枚聞(ひらきき)神社と竜宮伝説                                        サイトの歩き方」も参照してください

縁あって、九州・鹿児島のとある小さな町を訪ねることになった。空港から出ている直行バスに乗り込み目的地を目指す。十月も半ば近いというのに偏光処理が施された車窓から差し込む陽の光はとても力強く、青く澄んだ空が高い。宿の人に『近くに由緒或る神社がありますか?』と訪ねると、幾つかあって正月や例祭などの日はとても賑わうのだと言う。その一つに聞きなれないものがあり、祭神を尋ねると『ニニギノミコトだったかなぁ。違っているかも知れない』『お客さんで、神社(じんしゃ)の神様の名前を聞く人はいないから』と、甚だ心もとない。不満げな表情を気にしたのか、出されたお茶を飲んで寛いでいると、十分も経たないうちに件の宿の人がコピーを二枚手にして戻ってきた。祭神はアマテラス一族だと言う。

鹿児島の揖宿郡(いぶすきぐん)にアマテラスを祭る社があること自体なんの不思議もないが、一緒に渡された「由緒書」をよくよく見てみると、正祀されているカミサマはオオヒルメムチであった。開聞町に鎮座する枚聞神社(ひらききじんじゃ)は薩摩の国の一の宮だが、全国にある一の宮でオオヒルメムチを主祭神としてお祀りしている社は、恐らく一社もないだろう。(例の如く記紀はオオヒルメムチは『天照大御神の別名』であるとしていますが、元々、二神は全く性格の異なるカミサマだと思われます。このシリーズで度々ご紹介しているオオクニヌシの別名がオオナムチで、この『ムチ』という称号は、ヌシよりも更に古いカミサマの呼び名かも知れません。更に妄想を逞しくすると、ヤマタノオロチの『』も同源の古語である可能性もあります。下の優美な山景は開聞岳です)

枚聞神社は皇祖神八柱も祀ります  開聞岳を望む

初めに神社の話しを聞いたとき、どうやら「山」自体がご神体であったらしく、そこへ「聞く」という言葉が神社の名前に含まれていたので、てっきり大和の一言主(ひとことぬし)と同系列の託宣神(お告げをする神様)ではないかと思ったのですが、見込み違いでした。この枚聞神社の北には豊玉姫神社、そして南には竜宮神社があり、古事記神話として有名な「海幸彦」「山幸彦」の伝承が色濃い地域だったのです。オノコロシリーズや古事記をよくご存知でない方のために、「神話」に登場するカミサマたちを少し詳しく説明しておきましょう。

  最高のカミサマである天照大御神は、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に国を治めるように命じました

  邇邇芸命の息子・彦火火出見命(火遠理命、ほおりのみこと=山幸彦)は豊玉姫と廻り合い子供に恵まれます

  二人のカミサマの子が鵜茅葦不合命(うがやふきあえずのみこと)で、彼は豊玉姫の妹・玉依姫と結ばれるのです

  そして生まれたのが初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)でした

つまり「高天原」から降りてきたアマテラスの子孫たちが初めて治めた地が鹿児島の揖宿だった、と云う事なのですが…、その判定は読者の皆さんの自由な判断にお任せします。それはさておき、薩摩半島の南端に突き出た所に聳える開聞岳そのものが、海の彼方からやってくる者たちにとって格好の目印であることは間違いありません。(大和のカミサマと豊玉姫、そしてワニ等について、少し詳しく説明したページ[神様はワニに乗って]があるので、興味のある方は寄り道してください)

船を交通の手段とし、海の幸を生活の糧とする人々が大海原の彼方から数え切れないほど、この地を訪れたことでしょう。そして半島には農耕を生産の手段とする人々が古くから住んでいました。そのような場所で「海幸・山幸」の伝承が育まれたことは、極自然なように思われます。竜宮はお伽噺の世界ではなく、現実のもの(海を隔てた異郷という意味で)だったのです。日本が一つの権力によって、それも大和を中心とした勢力によって一つの「国」に収斂されてゆく過程は、記紀神話の中にも当然色濃く反映されたことでしょう。本来、地元の祖霊神であり豊穣の象徴であったはずの「オオヒルメムチ」が天照大御神に重ねあわされ、もともと地域に伝わる素朴な「海幸・山幸」のお話しが記紀神話の中で神武東征の伏線として語られることになったのも決して偶然では無いのです。(大和・奈良は言うまでも無く内陸盆地であり、その地に海幸彦が活躍する海神伝説が当初から伝えられていたとは、とても考え難いと言えます)

古代の中央政権と薩摩揖宿の地の関係を物語る、もう一つの「伝説」があります。それは、あの天智天皇(てんじてんのう、626〜671)に関わる物語です。そして、とても気になる人物の名がここでも登場します。

  開聞岳の麓の岩屋で或る仙人が修行をしていると、或る日、一頭の鹿が現れ

  法水を呑んだ鹿は忽ち懐妊して一人の姫を産んだ。名前を瑞照姫と言った。

  姫は大層麗しく、その美貌の噂は遠く都にまで届き、

  僅か二歳で上京、藤原鎌足に養育され十三歳で宮中に召され

  天智天皇の妃として寵愛を受けたが、他の女御たちに嫉まれ郷里へ舞い戻った。

天智天皇と九州の地が縁深いことは皆さんも良くご存知のことと思います、そして鎌足との縁が最も深いことも…。事実がどうであったにせよ、このお話しは、薩摩の有力者と都で権勢を振るう藤原氏(鎌足)との間に、なんらかの繋がりがあったことを窺わせます。そして天智天皇が、姫の跡を追って薩摩に下向、亡くなるまで住み続けたという「伝説」は、何を意味しているのか?今回の小旅行に因んだお話は謎だらけの幕引きになってしまいました。一つ言えることは、この「伝説」が海幸・山幸とは異なり、極めて新しい、つまり古事記以後に創られたものだと云う点で、藤原氏の威勢は遠く薩摩の地にも詳細に伝えられていた訳です。もっと言えば、例え地方豪族の子女であっても、権力の中枢にあった藤原鎌足の家に預ければ(養子となれば)時の天皇の許へ罷り出る可能性が得られた、という事でしょう。

また、この「伝承」を全く別の角度から推理してみることも出来ます。このシリーズでも何度か資料としてご紹介をしている、中世の歴史書に『扶桑略記』(成立は十二世紀の初め頃)がありますが、その篇者は天智天皇の最期に関して不可解な記事を、態々「一云」として次のように語っています。それは、

  天皇は十二月の或る日、独り馬に乗って山科に遠出をされた

  幾日経ってもお帰りが無く、懸命に探したものの、お履物だけしか見つけることが出来なかった

と謂う内容なのですが、天智天皇のお墓が、その「山科」に造営されていることも事実です。そして、この天皇行方不明事件を書き残した皇円(1073?〜1169)は、肥後出身の僧侶であり、その出自は藤原北家の流れを汲む人物なのです。

                            路傍で見つけた彼岸花  黄色い花は初めて見ました    

るるぶ鹿児島 指宿 霧島 桜島’16 (るるぶ情報版(国内))

いつものオマケで、もう一言、蛇足を付け加えます。揖宿(いぶすき)という地名は、源順(みなもと・したがう)が編んだ『和名類聚抄』(934年頃成立)に「以夫須岐」と表記され、中世以前から「いぶすき」と発音されていたことが分っていますが、物の本によれば古くは「湯豊宿」(ゆほすき)と呼ばれていたようです。そして、何故「宿」が「すき」なのかと考えていた時、唐突に『出雲風土記』の神話が脳裏をよぎりました。それは、出雲の国引き神話で八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)が活躍する場面なのですが、そこには、カミサマが『国こ、国こ』の掛け声と共に国引きをする時、

  童女の胸鋤(むなすき)とらせて

と云う表現(形容動詞?)が度々表われます。古典の解説者たちは、この文言について分り易い「解釈」をしていませんが、その言葉遣いからは、溌剌として生気に溢れる乙女たちが、粗末ではあるものの清潔な布切れで、きりりと襷をかけ、何事か「歌」のようなモノを口ずさみながら田を鋤き返している様子が彷彿とします。つまり土地を「鋤く」(鋤き返して耕す、実り多い地にする)の意味から「すき」に変化したのではないか、と妄想したのですが…。自信はありません。

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