか?種明かしは太字にしてある部分にあります。日本書紀は三十二年の秋七月六日に「皇后、日葉酢媛命、薨りましぬ」と明記しており、冒頭にある埴輪の起源話も、その時のことだったはずです。「馬脚を表す」は余り品の良くない言葉使いですが、これも彼女の実体を知っていた古事記の編集者の筆が、つい滑ったと見るべきなのかも知れません。今まで取り上げてきた様々な状況証拠から一つの結論が導き出されます。「丹波道主王の娘・日葉酢媛命は垂仁天皇の皇后ではなかった」のです。西暦927年に作成された「延喜式」諸陵寮に彼女の陵墓は記載すらされていませんでした。彼女の名前に「瓊」の一字が含まれていないのが妙に暗示的です。

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