邪馬台国の卑弥呼と鏡とアマテラス                               サイトの歩き方」も参照してください。

邪馬台国の卑弥呼と、天孫一族の象徴アマテラスを取り上げて「何事」かを論じているページは、それこそ山ほどもありますので、天邪鬼を自認している管理人としては、余り人様が関心を寄せない些事を探求したい。つまり何時もの「重箱の隅つつき」スタイルの原点?に立ち戻りたい訳ですが、とは言え何かのとっかかりは必要になります…。国譲りを終えさせた後、孫に「五伴緒(いつとものを)」と呼ばれる神々を従わせて「天降」らせる折にアマテラスは、八尺の勾玉、鏡、そして草那芸剣の三種の神器セットを授け、

  此れの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝くが如いつき奉れ

と命じたのですが、その「鏡」とは彼女が大暴れしたスサノオの行状に絶えかねて「天の岩屋戸」に身を隠した時、

  天の金山の鐡を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せて作らせた

とされる八尺鏡(やたかがみ)そのもので、アマテラスは鏡作連の祖とされる伊斯許理度売命(いしこりどめ、石凝姥命)を「五伴」の一人として孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)に随行させていますから、余程、鏡を大切な「モノ」として意識していたに違いありません。一方、卑弥呼の方はと言えば、三国時代が幕を開けると、西暦239年「倭王」として魏王朝に使者を送るなど国際感覚の優れた一面を窺わせますが、彼女が魏への手土産として難升米に運ばせた『男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈』に対して、皇帝は大変珍しい数種類に及ぶ絹絹の他、

  金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤

を「特に」与えました。珍しい豪華な布地は卑弥呼が「女性」であることを考慮したものであったのかも知れませんが銅鏡、真珠、鉛丹などの品々は彼女の「好物」であるからだと明記されています。この下賜品の組み合わせを、

  五尺刀=草那芸剣(くさなぎのつるぎ)  真珠=八尺の勾玉(やさかの勾玉)  銅鏡百枚=八尺の鏡(やたのかがみ)

だと考えると、卑弥呼が「好んだ物」が「三種の神器」の原型になった可能性があると言えなくもありません。そんな訳で、今回のお題は「鏡」なのですが、皆さんは鏡(の神様)を祀った社を訪れたことがあるでしょうか?環濠集落の里として知られる奈良・田原本町は、弥生時代の唐子・鍵遺跡のある町としても著名ですが、旧城下郡の鏡作郷も同町に属する地域にあり、鏡に関係した神社が幾つも存在しています。それらの社は二股に分岐した国道24号線に挟まれた場所に鎮座していますが、最も北の三宅町石見にあるのが上で見たアマテラスの「鏡」を作ったとされるイシコリドメを祭神とする鏡作神社(下左画像)、本殿は明らかに三柱を祀る形式なのですが、どの資料を見ても配神の名が見当たりません。

石見の社  石見社の本殿   魏志倭人伝より

南南東約1.5キロの田原本町八尾には鏡作坐天照御魂神社(祭神は火明命、石凝姥命、天児屋根命の三柱?)が在り、寺川を挟んだ東岸沿いの小坂には鏡作麻気神社が建てられています。後者が祀っている神様はイシコリドメではなく、彼女の父親である天糠戸命(アメノヌカド)という余り馴染みの無い名前の方です。前者については江戸中期、1712年頃に出版されたと思われる『和漢三才図会』巻之二十八大和国城下郡には「鏡作の社」として「八尾村」に在る社が記録されており、祭神は@鏡作麻気神=天糠戸命、A石凝姥命の二柱だと明記しているのですが、オノコロ・シリーズで良く引用している『神社覈録』は同社の祭神を天日神命だと記しています。この「天日神命」も余り知られていませんが物部氏の『先代旧事本紀』は、

  対馬県主らの祖先「アマヒノカミ」である

と註記していますが『神社覈録』が類社として「山城国葛野郡の木嶋坐天照御魂神社」(蚕の社がある神社)を上げていますから、三つの神殿にはそれぞれ、

  @ 天照国照彦火明命(ホアカリ?)  A 石凝姥命  B 天糠戸命

が祀られているものと考えられます(『神社辞典』はBを天児屋根命とする)。WEBでは、石見(いわみ)の社との関係などに付いて触れている記述が多く見られますが、元々、この鏡作郷を支配していた部族全体の鎮守の性質だった天照御魂神社が、新しく支配者となった一族のモノ作りを担わされる過程で「鏡作り」(を担当した人々が祖と仰ぐ)の神々も祀られるように変質してきたのではないかと想像されます。その意味では、第三の神の名を「天児屋根命」とする社伝も捨てがたいのですが…。一方、鏡作麻気(まけ)神社の祭神については、鍛冶の神「天目一箇命」だとする伝承もあり、明らかに鏡作りたちを含む鍛冶の崇めた社だったようです。

鏡作坐天照御魂神社  鏡作麻気神社   PR

近鉄橿原線と田原本線をまたいで西南西に約1キロほど行った所には鏡作伊多神社が二つあります。「伊多(いた)」は石凝姥命の別名とされ、やや南側に建てられた保津の社の周辺には「イタシキ」、北側の宮古にも「イタ坪」の小字名が残されているそうなので、鏡作りたちは各々の集落を環濠施設で守りながら神様の象徴である鏡の製造に勤しんだと考えられます。ところで「鏡」の名を冠した地名や神社は田原本町だけに限りません。近江国蒲生郡の或る社には、意外な人物にまつわる「お話」が伝えられています。

承安四年(1174)、春三月三日の払暁、一人の若者が人目を忍び鞍馬の山を出立、山科・草津を経て彦根方面を目指しました。遮那王と親しい人々から呼ばれていた彼の旅立ちを、十三世紀前半成立の『平治物語』は次の様に描写しています。

  生年十六と申す、承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて東路遥かに思い立つ、心の程こそ悲しけれ。
  その夜、鏡の里に着き、夜更けて後、手づから髪取り上げて懐より烏帽子取り出し、ひたと打著て打出給えば、
  陵助、早や御元服候ひけるや、御名は如何にと問い奉れば『烏帽子親も無ければ、手づから源九郎義経とこそ名告り侍れ』

謡曲『烏帽子折』では金売り吉次と一緒に奥州に向け出発した年が、何故か翌安元元年になっていますが、中山道最初の宿場「鏡の宿」で義経(1159〜1189)が宿泊し「左折れ」の烏帽子を手に入れ、元服するまでを、より克明に伝えています。旧近江国蒲生郡鏡山村、現在の竜王町に鎮座する鏡神社の主祭神は天日槍(アメノヒボコ)ですから、系譜上神功皇后(息長帯比売命)の母方の先祖に当たります。そして、彼女の子・応神帝が源氏の守り神・八幡神だと見られていたので義経も八幡太郎義家にあやりたいと考えたのか…?それとも近江源氏のだれかが、不遇の天才に晴れ舞台を提供してやろうと思ったのか…、皆さんはどちらの想像に軍配を上げるでしょう。それにしても烏帽子にまで「源平スタイル」があったとは知りませんでした。人の世には、いつも流行り廃りがあるものなのでしょう。

鏡神社  義経の石碑  義経の肖像  図会より

立派な若武者となった義経の武勇伝の続きは図書館などでお楽しみ下さい。ところで「鏡の里」には、もう一人縁の人物が居ます。それが次のお話の主人公になる予定です。

     
     
 人気のページ   お地蔵さまの正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼