邪馬台国の卑弥呼神武天皇の関係               「サイトの歩き方」も参照してください。

卑弥呼は西暦238年(景初二年)六月、大夫・難升米を長とする使節を初めて魏に送り「親魏倭王」の金印と「鏡百枚」を下賜されました。三国志・魏書には「その国はもともと男子を王と為していたが(建国から)七~八十年が経過した頃」「倭国全体を巻き込む大乱が生じ、相攻伐すること暦年(この混乱を収拾するため)一人の女子を王として共立した」という記述がみられます。また五世紀半ばに成立した後漢書・東夷伝には「桓帝、霊帝の治世下、倭国が大いに乱れた」ともあり、これが西暦146~189年に該当すること、同書には「倭国王」帥升が西暦107年に朝見したともあること等を合わせて考えると、凡そ「180~190年」頃に卑弥呼は各地域(国)の実力者たちの合意の許で「王」の地位に就いたのて゜はないかと思われます。魏書は彼女の年齢を、ただ「長大」と表現するに留まっていますが「其人壽考 或百年 或八九十年と云う情報を若し信用するのなら「100歳」の長寿を全うした可能性がゼロとは言い切れません。邪馬台国は正始八年(247)長年敵対してきた卑弥弓呼が治めていた狗奴国と戦を始め、女王卑弥呼は戦火が広がり国情が不安定化する中、翌248年頃に陣没したものと見られていますが、その享年が百歳余であったと仮定するなら卑弥呼は二世紀半ば・西暦150年前後に誕生していたのかも知れません。

一方、大和の纏向周辺では遅くとも三世紀の半ば頃までに石塚古墳(全長96m)が築造され、古墳時代の幕開けを告げます。この最も古い時期に造られたバチ形の方円墳は葺石や埴輪を備えていませんが、吉備系の物とされる弧紋円盤や朱塗りの鶏形木製品など珍しい遺物が見つかっています。また、すぐ近くには良く知られている箸墓古墳もあり、纏向の地が大和政権の発展に大きく関わっていたことを想像させます。記紀がそろって「はつくにしらしし」天皇と記す崇神天皇は「戊寅の年の十二月」に亡くなったと古事記は伝えているのですが、この干支は「西暦318年」にあたり四世紀初め頃、天孫族の直裔であった御真木入日子印恵命が、大和に数多く存在していた諸豪族を抑えて「大王」の地位を獲得、灌漑設備などを造成して農業基盤を充実させると同時に、国としての祭祀体制も整えて国力拡大に努めました。その大王たる者の「威厳」の象徴が前方後円墳に代表される陵墓の築造であった訳ですが、第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命のものとされる箸墓古墳の築造を三世紀後半と見るのなら、崇神天皇の治世も少し繰り上げて考える必要がありそうです。(註・オノコロ共和国では倭迹迹日百襲姫命を崇神の姉妹だと考えています。つまり崇神の父親は孝霊だということです)

 倭迹迹日百襲姫命について=日本書紀は崇神八年秋八月条で唐突に倭迹速神浅茅原目妙姫を登場させ、崇神と同じ霊夢を見たと言わせています。この出自不明の「姫」については従来、多くの研究者たちが倭迹迹日百襲姫命の別名であると解釈するに留めています。崇神天皇から見て三代前の大王の娘が彼の治世下に現出するのは如何にも不自然なように 思われますが、実は、崇神の実際の父親が孝霊天皇であったとするなら、時間的な錯誤の問題は解決されます。系譜の改編が行われた結果なのでしょう。

石塚古墳  弧紋円盤と鳥形  瑞垣宮跡碑

記紀などでは歴代人皇について「神武――綏靖――安寧――懿徳――孝昭――孝安――孝霊――孝元――開化――崇神」と、いずれも直系の子孫が帝位を引き継いだと記録していますが、ではそれぞれの諱はどのようになっているのか一覧にして見てみましょう。

   神武天皇  綏靖天皇  安寧天皇  懿徳天皇  孝昭天皇
 古事記  神倭伊波禮毘古  神沼河耳  師木津日子玉手見  大倭日子鉏友   御真津日子訶恵志泥 
 日本書紀  神日本磐余彦  神渟名川耳  磯城津彦手見  大日本彦  観松彦香殖稲
   考安天皇  孝霊天皇  孝元天皇  開化天皇  崇神天皇
 古事記  大倭日子国押人   大倭根子日子賦斗邇   大倭根子日子国玖琉   若倭根子日子大毘毘   御真木入日子印恵
 日本書紀   日本足彦国押人  大日本根子彦太瓊  大日本根子彦国牽  稚日本根子彦大日日  御間城入彦五十瓊殖 

推理のきっかけとなったのは崇神天皇その人ではなく、彼の跡を継いだ垂仁天皇の身許調べの過程で浮かんだ一つの疑問でした。鍵は垂仁の一人の皇子の名前にあったのです。垂仁帝と後の皇后・日葉酢媛命の間に生まれた最初の男子は五十瓊敷入彦命といい、次の男子が大足彦尊(大帯日子淤斯呂和気命=景行天皇)だと記紀は記していますが、この長子の名前に含まれている「五十瓊」は「いに」と読み「沢山の玉(珠、宝石)」の意味があると考えられますが、古代帝室にとって「瓊=玉」は特別の文字でもありました。良く知られているアマテラスとスサノオの「誓約(うけい)」の際、彼女が身に着けていた「八坂瓊の五百箇の御統(みすまる)」から生まれた五柱の男子の筆頭が正哉吾勝勝速日忍穂耳尊」であり、彼の子である天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天孫降臨神話の主役に他なりません。つまり三種の神器の一つである「瓊=玉」こそ大王位の象徴そのものなのです。この特別な文字を含む呼称は後世にも伝えられ、例えば欽明天皇と石姫皇后との子、敏達は渟中倉太珠敷天皇であり、天智の弟・天武は天渟中原瀛真人天皇と諡されています。

皇位よりも「弓矢」を望んだと言われている五十瓊敷入彦命は、農耕に不可欠な池を三つ(血沼池、狭山池、高津池)築造する一方、垂仁三十九年には茅渟の兎砥川上村で「一千本の剣」を拵えて石上神宮に納め、その神宝の管理を任されました。そして同時に「盾部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部」の合わせて十個の品部が彼に与えられたとも日本書紀が記録しています。天孫族の祭祀の拠点でもある武器庫の役割をも兼ねた石上神宮を掌握し、様々な品部を従えて垂仁天皇の治世を支えた皇子でしたが、彼の没年について書紀にも一切記述はなく、その後裔氏族も知られていません。そこで名前に含まれた「五十瓊」の文言に着目して歴代の大王たちとの比較対照を行った結果、この皇子が実は崇神天皇の子息であり、垂仁の子供に位置付けられている景行天皇その人ではないのかという考えに辿り着いたのです。筆者は、この推論の核になった判断基準を「瓊玉渟理論」と名付け、その視点で神武から五十瓊敷入彦命までの親子関係、続き柄を見直した結果が以下の表で示した内容です。

 1 神武天皇   2 安寧天皇   3 懿徳天皇   4 考昭天皇   5 孝霊天皇   6 崇神天皇   7 垂仁天皇(活目入彦五十狭茅)  五十瓊敷入彦命(景行天皇) 

各天皇の前に付けた数字は「世代」を表すもので、神武から崇神までの実世代数は「五」つに狭まります。上で見てきたように崇神天皇の治世を何時頃と推定するかにもよりますが、凡そ四世紀初めの西暦300年に基点を置くなら(一世代を25年として)神武天皇が登場した時代は「300-(25×5)=175年」前後だったと想像することが出来るでしょう。更に、邪馬台国の卑弥呼は西暦150年頃に生まれていたと云う仮定を重ね合わせると、神武と卑弥呼は同世代でお互いの存在を知る間柄だったのかも知れない、そんな妄想も湧いてきます。

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