阿蘇ピンク石と肥()の国そして近江野洲                                             サイトの歩き方」も参照してください

近江国、滋賀県野洲の市内を循環しているコミュニティバスの愛称を『おのりやす』と言う。目的地の神社前を経由しているのは「あやめルート(青色のバス)」と呼ばれているもので朝夕の通勤通学時とお昼時のみ運行している。なにしろ一日八便しか無いので乗れたら僥倖と思うしかありません?阿蘇ピンク石を巡る謎を追いかけて前回、なんとか肥(火)の国に辿りつき阿蘇とのつながりを確認しましたが、その先が杳として見えてきません。帝室と深いつながりのある多氏と「同族」関係にあったとする火国造・建緒組命の系譜、足跡を丹念に探ってはみたのですが、見事に歴史の闇に紛れて姿を隠しています。そこで「古事記」が息長一族の息長日子王は『針間(はりま)の阿宗(あそ)君の祖である』と伝えていますので、播磨の「アソ」を手掛かりにもう一度ピンク石石棺の背景を推理してみたいと思います。(息長日子王は息長宿禰王の子供で、息長帯比売命の弟だとされる人物で、系統的には丹波道主命の子孫と考えられます)

醤油の産地として有名な龍野市「誉田町」に鎮座している阿宗神社の祭神は言うまでもなく息長日子王と一族の象徴的存在の神功皇后・応神帝親子です。この社には欽明帝の頃、大将軍を務めていた大伴金村の息子・狭手彦が宇佐から八幡神を勧請したとの「伝説」もあり、何やら曰くありげな存在なのですが、今回初めに取り上げるのは姫路市内にある白国神社というお宮さんです。その神社が建つ白鷺城の北北東凡そ3qの位置は「播磨国風土記」飾磨の郡『新良訓(しらくに)』の条で、

  新良訓と名づくる所以は、昔、新羅の国の人、来朝ける時、この村に宿をとった

から「白国」と名付けられたとある場所で、その祭神は稲背入彦命阿曾武命(アソタケル)と神吾田津日売命の三柱です。社伝によれば、

  今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり
  大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、木花咲耶媛(コノハナサクヤヒメ、神吾田津日売命の別名)が忽然と現れ

願いを聞きとどけてくれた。そこで社を造り大切にお祀りしているという訳ですが、面白いことに姫路には、もう一か所かつて「白国大明神」と称された神社が指呼の先にあるのです。それが天平五年(733)の創祀とされる広峰神社。その祭神はスサノオと五十猛命親子で、もともと白幣山にあった社を天禄三年(972)に今の社地に移したものらしく、社家は歌人の凡河内躬恒の子・恒寿を祖とする広峰氏なのですが、七代目の勝賀に男子が無かったため『阿曽氏の一族』広瀬家から婿養子三郎を迎えたと社伝にあります。一方は大王家の孫、他方は天津彦根命・天御影命系の家柄ですが、直線距離にしてわずか1.5qの所に建つ両社が無関係とは到底考えられず、むしろ「阿曽」を介して何らかの繋がりがあったと見るのが自然です。そこで、景行の家族調査を始めたところ、興味深い伝承を持つ野洲の神社に巡りあったのです。

稲背入彦命(イナセイリヒコ)という「皇子」が景行の「息子」だという記述は「古事記」にありません。彼だと思われる「稲瀬毘古王」の名前が出てくるのは垂仁帝の后妃皇子女段のみで、皇后・氷羽州比売命(ヒバスヒメ、丹波道主王の娘、日葉酢媛のこと。景行の母親)の妹で、阿邪美能伊理毘売命との間に産まれた阿邪美都比売命が稲瀬毘古王に「嫁いたまいき」とあります。また、日本書紀は薊瓊入媛が「池速別命と稚浅津姫命」の二人を産んだと記すだけで嫁ぎ先などについては沈黙を守っています。更に、景行紀四年条には、

  次の妃、五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は、これ讃岐国造の始め祖なり。弟稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。

とあって記紀で系譜・伝承の混乱?が著しいのですが、ともかく皇子と「播磨」の縁は確かなようです。そこで先の近江野洲の神社に話を戻します。兵主大社縁起によれば、

  当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、
  御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師に神地を占し兵主大神と仰ぎ、
  皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、
  部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、
  稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。

とあって、大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子だと云うことになりますが…、それはさておき、景行が皇后に選んだのは播磨稲日大郎姫(吉備氏の娘でヤマトタケルの母親、和邇氏の彦汝命が父親だとする)という女性でしたし、彼が都を築いた場所も桜井市穴師という土地でした。その大王を滋賀の「穴太」の地に誘ったのは稲背入彦その人ではなかったのか?(「播磨国風土記」飾磨郡の項には穴師の里・右、穴師というは、倭の穴无の神の神戸に託きて仕え奉る、故、穴師と号す、とあります)もっと勘ぐれば垂仁天皇が纏向に営んだ都を、眼と鼻の先の「穴師」に移させたのも彼の「提案」だったのではないのか?そもそも、垂仁三年春三月に播磨国宍粟邑にやってきて、

  莵道河より遡り、北の方、近江国の吾名(あな)邑に入りて、暫く住んだ

後、但馬国に定着したという「天日槍」伝説と酷似した一連の筋書きは、只の偶然の産物なのでしょうか!−−いや、少し先走り過ぎました。「兵主」を手掛かりに検索すると播磨国の総社が姫路市にある射楯兵主神社(祭神は射楯大神と兵主大神)だと分かります。そして白国神社が四宮であることも分かります。(兵主を名乗る延喜式内社は全国に十九あり、但馬国が最も多い)兵主神の正体が八千矛神であるとする説に従うなら、それは取りも直さず「武力」で国を「平らげた」始祖神だということになります。稲背入彦が、その謂わば至高神を「祀る」資格を有していたという伝承を素直に信じるなら、彼が景行帝の親族(古事記の記事を優先させれば、垂仁帝の娘婿)の中でも相当「高い」位にある人物だったと推測されるのです。それは皇后の生んだ子女ではないが(直系ではない)、初期ヤマト政権の中枢にあって、大王位を狙えるだけの実力を持つ重要な存在だったのではないでしょうか?景行の「実の兄」だとされる五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)は「弓矢」を欲したため帝位にはつかず、河内国で土木事業に精を出し茅渟の菟砥川上宮を住居として「剣一千口」を作り忍坂邑に納めた後に石上神宮に蔵め『神宝を主った』と伝えられていますが、稲背入彦が穴師と穴太で行った「祀り」の本質は、これと瓜二つなのです。名前は一つの記号であると同時に古代人たちの「思い」が込められたものだと考えるなら、崇神・ミマキイリヒコ、垂仁・イクメイリヒコ、五十瓊敷入彦命・イニシキイリヒコ、五百城入彦皇子・イオキイリヒコと連鎖するイリ王朝の輪の只中に在ったのが稲背入彦命・イナセイリヒコだったと云えそうですね。

兵主大社  乙殿神社の石碑  三上山  PR

景行の家族調査を続けましょう−−。彼が子沢山の果報者であったことは良く知られていますが、日本書紀では『日本武尊と稚足彦天皇(成務)と五百城入彦皇子の三人以外の七十余の子は、皆、国郡に封させて、各その国に任じた』とされ、今回の主題の一つでもある「肥(火)の国」については、景行帝が襲武媛(そのたけひめ)との間にもうけた「豊戸別皇子」という名の人物を「火国別」に封じたとあります(景行紀四年二月条)。この記事は、

  崇神帝が勅して、肥君らが祖、健緒組を遣りて、伐たしめたまいき。  健緒組の勲をあげて、姓名を賜いて火君健緒純という。

と云う「肥前国風土記」の記述とは明らかに食い違いを見せていますし「先代旧事本紀」の『神八井耳命の子孫で健磐龍の子・速瓶玉命が初代阿蘇国造となった』(国造本紀)内容とも一致しません。いずれの伝承が事実に近いのか判断に苦しむところですが、旧事本紀の「天皇本紀」を一読すると、今まで見てきた幾つかの事柄、人物を推理する上で参考になりそうな記述が並んでいることに気づきます。では、景行帝の部分から関連のありそうな文言を抜き出してみます。

  (前略)またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。
  またの妃、襲武媛は、国乳別皇子、次に国凝別皇子、次に国背別皇子、またの名は宮道別皇子、次に豊戸別皇子を生んだ。
  またの妃、美人を御刀媛という。豊国別皇子を生んだ。(中略)
  稲背入彦命[播磨別の祖]。豊国別命[喜備(吉備)別の祖]。武国皇別命[伊与(伊予)御城別、添御杖君の祖]。大稲背別命[御杖君の祖]。
  豊門別命[三嶋水間君、奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖]。息前彦人大兄水城命[奄智白幣造の祖]。櫛角別命[茨田)の祖]。

景行帝の行動範囲と興味を持たれた対象の範囲がとても「幅広」かったことが一目瞭然ですが、稲背入彦と肥の国そして兵主神を追いかけてきた私たちにとって上に書き出した幾つかの言葉は、とても意味深長なものとして映ります。帝の「関心」が「肥」ではなく「豊の国」に向けられているように見えるのは、管理人が恣意的に文言を選んだせいでもありますが、景行紀が「火国別」に就任したと述べている豊門(戸)別皇子は「筑紫火別君の祖」だと紹介されています。「筑紫」と「火」は明らかに別の国ですから「筑紫火別」は「火別」から「筑紫」に分かれた(移動した?)一族を表現したものと考えることが出来ます。また「水間=水沼」の地名も筑紫との関係の深さを示唆していますが、地元風土記にあった火君・健緒組の言い伝えを尊重するなら、崇神朝の出来事とする記事の書き方を、より「古い」時代の比喩と考え、火君の「子孫」(と称する)の誰かが筑紫の国に自家の勢力範囲を拡張したのではないかと想像することも出来るでしょう。次は「白幣(しらしで)」に関わる皇子についてです。

稲背入彦は景行帝の「御杖」となって兵主神を祀った

息前彦人大兄水城命という名前を見て、はて、どこかで何度も見たような名前だと思われる方も多いことでしょう。先ず「息前」は「息長」の誤植ではなく「おきさき」と読ませるのだそうです。ただ、息長一族の多くを知る者にとって、この「命名」は如何にも「取ってつけた」様な不自然さ、作為の跡を強く感じさせます。そんな疑惑を持たれても仕方がない息前命が「奄智白幣造」の祖先の役柄を振り分けられている訳ですが、珍しい「奄智(あんち)」という名前も筑紫に関連があるとも考えられます。それは、日本書紀雄略二十三年是年条に、

  百済の調賦、常の例よりまされり。筑紫の安致(あち、あんち)臣・馬飼臣ら、船師を率いて高麗をうつ。

とあって「先代旧事本紀」天孫本紀が『ニギハヤヒ九世孫、物部竺志連公、奄智蘰連らの祖』と伝え、この物部十市根命の孫に位置付けられている竺志連の異母妹・五十琴姫が景行帝の妃となって輿入れしている状況証拠が存在しているからです。ただ九州北部に「安致」という地名が在ったという事実は確かめることが出来ず、逆に大和国十市郡内に「庵知村」が存在していた事が分かっています。それは「日本霊異記」第二冊(下左の画像)が『聖武天皇の御代、鬼魅(オニ)に食われた女人』が大和国十市郡庵知村に住む大きに富める「鏡作造」の娘であったと書き残しているからなのですが「十市郡」は取りも直さず竺志連の祖父「十市根命」の本拠地ですから、むしろ「あんち」は大和の地名を姓に代えたと考えた方が良いのかも知れません。三つ目の手掛かりが「御杖(みつえ)」の二文字です。稲背入彦と酷似した「大稲背別」が「御杖」の祖だというのですから、この二人は同一人物だと思います。「御杖」を字義通りに「神や大王」を補佐して祀り事を執り行う「代理人」と解釈すれば、兵主大神を祀って景行帝の権威を高めた稲背入彦は正に「御杖」そのものです。だとすれば孫の「阿曽武命」が白幣山で白幣を立てて神々に祈願した「実績」を重く見て、息前彦人大兄もまた稲背入彦の別名と判断できるでしょう。更に想像を逞しくすれば「奄智」つながりの線から、豊門別命も稲背入彦・別名グループの一員に加えることが出来るかも知れません。最後に引用した茨田連は、前回登場した屯倉の管理者で、かつ継体帝との姻戚関係にある小豪族の名字だったことを覚えていますか?古事記は、この一族が神武の子供・日子八井命の後裔だと記していましたが、ここでは直接、景行帝に結び付けられています。いずれにせよ、記紀編集時においても尚、茨田氏と帝室の紐帯は健在だったという証と見るべきなのかも…。(「息前彦人大兄」については、古事記景行段にある伊那毘能若郎女が産んだ日子人之大兄王と同一人ではないかという指摘があります。とても複雑な推理になりますが「息前彦人大兄=稲背入彦=日子人之大兄王」という等式が成り立つのであれば、彼が仲哀の妃・大中姫の父、つまり「神功皇后」たちに反乱を起こしたとされる香坂王、忍熊王の祖父に当たることになります。もう一つ参考資料を上げておきます。「新撰姓氏録」山城国皇別には「茨田(すぐり)、景行皇子、息長彦人大兄瑞城の後なり」とあって、ここでも茨田氏が景行子孫となっています。「勝」の姓は渡来系の氏族特有のものだと云うことです)

銅鐸  円山古墳の石棺(阿蘇ピンク石)

さて、そろそろお開きが近づきました。景行帝と稲背入彦の身辺を調べることを通じて、@帝室と九州、取り分け「筑紫」「肥」国とのつながりが大変強固なものであること。四世紀後半頃までには火国特産品としての阿蘇ピンク石の存在がヤマトに伝えられていた可能性もあること、A更には帝室と「播磨」国を結びつける存在が稲背入彦だったこと。伝承はヤマトの皇子としての「地方」進出を語るが、近江の兵主大社の社伝からは『西から東へ』何度も移動した歴史を感じさせること、B稲背入彦が大王の「御杖」(先導者?)となって遷都までしたこと、その目的は金属鉱山の占有(権力源の掌握)にあったと推測されること。結果、ヤマト政権は少なくとも二代二十年余にわたり近江の地に留まり全国への影響力を更に高めた、C「穴師」「穴太」などの地名から、大王や稲背入彦一族が製銅製鉄に長じた(配下を有する)氏族であったと考えられること、D景行帝の九州巡行に象徴される大王家の地方遠征も稲背入彦一族が「先導」した可能性があること。記紀および先代旧事紀などに記載されている景行の子女の名前は「一人の人物を多数に分解している」可能性が高く、親子関係についても全てが事実とは限らないこと−−など原始ヤマト政権を取り巻く人的環境、情勢の一部が仄かに見えてきたように思います。道鏡「事件」にからむ神のお告げを称徳女帝が、伊勢ではなく宇佐の八幡宮に求めた事に思いをいたすなら、すべての「情報」が或る答えに向けて収斂しているようにも見えるのですが…。

おまけ話を少しだけ−−。今回「野洲」という地域を取り上げたのは決して「偶然」ではありません。何故なら、兵主神社の東南約5.5q小篠原という所には阿蘇ピンク石製の刳り抜き石棺を持つ円山古墳と甲山古墳二基が造営されているからです。このうち築造年代が若干古い(6世紀前半〜6世紀半ば)と考えられているのが墳長28m足らずの円山古墳なのですが、ここに納められている石棺の長さは、なんと墳長の10分の一(2.83m)にも達するのです。このアンバランスを管理人は「お下がり品」の使い回しではないかと想像しています。別の記事でも触れましたが、琵琶湖畔に石棺を運び込むためには大阪湾から淀川を遡上しなければなりません。その途上には築造中?の今城塚古墳が在り、大王の陵墓の鼻先を火の国「特産」の、しかも特大のピンク石石棺を「内証」で持ち込むことは百パーセント無理な相談です。そこで、出てくる妄想はこうです。大王たちの古墳築造を受け持つ専門家たちは必要に応じて火の国(の国造)に「注文」を出す訳ですが、数十日に及ぶ航海で大切な「品物」が破損あるいは沈没してしまうリスクを考えなかったはずが無い!であるなら、彼らはどうしたか?何々、答えは簡単です。「予備」の石棺を同時に運ばせたのです。しかし、品物は「一つ」あれば十分ですから、無事に航海を終える度に予備品が「在庫」として残ることになります。だから……、何らかの「資格」を備えた人にも大王の許しを得て、ピンク石の「下げ渡し」が行われたと云う次第。

播磨国風土記・飾磨郡 豊国=豊国と号くる所以は、筑紫の豊国の神、ここに在す。故、豊国の村と号す。継の潮(みなと)=継の港という所以は、昔、この国に一の死せぬる女ありき。その時、筑紫の国火の君等が祖(名を知らず)到来たりて、復生かし、よりて取いき。故、継の港と号く。(本文では紹介しきれなかった資料を載せておきます。『死せる女』を蘇生させ結婚したという伝承は何やら神がかった内容で興味深いものがあります)

兵主大社の楼門翼廊をくぐり右に折れ大鳥居に向かって広い参道を進むと、遥か東南に黒々とした三上山が遠望されます。今、麓に鎮座する天照大神に最も近い位置を与えられた天津彦根命・天御影命を祀る御上神社こそ天目一箇神の名で表される先住の鍛冶師集団の聖地に他なりません。景行の「先代」垂仁帝の許には三上一族の山代国造不遅の娘・綺戸辺(カニハタトベ、倭建命妃・両道入姫の母親)が嫁ぎ、丹波氏の始祖であり日本書紀がほとんど触れようとしない伝説の彦坐王にも同じ山代氏から山代之荏名津姫(又の名、カリハタトベ、品遅部の祖・大俣王の母親)が嫁入りし、三上氏直系と思われる天御影命の娘・息長水依比売命も妃として名を連ねています。そして、上で紹介した古墳の主の先祖だと思われる水穂之真若王(安直の祖)が彦坐王と天御影命の娘の息子であり、丹波道主王の兄弟でもあるのです。狭穂彦命の「反乱」話が気になりますが、西からやってきた新たな技術集団の長・稲背入彦と近江の三上一族は平和裏に棲み分けをしたのだと考えられそうです。また、野洲小篠原が「銅鐸の里」としても知られる土地柄であったことを、稲背入彦は当然熟知していたことでしょう。(播磨国風土記、託賀郡荒田の条には、土地の女神・道主日女命天目一命の神婚譚があり、目出度く子供も産まれたとあることは両氏の間が円満だったことを示唆しているように見えます。上て゜見た白国神社と広峰神社の位置関係を兵主・御上にあてはめて考えると、先に地盤を築いた三上氏が稲背入彦一族を近江に誘ったようにも見えてきます)

おまけの序にもう一つ。「播磨国風土記」(印南郡)によれば、景行帝の皇后・播磨稲日大郎姫(印南の別嬢)の父親は『丸部(ワニベ)臣らの始祖、比古汝茅』で、志賀の高穴穂の宮に御宇天皇(成務帝、景行の息子)の御代に、国の境を定めるために播磨の地に遣わされ、その折に地元の吉備比売に出会い結ばれ、印南の別嬢が産まれたと記されています。時代背景に錯綜が見られるものの、和邇氏の系譜には神功親子のために「戦った」武振熊命の兄弟として「彦汝命」という人物が記載されていますから、吉備と大和の和邇が古くから何らかの繋がりを有していた可能性があります。考古学の分野では、ヤマトの古墳造りに果たした吉備の比重が大きいと言われているようですから、吉備穴国造も和邇氏の一族だったという点などにも留意する必要がありそうです。

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