万葉歌人・柿本人麻呂和爾の郷について                                      「サイトの歩き方」も参照してください。

万葉集と聞けば、第一に人麻呂の名前が浮かぶ方は多いのでは?全国には100とも200とも云われるほどの人麻呂神社が建てられ、大和路を歩けば至る処に万葉歌碑が設えられて旅人たちの歌心をくすぐります。「中平」銘で知られる鉄剣が出土した奈良天理の東大寺山古墳の南西およそ250mの所に和邇下神社があって、かつて神宮寺だったと伝えられる柿本寺跡の史跡も境内に残されています。そこに在る人麻呂さんの石像は如何にも出来たばかりと謂った雰囲気が漂い、とても万葉の香は伝わっては来ないのですが、柿本氏は遠祖を辿ると春日氏の一支流であることが分かり、更に、その源泉は古代雄族の和爾氏にまでたどり着く名家なのです。各地各家が伝承する系図によれば柿本氏は、第五代考昭帝の息子・天足彦国押人命を始祖とする和爾氏の七代孫、人華(春日氏)から出た家系であり粟田氏、小野氏更には山上氏などとも同族であるとされています。古代各氏族の系図は大変複雑に交錯していますから、それらを一つ一つ解してゆく作業も困難を極めますが、和爾氏については彦坐王との関係も見逃せません。

和爾下神社  人麻呂像

人麻呂の生涯について、以前にも依羅郎女(よさみおとめ)という女性を一つの手がかりにして推理を巡らせてみたのですが、どうしても彼の実像に焦点を絞りきることが出来ませんでした。依羅氏は開化帝と葛城(国造)氏の鸇姫(わしひめ)との間に産まれた、建豊波豆羅和気王を祖に持つ依羅阿毘古(よさみあびこ)に代表される系譜を伝える古族の一つで、息長氏の出身である神功皇后との結びつきが大変強い一族でもあります(彼女の海外遠征に際して大いに協力し帝室の覚えが目出度かったと伝わる)。従って、四世紀の終わりから五世紀の初め頃に台頭して大王の位に就いた応神帝の軍事、祭祀の両面を支えていた可能性があります。一方、和爾氏は、それよりも早く、遅くとも三世紀初め頃までには倭の一角で既に勢力を蓄え、帝室とも友好的な関係を築き上げていたのではないかと考えられます。(和爾氏の首長のものであろうと考えられている東大寺山古墳[四世紀の築造]から出た鉄剣の銘にある「中平」は、後漢で184年~189年に使われていた年号なので、これより少し後に和爾氏は倭に入ったのではないかとも推測されます)下に系譜の一部を示しましたが、和爾氏と天津彦根命系の三上氏の娘たちが大王や王子と結ばれることで極めて濃密な閨閥を構成しており、取り分け彦坐王の周辺に「息長」の名称を冠した人物が居ることに筆者は注目しています。ただ、彼の直系は丹波道主命の流れ(丹波氏)であり、倭地方に本拠を置いた豪族とは考えられないので、和爾氏との濃い交流の要因を測りかねているところです。また、依羅氏に関しては「新撰姓氏録」が①ニギハヤヒの子孫、②渡来系の子孫という伝承も記録していますので支族が幾つか在った可能性があります。(註=阿毘古は人の名前ではなく古代豪族の[姓]です。つまり臣(おみ)とか連(むらじ)と同じです)

 開化帝と豪族たち=開化と姥津姫の系譜 彦坐王(妻は袁祁都媛)--山代之大筒木真若王--迦邇米雷王--息長宿禰王--息長帯比売命(神功皇后)--応神帝
         彦坐王と息長水依媛の系譜 彦坐王--丹波道主王--日葉酢媛命(垂仁帝の後の皇后)--五十瓊敷入彦命(石上神宮に剣一千口を納めた)、景行帝
         開化と葛城鸇媛の系譜    建豊波豆羅和気王----依羅阿毘古…………依羅郎女?      (葛城氏は剣根命を祖とする天孫族の一員です)

依羅郎女が夫である人麻呂の死去に際して詠んだとされる和歌が残されており、同様に哀悼の意を歌に託した「真人」姓の貴族が居たことも分かっています。

  荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我れここにありと 誰れか告げなむ          丹比真人[名闕]擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首

それが上に掲げた一首(万葉集、二百二十六番)なのですが、題詞にある詠み人の項目には「名前」を闕したとあります。天武帝が西暦684年に定めた「八色の姓」の最高位が「真人(まひと)」であり、宣化帝の子孫である丹比氏も十三氏の一つとして名を連ねています。かつて「黄金のトライアングル」では、この丹比氏と和歌で著名な大伴氏そして人麻呂夫人の生家と思われる依羅氏の関係を重視した推理を披露してきました。詳細はリンク先の頁で見て頂くとして、その論拠となったのは、

  ① 人麻呂の死を悼む和歌をのこした丹比氏と、武人でもあった大伴氏、旅人親子との親しい関係。
     多治比(丹比)嶋の長男である池守(?~730)は和銅八年(715)から三年間太宰帥(長官)を務め、その後を襲ったのが大伴旅人(665~731)だと見られています。
     その旅人の下で太宰大弐(副官)を務め、離任時に旅人から『友を送る歌』を送られた人物が多治比縣守(668~737)でした。
  ② 多治比、大伴の両家は家族ぐるみで親交を深めていたと思われ、大伴家持(718?~785)を産んだ女性(丹比郎女)は、嶋の娘ではないかと考えられています。
  ③ 多治比氏の本拠地は河内国丹比郡であったと思われますが、同郡には「依羅郷」があり、隣接する住吉郡にも大(依)羅郷が存在しており、柿本人麻呂の妻となった
     依羅郎女の生家が多治比氏の治めた地域内にあった可能性は十分考えられます。(依羅池も同じ地域内にあり、近くには安孫子の名を持つ村落がありました)

宣化帝は云うまでも無く継体帝と尾張目子媛との間に産まれた皇子の一人で、父の継体が大王の位に就くことを強力に支援したのが旅人の祖先である大伴金村だったのです。また、宣化自身も大河内(凡河内)氏の娘を妃として迎え火焔皇子(偉名君の祖)を儲けるなど、河内国内で影響力のあった天孫族との結びつきを強める一方、大伴氏とも数世代前に遡る両家の歴史的な「同盟」関係を温め続けていたのだと推測されます。朝廷から全幅の信頼を寄せられ、あの藤原不比等が未だ大納言に過ぎなかった時期に左大臣の地位を占めていた多治比真人嶋(624~701)が若し、人麻呂の後ろ盾を務めていたのなら彼が「宮廷歌人」として活躍することが出来た背景を無理なく説明できます。また、旅人の息子で歌の途を極めた家持が『幼年山柿の門に逕らず、裁歌の趣、詞を叢林に失ふ』と述べたとされる言葉の裏には、父から常々聞かされていた人麻呂たちへの憧憬と畏敬が横たわっていたように思えてなりません。(下左画像は東大寺山古墳から出土した太刀の環頭です。左の家形装飾は特に珍しいものです)

環頭部分  中央が依羅池  人麻呂  旅人

太刀   PR

案内板    あしびきの  歌碑

八世紀初頭と言えば、我が国の初めての史書「日本紀」そして「古事記」の編纂が進められていた時期に当り、国として情報の収集と分析に最大限の労力が注ぎ込まれていたと考えられるにも拘らず、何故、人麻呂に関する消息記事の一行も書きとどめられる事が無かったのか?丹比真人が名前を残すことを避けたように、何者かに憚らねばならない切迫した実情があったと考えるべきなのかも知れません、それはさておき。依羅氏については、全く別な推理も出来そうです。それが、上で示した「姓氏録」にある『依羅連、ニギハヤヒの十二世孫、懐大連の後なり』という内容の記述です。物部氏の系譜を参照すると、確かに雄略朝の人とされる「布都久留(懐)」と名乗った大連が居り、彼が依羅連柴垣の娘・太姫を娶って産まれた「物部多波連」が依羅連等の祖であると記されています。つまり依羅連は系譜上では物部連の同族だと云うことです。この主張は、開化と葛城氏の娘の「子孫」であるという伝承とも矛盾しません。何故なら、開化に嫁いだ鸇姫の家系は、

  伊久魂命--天押立命(天津彦根命)--陶津耳命(少彦名命)--玉依彦命--剣根命--夜麻都俜命--久多毘命--加豆良支根命--垂水宿禰--鸇姫

の系譜を持つ、明らかに天孫族の一員だからです。葛城と人麻呂を結びつける物は他にもあります。それが近鉄新庄駅ちかくに建つ柿本神社で、その一帯の地名は葛城市柿本であり「石見田」の字も残っています。西暦770年に人麻呂を「改葬」し、その時に社を建立したという伝承があるのですが、建豊波豆羅和気王の母親が葛城氏の出身であったのだとすれば、依羅郎女の生家が葛城にあったという話自体が信憑性を欠くものだと一蹴する事は出来ないでしょう。また、開化を遠祖とする系譜に何らかの作為があったとしても鸇姫の父親・垂水宿禰と書紀が記した「依羅吾彦男垂見」という神主の名前が酷似している点は注目されます(日本書紀は開化妃として鸇姫の名前を上げていません。従って、建豊波豆羅和気王が産まれたという記述も無いのです。ただ、葛城(国造)氏が天孫の血を受け継いだ古い家系である事に変わりはなく、丹比氏としても帝室から分岐した家系として親近感が持てる相手であったと想像できます)なお「依羅」宿禰を彦坐王の後裔とする記事が姓氏録にはあり「我孫(あびこ)」氏についても『大己貴命の孫、天八現津彦命の後なり』(摂津国神別)とする伝承を持つ豪族も存在しています。

話を和邇下神社に戻しましょう。この社の祭神は誰だと思いますか?当然、和爾氏の祖先神のはずだと考えるでしょうが、現在そうではありません。この神社は「正面」に位置していると見える大きな鳥居を潜り抜けて参道を登ると、九十度左に曲がり、更に進むと再び九十度右折して拝殿前の階段に通じるという手の込んだ配置となっています。元々が古墳だったので、このような建て方を余儀なくされたのかも知れませんが、左右に折れる直角の路は穏やかな雰囲気を生むものではありません。さて肝心の神様ですが、社の案内によれば「大己貴命、素戔嗚、櫛稲田姫命」の三柱で、これは明らかに出雲神話の主人公たちに他なりません。「新撰姓氏録」は確かに『和仁古、大国主命六世孫、阿田賀田須命の後なり』(大和の国神別)と伝えていますから、和爾氏の遠祖は「大己貴命(オオナムチ)」であり、出雲神族とも同族関係に在るという伝承が、明治に入って祭神を代えた背景にあったのかも分かりません。成るほど氏族を大別して「海人」という範疇でくくれないこともありませんが、ワニの本拠地でありながら神功親子の大和入りで重要な役割を果たし、春日・柿本・粟田・布留など各氏の祖となった難波根子武振熊命を何故、主祭神としてお祀りしないのか理解に苦しみます。祭祀の原点が「子孫による祖霊への畏怖の念」の表明にあるのだとすると、本来、そこで祀られるべき神々はどのような思いで、かつて自らの棲家であった社の様子を見下ろしているのでしょう。

山城国風土記(逸文)は「賀茂社」について、次のように記述しています。(括弧内は筆者が加えた解説文で、風土記の本文ではありません。)

  山城の国の風土記に曰く、加茂の社。加茂と云うは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命(鴨積命とも謂う)、神倭石余比古の御前に立ちまして、
  (八咫烏となって天皇を先導した)、大倭の葛木山の峯に宿りまし、そこより漸くに遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまい(以下略)

葛城の山並(鴨山?)  高鴨神社

始祖の賀茂建角身命が天降った山が葛木(葛城)で、そこから山城国へ移ったという訳ですが、その葛城に鎮座している高鴨神社の主祭神は味鉏高彦根命(加茂大神)ですから、同じ「カモ」でも事代主命系の神々の本拠地だったはずです。その葛城山を古代大和では支配者の崇める祖神に因み「鴨山」と呼んでいたようです。また、帝室との関わりで見れば、鴨氏族と同等の影響力を持った豪族が武内宿禰を先祖とする葛城氏でした(註・葛城国造家とは別)。国内外で活躍したとされる襲津彦の娘・磐之媛は仁徳帝の皇后となって允恭帝等を儲け、大王家の最も近しい身内として重きをなすに至りますが、その允恭の諱「おあさつまわくごのすくね」に含まれる「あさづま」は、彼の母親が住んでいたであろう、高鴨神社と葛木御歳神社の中間にある「朝妻」地区から付けられた名前ではないかと思われるのです(高鴨の社から北にほぼ1㎞)。

  今朝行きて 明日には来なむと云しがに 朝妻山に 霞たなびく      子らが名に 懸けのよろしき 朝妻の片山崖に 霞たなびく

この二首は「柿本人麻呂歌集」に収められた作品ですが、磐之媛が仁徳に贈ったと思われる、

  かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の磐根しまきて 死なましものを     如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物     (万葉集 86番)

の一首は、余り取り上げられることがありません。人麻呂が「臨死時自傷作」(死に臨み自傷して作った)とされる、

  鴨山の岩根しまける 我れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ      鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有      (万葉集 223番)

に見える「鴨山」は、石見国に在った山だったのか?それとも……、色々な想像を巡らせてみる価値はありそうです。

 TOP  トップページへもどる   
     
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼