豊臣秀吉が「忠臣蔵」をお膳立てしたのか?                    サイトの歩き方」も参照してください

 このページで使用している錦絵はすべて国立国会図書館などが収蔵しているものです。浮世絵などで描かれた人物は、その衣服に着いている家紋で誰か分かる様に
 なっています。例えば、赤穂の殿様である浅野氏の紋は「丸に違い鷹の羽」と呼ばれるものでした。

 判官と師直  違い鷹羽の紋 

雨の日の夕間暮れ、後座敷に持ち込んだポータブル・プレイヤーに一枚しかないLPを載せてやる。ターンテーブルは、プレイヤーからはみ出したレコードの重みに、かろうじて耐えながら不安定に回り始め、内蔵した小さなスピーカーが、雑音混じりの野太い音声を搾り出す。講釈しているのは春日井梅鶯(かすがい・ばいおう,1905〜1973)だったのか、それとも桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん・くもえもん,1873〜1916)、あるいは廣澤虎造(ひろさわ・とらぞう,1899〜1964)だったのか…。

    頃は元禄十五年、極月半ばの十四日。場所は本所深川町、俄に起こる陣太鼓、一打ち二打ち三流れ……

そのような文句だったと思うのですが、なにせ40年も昔に聞いたきりの台詞なので、自信はありません。皆さんも良くご存知の忠臣蔵は、勿論、歌舞伎芝居『仮名手本忠臣蔵』として演じられている「赤穂浪士」のお話なのですが、お芝居での筋書きが、そのまま史実を全て忠実に反映しているわけではありません。第一「忠臣蔵」と言っているのは歌舞伎世界(講談、浄瑠璃など)だけのことであり、実際に起こった事件に、そのような「名前」が付けられていた訳ではないのです。

事件を知らない若い読者のために、江戸・元禄時代に起きた『刃傷事件』のあらましをご紹介することにしましょう。

    日時           元禄十四年(1701)三月十四日 午前十一時頃

    場所            江戸城・松の廊下

    登場人物    浅野内匠頭長矩(赤穂藩主)      吉良上野介義央(旗本、高家筆頭)

    内容           浅野が吉良に切り付け負傷させた

江戸城の中と言えば、当時の権力中枢であると同時に権力者の私邸でもあったわけで、そのような場所で「刃傷」(にんじょう=他人を傷つけること、つまり傷害)事件を起せばどうなるか=どのような処分を受けるか=は、子供にでも分かりきったことで、実際、刀で吉良に切りつけた浅野には「切腹」の運命が待っていたのです。また、浅野本人だけの処分では済まされず、浅野家そのものも「取り潰し」対象となり、家臣たちも全員が職を失う結果となりました。『昼行灯』(ひるあんどん=明るい時のともし火=不要品、居るのか居ないのか存在感に乏しい人物)などという、あり難くないニックネームを付けられていた家付き国家老の大石内蔵介(おおいし・くらのすけ,1659〜1703)ですが、彼はぎりぎりまで浅野家存続の道を探り続け、いよいよその道も閉ざされた時、吉良邸への討ち入りを決行しました。

   歌舞伎で大石は大星由良之介  読本の大石  義士の扮装

その話のどこに一体、秀吉(ひでよし,1536〜1598)と関係があるんだ、と思われるでしょうね。全くその通り、江戸城で刃傷事件が起きるまで、秀吉と赤穂には、表面上なんの繋がりも無いように考えられていましたし、管理人自身、この題材で文章を書くことになるとは夢にも思っていなかったのですから。ところで、秀吉は『太閤さん』の称号で知られる人物。関西方面それも大阪では、昔から人気のある部類に入る人なのですが、どうして「太閤(たいこう)」と呼ばれるのか、誰かご存知でしょうか?あっ、手が上りましたね、では、Aさんに答えてもらいましょう。

    太閤とは、もともと関白であった人に対する総称のことです。

正解です、太閤は前関白・元関白の総称だったのですが、秀吉が余りにも偉大な人物であったため、江戸期以降には太閤と言えば豊臣秀吉個人を指す名称になってしまった訳です。でも、秀吉は武士のはず。なんで御公家さんみたいに関白などという身分を手に入れたのか?彼以前そして以後の武家政権は皆、幕府を開いているのに、秀吉はどうして豊臣幕府を開こうとしなかったのでしょうか?

征夷大将軍に「なれなかった」豊臣秀吉

豊織時代の呼び名で一括される1500年代後半については、皆さんも日本史の時間に、それなりにお勉強をされているでしょうから、ここでは詳しく触れませんが、織田信長(おだ・のぶなが,1534〜1582)が本能寺の変で斃れ、いわばタナボタ式に天下人の地位を手に入れた秀吉。力づくで他の勢力を押さえ込み、なんとか全国の大名に睨みを利かせられるようになると、当然、自分の地位が公=朝廷にも認められた正当なものであることを内外に示したいと考えました。

一番良い方法は、武家政権の証である『征夷大将軍』に任じられて、幕府を開くことなのですが、なんでも出来るはずだった秀吉にも弱点があったのです。それが出自。ところで、この征夷大将軍、正式には

    淳和奨学両院別当  征夷大将軍  源氏長者  馬寮御監

という長ったらしい名称が表しているように、武家の棟梁はイコールで源氏の親玉ということであり、我が国に古来からある四つの氏・四姓(源平藤橘)の中でも源家の当主が専ら称してきた職名なのです。因みに、あの徳川家康の官位は「征夷大将軍・左近衛大将・左馬寮御監・源氏長者・淳和奨学両院別当・従一位・太政大臣」でした。(源氏以外の出身の者が征夷大将軍となっていた例は古代にあります。また、鎌倉時代には「親王」が征夷大将軍になっているケースもあります)だから、秀吉が大将軍になろうとするなら(彼の姓が何であれ)、一番手っ取り早い方法は「源氏の棟梁」として認められる存在になること、だった訳です。そして、事実、彼は、そうしようと試みました。見事に失敗はしましたが…。

父親(木下弥右衛門)が足軽だった秀吉(足軽ではなく百姓だったとの説もある)は、天文6年(1537)此の世に生を受け、14歳の年にひとり立ちし行商などをしながら諸国を巡り歩き、生涯の主君・織田信長に邂逅します。よく、お芝居に出て来る「草履取り」や「馬屋番」などの下積み時代の永禄4年(1561)浅野長勝の養女・ねねさんと目出度く祝言をあげ、この時から木下藤吉郎を名乗ります。あとは講談・歌舞伎芝居でもお馴染みのようにトントン拍子に出世街道まっしぐら、40歳にもならない天正元年(1573)には、なんと十八万石の大名に大出世、羽柴の「姓」を初めて名乗る事に。信長暗殺事件の年、秀吉は備中・高松城を水攻めにしていた最中だったのですが、例の『大返し』で急遽帰京「山崎の合戦」で宿敵・明智光秀(あけち・みつひで,1528?〜1582)を打ち滅ぼした後、信長恩顧の柴田勝家(しばた・かついえ,1522〜1583)、滝川壱益そして織田信孝などを相次いで撃破、天下一の基礎固めを着実に行ったのです。

天正十一年(1853)大阪城を築き、その威容でナンバーワンたる存在振りを国内外に誇示、もう、怖い者なしの天下人となった秀吉に欠けているものと言えば「称号」だけ。そこで彼は考えた、のですが、その前に恒例の年表で、タナボタの経緯を見てみる事にしましょう。(直接この項と関係ありませんが、1594年春、あの大泥棒の石川五右衛門が処刑されています)

 西  暦 年  号 その年の主なできごと
 1582   天正 10   6月  2日 明智光秀の謀反により、京都・本能寺で織田信長が死去、享年49歳
  6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉が明智軍に勝利。光秀は闘争中に落命、享年55歳
 1583 11   4月21日 賎ケ谷の戦いで秀吉が柴田軍を撃破、24日柴田勝家が自害
 1584 12 12月        秀吉、徳川家康と講和
 1585 13   7月11日 秀吉「関白」に叙任される
 1586 14 12月19日 秀吉「太政大臣」に叙任され「豊臣」姓を賜る
 1588 16    7月  8日 秀吉が「刀狩令」を発する
 1591 19    2月28日 千利休が自害
   9月16日 諸将に朝鮮出陣命令を出す
12月27日  甥の秀次に関白を譲り、自ら「太閤」となる
 1593  文禄   2    8月  3日 豊臣秀頼が生まれる
 1595    7月  8日 関白の豊臣秀次が自害
   8月  2日 秀次の一族が処刑される
 1596    9月  1日 朝鮮との和平交渉が決裂、秀吉は再度の出兵を決定
 1598  慶長   3    7月15日 秀吉が諸大名に「誓詞」の提出を要求
   8月18日 秀吉死去、享年62歳
   8月25日 五大老が遠征している日本軍に撤退を命令

秀吉は生涯唯一の主君であり師である織田信長の考え方を踏襲していたから「征夷大将軍になれなかった」のではなく「征夷大将軍になろうとしなかった」のだと唱える史家があるそうですが、源氏の本家筋にあたる足利義昭(あしかが・よしあき,1537〜1597)に養子縁組を申し込んだという話が事実なら、やはり彼は大将軍の名称に固執していたと考えたほうが分かりやすいでしょう。
義昭にしてみれば「ボロは着てても何とやら」落ちぶれたとはいえ、今更、秀吉に誇りある「源氏長者」の名跡を継ぐ資格なぞ与えては末代までの語り草になると考えたのか、そうでもなかったのか、ともかく秀吉さんの希望は叶いませんでした。
そこで最期の手段、自ら『藤原氏』を称してお上から関白の官職を賜った。何故「藤原氏」なのかと言えば、律令制の昔から平安時代を経て、秀吉たちの時代まで、関白の地位は名門・藤原氏一族が独占してきた官職だからであり、武士であり、ただの人である者が関白の地位に就いたのは勿論秀吉が日本で初めて。つまり藤原一族以外で関白となったのは秀吉、秀次の二人だけなのです。

「太政大臣」の官職も手中にし、事実上、日本国ナンバーワンとなった秀吉、信長から教わっていたかも知れない「外国」への関心の表れか、徳川家康(とくがわ・いえやす,1543〜1616)の処遇(関東移封)に目安もついた天正17年(1589)対馬藩主である宗義調(そう・よししげ,1532〜1589)に、とんでもない命令をくだしたのです。それは『朝鮮国王に京都まで挨拶に来させろ。もし、来なかったら宣戦布告とみなす』といった内容のもの。こんな要求が通るわけもなく、非戦派の秀吉側近や地方藩主たちの戦争回避の努力も空しく、秀吉は遠征軍の陣立てを自ら決定、何等名分のない出兵を二度にわたり続けることになったのですが、彼の狙いは何だったのか?その手掛かりとなる一つの文書が残されています。

「狭い日本にゃ住みあきた」と云ったかどうか!

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天正20年(1592,12月に文禄と改元)5月18日、太閤・秀吉は、当時、まだ関白の地位にあった甥の秀次に宛てて次のような覚書を送っています。(前田家文庫『古蹟文徴』より)原文は管理人の文章よりも、更に読み難いので意訳します。

    秀次、お前を大唐(明国)の関白に任命するつもりであるから準備をしておけ

    天皇(後陽成)には明国皇帝として北京に遷都してもらう

    秀次が明国の関白になった時は、羽柴秀保宇喜多秀家のどちらかを日本国の関白にする

    天皇が明国皇帝になった時は、皇太子か皇弟のどちらかを日本国天皇に即位させる

    朝鮮の総督には羽柴秀勝か宇喜多秀家を任命する

正に言いたい放題すき放題の憾が否めませんが、これが秀吉の本音だったとするなら、彼は大唐(明国)をも征服する、という妄想に取り憑かれていた、と考える他ありません。また、未見ですが、同じ日に京都の住人で山中橘内という人物に宛てた書状には、秀吉自身が『天竺(インド)まで攻略する』つもりだとあるそうですから、案外、本気で世界制覇を夢見ていたのかも知れません。それはさておき、忠臣蔵はどうなった?

武林唯七は「孟子」の63代目子孫だった

そうです、肝心のお話をしなければ、このページを読んで頂いたご利益がありません。太閤・秀吉が『狭い日本にゃ住みあきた。世界が俺を呼んでいる』と言ったかどうかは分かりませんが、とにもかくにも唐・天竺まで自ら軍を進め、世界No.1になる目的で朝鮮に出兵、その時、一人の中国人が捕虜となりました。その人は、中国・淅江省杭州武林の出身で孟二寛というお医者さんで、たまたま明国から派遣されていた援軍の従軍医師をしていたため運悪く戦時捕虜となり、日本まで連れて来られたのです。もともとが医師ですから、本人の素養も十二分にあったのでしょう、故郷の地名に因んで武林の姓を名乗り、暫らくして渡辺家の婿養子に迎えられました。この武林治庵(渡辺治庵)の子息・渡辺平右衛門には二人の男子があり、治庵の孫である次男は祖父の姓を名乗り武林唯七といいました。さぁ、ここまで来たら、もう、皆さんも三題話のオチが分かったでしょう。

武林唯七隆重は、播州赤穂の浅野内匠頭に仕え馬廻り・中小姓の役職を頂いていた熱血漢で、遠い始祖が孟子(63代目)であることに強い誇りと生きがいを感じていましたが、そこに降って湧いた刃傷事件。昼行灯の大石は主君の仇討ちよりも、御家の存続第一と考え、あらゆる手段を使って浅野家の滅亡を防ごうと試みるのですが、堀部安兵衛や武林などの急進派は、城明渡しよりも籠城・徹底抗戦を主張、ことごとく対立していたのが実情でした。嘆願を続けていた浅野家存続が不可能となった元禄十五年七月十八日(大石に内匠頭の嫡男・浅野大学の広島浅野藩お預け決定の知らせが届いたのは同月二十四日)以降、大石は討ち入りの準備を淡々と進め、十二月十四日を迎えることになったのです。

北斎画   討入り    武林唯七  

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吉良邸に討ち入った旧赤穂藩士は四十七名(イロハ四十八文字の「ん」を除いた四十七と同数ということから『仮名手本忠臣蔵』の題名となった)、武林は間十次郎の一番槍に続き吉良上野介に初太刀を浴びせかけ、面目をほどこしました。享年32歳、刃性春剣信士の戒名と『仕合(しあわせ)や死出の山路は花さかり』の辞世に彼の人柄が偲ばれます。主君の浅野内匠頭が、吉良に切りつけた時吐いた『この間の遺恨、覚えたるか』の遺恨が何であったのか、大石は親しい人物に『たかが喧嘩』と漏らした真意とは?、討ち入りの4カ月前になって幕府は何故、吉良の屋敷を本所へ移転させたのか、などなど刃傷事件にまつわる謎は多いのですが、皆さんも一度歴史の不思議解明に挑戦されては如何でしょう。

話のついでにもう一つ、このサイトでは『雑学』歴史コーナーでお稲荷さんを取り上げ、そこで渡来系の秦氏を紹介していますが、忠臣蔵、ではなく吉良邸討ち入り事件の中心人物である大石内蔵介と親交があり、徳川家をはじめ諸大名とも交流があり、吉良家にも学問(国学)指南として出入りしていた荷田春満(かだ・あずままろ,1669〜1736)は伏見稲荷の神官(秦・大西家から荷田家の養子となった人物)で、言い伝えでは『討ち入り決行日に吉良が在宅しているかどうか』の確認も、春満からの情報が役に立ち、討ち入りの図上訓練をするための吉良邸略図も春満が提供したのだとか。歴史は、実に様々なところで人と人を結び付けているものです。

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