柿本人麻呂と猿丸について                             サイトの歩き方」も参照してください。

難波津を後に瀬戸内を西へ、海岸線を縫うように走っている山陽本線の車窓からも、その姿がよく見えるので日本標準時の基となる子午線上に建つ明石天文科学館を知っている方は多いのではないかと思いますが、その、直ぐ裏手(つまり山側ですね)にある人丸山柿本神社をご存知の方は案外少ないのでは…。同社の「御由緒書」によれば、

  柿本人麿公は、孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の裔にましまして、敏達天皇の御時
  門辺に柿樹在るを以って柿本を以って氏となされました。(中略)
  任地石見の国におかせられても国守となられ石見紙の発明その他殖産興業を興され
  大いに治績をあげられました。天武四年三月九日柿本人丸叙三位兼播磨守と石見風土記にも書かれ(略)
  仁和丁未(皇紀1547年,西暦887年)当社にお祭りなされました。

との事なのですが、人麻呂が石見の国守になったとか、三位の位と播磨の守に任じられたとか云う記述の根拠とされる資料『石見風土記』逸文そのものが、後世の人によって創られた疑いが大変強いものであることは別のページ(『猿か人か、それが問題だ』)でも触れた通りです。(江戸初期の国学者・今井似閑[いまい・じかん,1657〜1723]は由阿の『詞林采葉抄(成立は1366年頃)』からの採択にあたり「今按ずるに此の風土記、大いに不審有り。偽書と疑うべきか」との注釈をわざわざ入れています)また日本書紀によれば、上記の日付けで行われた官僚の叙任事項はありませんし、天武朝の「三位」は、後の大宝律令で決められた冠位のそれとは異なり「諸王の位」を表す言葉ですから、その点からも同風土記とされる文章には大きな?が着くのです。(人丸画像は京都大学の収蔵品)

明石の科学館  人麻呂神社  人麻呂さん

七世紀の後半に生を受け、八世紀初めまで持統朝のもとで宮廷歌人として務め、草壁皇子(662〜689)の舎人としても仕えたのではないかとされる柿本人麻呂は、国守のような高官にまで上り詰めたのかどうかは不明ですが、その作品からは諸国を巡り歩いた事実が浮かび上がります。

  沖つ波 来寄る荒磯を 敷布の 枕とまきて 寝せる君かも   (222)

は、四国の讃岐を訪れた折、たまたま「行き倒れ」になった人の姿を見て歌った一首で、

  大王の 遠の朝廷と あり通う 島門を見れば 神代し思ほゆ   (254)

も遠く、九州の筑紫(大宰府)まで赴いた折に作られたものであることが明らかで、当時、都から西国へ旅する時には、難波から明石海峡を抜け瀬戸内海を進む航路が一般的だったようなのです。そして、都人の意識では「明石の沖」辺りが都の外縁と捉えられていたようですから、逆に、西国から船に乗り、生駒や葛城の山並みを遠望できる明石沖に辿り着いた時、やっと都まで帰ってきたのだという思いを強くもったのではないかと推察されるのです。だから、

  天ざかる 夷の長道ゆ 恋くれば 明石の門より 大和嶋見ゆ   (255)

の一首には、無事に役目を終え恙無く帰り着いた安堵感が満ち溢れている訳です。その人麻呂については万葉集の成立に深く関わったと思われる大伴家持(おおとも・やかもち,718〜785)が越中国で国守を務めていた天平十九年三月三日、畏友大伴池主に当てた書簡の中で、

  幼年いまだ山柿の門に逕らずして、裁歌の趣、詞を叢林に失う

と高く評価し、ほぼ一世紀の後、古今和歌集を編んだ紀貫之(き・つらゆき,866〜945)は、その仮名序において、

  かの御時に正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける

とまで誉めそやしたのですが、時を経るにつれ、「信仰」とでも例えられるほど歌人たちの人麻呂「崇拝」は深まりを見せ、十三世半ばに成立した説話集『十訓抄』は、

  粟田讃岐の守兼房(藤原兼房,1001〜1069)と言う人は、生来、和歌を好んでいたが、
  なかなか「宜き歌」を詠むことが出来なかった。そこで、心に常に「人丸」を念じていたら、
  或る夜の夢に「直衣に薄色の指貫、紅の下の袴を着た」人物が現れ、
  『年頃、人丸を心にかけさせ給へる其の志深によりて、形を見え奉るなり』と語った。
  彼は、夢から覚めて後に絵師を呼び、この有様を語りて描かせた。

と記し、彼は柿本人麻呂の「絵」を「宝」にして毎日「拝んで」いた処、以前より「宜しき歌」を詠めるようになったのだ、と伝えています。この話しには、まだ後日談があります。兼房の「人丸像」は、彼が延久元年に無くなった時、歌好きで知られた白河院に献上され鳥羽の宝蔵に納められたのですが、これを聞きつけた院の別当で修理大夫の藤原顕季(ふじわら・あきすえ,1075〜1123)は、院に度々申し出た結果、

  遂に「書写」することが出来たので、大学頭藤原敦光に讃を作らせ、
  神祇伯藤原顕仲に「清書」させて、
  本尊として始めて「影供」した

のです。これこそ「人麿影供」と呼ばれる儀式?の起源だとされる逸話なのですが、古今和歌集では「詠み人知らず」また今昔物語集では小野篁の作だと伝えられている、

  ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に  嶋がくれゆく 船をしぞ思ふ

の一首を人麻呂の作品として絵に「添える」風習も、此の頃に生まれたもののようです。(ほぼ同じ世代で歌論集『和歌九品』の作者、藤原公任も、上の一首を人麻呂作と考えており、『言葉たへにして余りの心(余情)さへある』ものと最高の評価を下しています)名人であり最高の歌詠みであった「柿本人麻呂」という人物は、没して後、直ぐに「聖(ひじり)」と称えられ、遂には歌人たちの「本尊」にまで祭り上げられた訳ですが、その「正体」は未だ不明のままです。ところで、その人麻呂にも増して正体が知られていない歌人が居ます。三十六歌仙の一人に数えられているにも関わらず、確かに本人が作ったものとされる作品が一首も無い、という摩訶不思議な人物の名は猿丸太夫と言うのですが、貫之の『古今和歌集』は次の歌を彼の作として取り上げています。

  奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の  声聞くときぞ 秋はかなしき

大伴家持  猿丸太夫  本朝皇胤紹運録

また、昭和平成の哲学者・梅原猛は1973年に出版した『水底の歌』の中で、猿丸を人麻呂の別名とする仮説を展開しているのですが、ここに一つ興味深い資料が残されています。オノコロ・シリーズでは、もう「常連」とも云える「群書類従」本『本朝皇胤紹運録』(洞院満季の編、成立は1426年)が、それ。どのような「情報」から編集者が採択したものかは全く分かりませんが、第三十二代用明天皇の子、厩戸皇子の孫・弓削王の注意書きは次のように記されているのです。(上の画像は京都大学が収蔵しているものです。[註]紹運録も「群書類従」本とでは異同があります)

  弓削王、猿丸太夫と号す

この王こそ『上宮聖徳太子伝補欠記』が、

  弓削王が斑鳩寺に在った時、大狛法師に殺された

と伝えている山代大兄王の子供の一人だと思われるのですが…。猿丸(人麻呂?)と太子一族には、本当に「血のつながり」が在ったのでしょうか?謎が謎を呼ぶ、今回のテーマでした。

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