卑弥呼の誕生日は7月14日だった            「サイトの歩き方」も参照してください。

邪馬台国の女王・卑弥呼と大和王朝の初代大王・神武天皇の二人は、いずれも二世紀半ばころ北九州の地で生を受け、一人は地域の戦後処理にあたって実力者たちから推挙されて「女王」の地位につき、もう一人は戦乱の故郷を去り東方にあると聞いた新天地を目指して兄弟たちと旅立った。勿論、倭国に関する二~三世紀にかけての国内資料は存在していませんから、隣国の三国志などに記録された倭王たちの足取りを辿りながら想像するしかないのですが、大和に初期の王朝が誕生したと思われる四世紀初頭を基点として、記紀が伝える系譜を参考にしながら時代をさかのぼれば「一世代=25年」の簡易物差しで概算するなら、神武帝の登場は二世紀の第四四半期およそ西暦180年ころだったと見当をつけることが可能になります。(筆者が「瓊玉渟理論」と名付けた判断基準については別のページを参照してください。初期王朝の大王たちの名前に焦点を合わせた各人の続き柄などに関する詳しい説明があります)

三国志の魏書は卑弥呼について凡そ次のように記述しています。

  その国、本また男子を以て王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。
  鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
  ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す

魏書の云う「鬼道」の具体的な中身については良く分かりませんが、国の指導者として自ら祭祀を主宰し特異な能力を発揮して「衆=民・あるいは指導者たち」の信仰に近いまでの尊崇を得ていたと思われますが、その卑弥呼が「鏡」を好んだという情報に着目してみると、太陽のごとくに光を受けて輝く円盤そのものに霊的な意味合いを認めていたのかも知れません。更に想像をたくましくすれば卑弥呼は自らを「太陽の分身」「太陽の子」なのだと公言していた可能性すらありそうです。魏の皇帝は出先機関の役人から、彼女の「思考と嗜好」について事前報告を受けていたからこそ、朝献の見返りとしてわざわざ「百枚の鏡」を与えたのだと思われます。後漢書が記録していた倭国の大乱は「桓霊帝の治世下(西暦146~189年)」に勃発し、戦火は直ぐには収まらず「歴年」戦いは続きました。この間に国々は疲弊し混乱を極めたと見られていますが、その折「鬼道」をひっさげて登場した一人の女子が「陽(日)の御子」だった訳です。

魏書・東夷伝  倭人条  正始八年条

卑弥呼は「親魏倭王」となった後も朝献外交を続け、その権威は揺るぎないものと思われていましたが、西暦247年倭国内が再び大きく混乱し始めるのです。東夷伝倭人条はその発端を次のように伝えています。

  正始八年、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
  塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

もともと対立してきた狗奴国の王・卑弥弓呼は何故この年に攻勢をかけたのか、その背景には何が存在していたのか、これまで明快な答えを示した著作に巡り合う機会がなかったのですが、魏書巻四「斎王紀」にある一つの記録文が目にとまり想像を膨らませる契機を与えてくれました。上右画像にある通り、そこには「八年春二月朔日有蝕」の記述が見えます。説明するまでもなく、この日大陸でも皆既日食が観測されていたのです。西暦247年3月24日の夕方18時25分ころに欠け始めた夕陽は、およそ10分で八割方の光彩を失い、見すぼらしくやせ衰えた姿を恥じ入るように、そのまま西方の山陰に沈んでいきました。以下、少し物語調の文章が混じりあいます。勿論、その部分はすべて想像です。

赤烏元年銘鏡  古代の戦士  PR

日食が始まるのを、まるで待っていたかのように狗奴国選りすぐりの戦士たちがそこかしこから湧き出るように姿を現し、静まり返っていた卑弥呼の楼閣を取り囲み、大音声を上げ続けたのは陽が傾きかける少し前の事でした。彼らは口々に『邪馬台国の終わりが近づいている』『卑弥呼の最後が迫っている』『我々は必ず勝利するだろう』と叫びながら、無数の火矢を射かけたのです。驚いた警護役の兵士たちが火を消して回り、応戦の支度を整えようとした時、山際に佇んでいた太陽が次第に黒ずみ天空全体が薄暗闇に支配されてゆきます。その情景を見て声を失う卑弥呼の兵士たちとは対照的に、狗奴国の戦士たちは再び野太い大声で『卑弥呼の最期だ』『邪馬台国が滅ぶ証だ』などと触れ回りながら、初めにもまして多くの火矢を楼閣内に打ち込みました。まるで三日月のように頼りなげな形になった夕陽は、遂に回復することなく西の空に沈んで行きました。明け方近くまで攻撃の手を緩めなかった狗奴国は、その日決定的な勝利を収め、卑弥呼の権威は地に堕ちたのです。そんな情景が果たして現実に見られたのかどうか、実のところ余り自信はないのですが、次のような推測は可能です。

西暦189年、後漢王朝によって遼東太守に封じられた公孫氏は、そのまま自立し半島北端の楽浪郡を本拠にして一時期山東半島までをも支配下に置くなど武威を誇りましたが、236年魏に反旗を翻した事がもとで燕王を自称したものの制圧され、238年に滅亡します。そこに卑弥呼の使節が魏へ赴けるようになった要因があった訳ですが、魏と覇権を競い合っていた呉が倭国内の動きを黙って傍観していたとも思えないのです。九州でも大和でもなく日本列島の中央部に近い山梨県の遺跡から、考古学的にも注目される一面の銅鏡が出土しています。甲府市の南南西、西八代郡市川三郷町にある鳥居原狐塚古墳(18m×13mの方墳)から見つかった「赤烏元年銘鏡」(径12.5㎝)がそれで、これは呉で作成された後、我が国に持ち込まれ伝世されたものと考えられています。「赤烏元年」は取りも直さず卑弥呼が魏から「銅鏡100枚」を贈られた「景初2年」(238年)であることに着目すると、卑弥弓呼の許へ呉の使者が訪れていたと考えられなくもないのです。(兵庫県の安倉古墳からは赤烏七年銘の呉鏡が別途出土している)そこで再び、想像の場面に移ります。

従者に大きな荷物を持たせて現れた呉の役人と名乗る男は、流暢な和語を駆使して大陸の情勢をひとしきり述べた後、本題を切りだした。それは卑弥弓呼にとって初めて耳にする驚くべき内容だった。

  邪馬台国の卑弥呼は自分の事を「陽の御子」だと称しているようですが、それは彼女の出生にまつわる逸話が国民にも深く信じられているからだろう。
  彼女が生まれたのは今から丁度八十年前の七月十四日だったはずで、その前日の夕刻に太陽が姿を失ったまま日没を迎え、翌朝の日の出と同時に彼女は生まれました。
  だから周囲の者たちは皆、卑弥呼が生まれ変わった「陽」とともに誕生したという事実を知っており、その事を彼女の権威作りに大いに利用したのですが、
  今、卑弥呼を共立して邪馬台国に従っている幾十もの小国の支配者たちも、恐らく卑弥呼を太陽の子だと信じていることでしょう。国王様は、それを知っていましたか!

無言のまま首を左右に動かした卑弥弓呼に、その男はさらに重大な話をもちかけた。

  魏から称号を貰った卑弥呼の権威は、今、頂点を迎えています。小国の支配層も大陸の珍しい宝物を分けてもらい喜んで追従していますが、なにせ彼女は高齢だ。
  近年、彼女の姿を見たものは極限られており、声だけでも聞きたいと館を訪れた者は、皆、望を叶えることなく退去させられている。人には寿命というものもあります。
  ところで国王様は暦法というものをご存知ですか?夜空を照らす月には規則正しい満ち欠けがありますが、その月や陽の動きを知るための大切なものなのです。
  卑弥呼が邪馬台国を率いていられるのも、彼女が「陽の御子」でいられる間に限られます。つまり陽そのものが欠けて無くなれば卑弥呼の権威は一気に失墜するでしょう。
  国王様が真の倭国王として君臨される、その絶好の機会を前もって調べることが、この私には出来るのです。

部屋の片隅で影のように蹲っている従者に男が目で合図を送ると、持参した袋から取り出した光輝く銅鏡をうやうやしく卑弥弓呼の前に差し出した。窓から差し込む太陽の力強い日差しが丁度供物を載せる木製の台に届くのを見計らっていたことは明らかだった。不思議な男が次に訪れたのは数年後のことで、今度は従者に竹細工の巻物のようなものを背負わせて卑弥弓呼の前に現れた。

  国王様、お変わりなくお元気でなによりです。あれから随分と年月が流れましたが、私の前言を覚えておられますか?決してお忘れでは無いでしょう。
  聞くところによれば邪馬台国の卑弥呼は、もう、誰にも会うことはなく、彼女が果たして生きているのかすら良く分からなくなっているそうです。
  そうなれば人心は離れやすく、国力そのものも衰えて行くものです。今日はお約束通りに、私が暦法で調べ上げた陽の暦をお土産にお持ちしました。
  陽は、今から月の満ち欠けが三十六回繰り返した後、二十四回目の日の出を迎えた夕刻、その姿を消してゆきます。陽が欠けて無くなるのです。

呉の男は従者の一人を「暦」人として卑弥弓呼に献上すると言い、半信半疑のまま三年の月日が流れた。三十七回目の「月」が巡ってきた朝、呉の暦人が卑弥弓呼に戦の準備をする時が来たと告げ、兵士たちを邪馬台国周辺に送り込むように進言した。西暦247年3月24日、倭国が再び戦乱状態に陥った。

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