ヒトか、それが問題だ 柿本人麻呂異聞                            サイトの歩き方」も参照してください

おぼろげな記憶だけを頼りに府道を進むうち、左手角に見覚えのある消防署の建物が見つかり交差点を右に入ると、急な下り坂が現れる。此処までくれば、もう間違いは無い。坂を一気に降りきって、公園のように整備された一角を通り過ぎて左に、そしてもう一度左に折れると、登りの坂が待っている。約束の時刻まで、あと15分、車を道端に止め、タバコに火をつけた。左右に果樹を植えフェンスで囲まれた畑が幾つも整然と並び、一本の柿の木に熟しきった幾つかの赤い実が侘しげに取り残されている。だらだら坂の正面は突き当たり、今風の高層建築を従えた、さして広くは無いが今すぐにでも特設の野外劇場として使えそうな竹の林が、目隠し役を仰せ付けられた屏風のように広がり佇んでいる。10メートルは、ゆうにあろうかという、その竹林を引き連れて、今にも空の彼方へ飛び立つ勢いで背高のっぽの常緑樹が自慢げな顔を覗かせ、鉛色の低く垂れ込めた雲の塊を掴み取る勢いで、三本の細い枝先を思い切り伸ばし切っている。竹林の一群が細身の体を、気だるそうに左右に捩じらせ風の鼓動を樹木の太く逞しい幹に伝えた時、一羽の鳥が揺れる枝先の一本を選んで羽を休めた。−−かつて、紀貫之(き・つらゆき、872?〜945?)に「歌の(うたのひじり)」とまで賞賛された男が、この日本に住んでいた。

「古今和歌集」の仮名序より 人麻呂の歌碑  『三十六歌仙』より

縄文弥生の時代ならまだしも、あおによし奈良の都のご時世に、宮廷の中枢にあった多くの人々の極めて近い立場にあった人物の記録が公式文書(「日本書紀」「続日本紀」)の中で一言も触れられていない、と聞いても直にはぴんと来ないかも知れませんが、それでは「万葉集」に収録されている和歌のうち凡そ百首(「柿本人麻呂歌集」分は除く)もの作品を作ったとされる人物の、文書による記録が一切ないとしたら、皆さんは、どのように感じますか?きっと『そんなはずは無い。どこかに、必ず記録されている』と思われるのではないでしょうか!名門・紀家の跡取りとして貞観十四年?(872)、紀望行の子として生まれた貫之は、若い頃から持ち前の「歌」の才を発揮、延喜五年(905)に「古今和歌集」の実質的な撰者に選ばれました。その巻頭序文とでも云うべき「仮名序」で、彼は次のように述べています。

  古より、かく伝わるうちにも、奈良の御時よりぞ、広まりにける

  彼のおほむ世や、歌の心をしろしめしたりけむ。

  彼の、大き三つの位かきのもとの人まろなむ、歌の聖(ひじり)なりける。

  これは君も人も、身を合わせたりと云うなるべし。

  秋の夕べ、龍田川に流るる紅葉をば、帝のおほむ目に、錦と見たまひ

  春の朝、吉野の山の桜は、人まろが心には、雲かとのみなむ覚えける。

  また、山のべの赤人という人ありけり。歌にあやしく、たへなりけり。

  人まろは、赤人が上にたたむこと難く

  赤人は、人まろが下にたたむこと難くなむありける。

「古文」の授業を思い出しましたか!…、殊更に説明を加えるまでもないとは思いますが、貫之が言いたかった「歌」への思い入れを、管理人なりに代弁しておきましょう(多分に意訳してあります…)。「神話の時代から歌が連綿と伝えられてきたが」「富に盛んになったのは奈良の御世(万葉集の時代)であり、この頃から歌の心というものが広く知られるようになった。そして当時の帝も歌の心をよく理解なされていた」中でも「あの、正三位、柿本人麻呂という人物は、正に歌の聖とでも云うべき存在」であり「この人は、時の帝とも表裏一体の心境で歌を歌うことが可能な、稀有な存在であった」また「山辺赤人という人も、実に巧みに、そして完璧な歌を詠むことが出来た」この二人の先達こそ、歌詠みにとって最も手本とすべき人物なのである、と。『なんだ、公文書ではないけれども、最初の勅撰和歌集の編集責任者が、ちゃんと正三位と書いているのなら、何も問題はないでしょう』と言いたい気持ちは分るのですが、事は、そう簡単に運ばないのです。

謎を呼ぶ「おおき三つの位」が意味するものとは

柿本神社(橿原市)    PR

まず「正三位」(しょうさんみ)という位についてですが、このシリーズでいつも「比較役」として登場願っている水戸のご隠居・黄門様(従三位)を例に挙げるまでもなく、これは相当の高官を意味します。例えば人麻呂が最も活躍していたと思われる八世紀初頭の朝廷人事を、同じ官位(若しくは近い官位)の人物に特定した記述だけ「続日本紀」から引用してみると、

  大宝元年(701)三月  藤原朝臣不比等石上朝臣麻呂に正三位を授ける

  大宝二年     正月  従三位の大伴宿禰安麻呂を式部長官に任じる。  八月 正三位石上朝臣麻呂を太宰帥に任じた。

  慶雲二年(705)七月  大納言・正三位の朝臣麻呂が薨じた。  八月 遣唐使の粟田朝臣真人に従三位を授けた。

  和銅元年(708)正月  高向朝臣麻呂に従三位を授けた。

など数えるほどしかありません。と云うより現職で(つまり死後、位階を追贈された場合を除き)三位まで昇り得る人は極々限られた超名門の子弟であり、それは、この時代にあっては不比等を頂点とする「藤原氏」一門出身者に象徴される訳ですし、当然、そのように「出世」を遂げる人物の昇格・叙任人事は公文書である「続日本紀」などに必ず記録として留められるものなのです。しかし、今、見てきたように、柿本人麻呂が「三位」の位を授けられたという記事は勿論、そのような人物についての記録は、唯の一行も続紀の中に見つけ出すことが出来ません。紀貫之は帝の命を受けて編集に当った歌集の冒頭で「虚偽」を述べたのでしょうか?それとも彼の手元には、人麻呂の叙任に関する確実な資料があったのでしょうか?貫之は「古今」の編集当時、蔵人所(くろうどどころ)という独立した役所に属する御書所(ごしょどころ)の副官(御書所預)のような立場の役人をしていましたから、彼が御所内に保管されていた、そして我々が未だ知らないだけの「記録文書」を見ていた可能性も完全には捨てきれないのですが…。

石見風土記に書かれたとされる「履歴」の信憑性

「歌の聖」こと柿本朝臣人麻呂(生没年不詳、650年頃に誕生か?)の出自に関しては、過去、実に多くの事が語られてきましたが、その中の一つに「孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命を祖先とする和邇氏の一族」だとする「説」があり、WEBなどでも、これを既定の事実として紹介しているページが散見されます。また、或る神社の由緒書などでは『天武四年三月九日柿本人丸、叙三位兼播磨守と石見風土記にも書かれ』などと、非常に具体的な叙任期日まで紹介されているのですが、さて「石見風土記」(逸文)とは一体どのようなものか、と云うと。

  石見の国の風土記に曰く。天武三年八月、人丸、石見の守に任ぜられ、

  同九月三日、左京大夫正四位上行に任ぜられ、次の年三月九日、正三位兼播磨の守に任ぜらる。

  ここに、持統の御宇、四国に配流せられ、文武の御宇、東海の畔に左遷せらる。

  子息の躬都良隠岐の嶋に流され、謫所に死去にき。云々。

と、まあ、こんな具合なのですが。まず、八世紀初頭から半ばに出来た諸国の風土記が、ほぼ同世代の天皇とも云える「持統」「文武」の二人を漢風の呼び捨て扱いするとは考えられません。例えば、お馴染みの「出雲風土記」を例に挙げれば、天武天皇のことは「飛鳥の清御原の宮に御宇しめしし天皇」と記し、欽明天皇は「志紀嶋の宮に御宇しめしし天皇」と表記されていますし「常陸国風土記」も孝徳天皇を「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇」と表現しています。また、専門家の研究によれば七世紀末頃(天武天皇の頃)の宮廷組織には「左京大夫」(左京職)そのものが存在していないことが明らかになっていますから、この文章が、古代の風土記掲載の記事だとは到底認められないのです。(更に、人麻呂の「子息」として上げられている「躬都良」(みつら)は凡河内恒(つね)と紀之(つらゆき)二人の名前から一字ずつを取って創り上げた語呂合わせだと考えられています。この造語からみて「石見国」風土記は鎌倉時代以降に意図的に「創られた」ものだと推測されます)とは言っても古代に「柿本」氏が存在していなかった、と云うわけでは決してありません。それは天武十年十二月に「柿本臣猿(かきもと・おみ・さる)」という人物が「小錦下」の位を授かり、三年後の天武十三年十一月には中臣連他、五十余りの氏族と共に柿本朝臣」の「姓(かばね)」を下賜された、という書紀の記述で確認できます。

柿本氏の先祖=「日本書紀」は考昭天皇の皇子、天足彦国押命が和珥臣等の始祖と簡潔に記していますが、「古事記」では「天押帯日子命」(あめおしたらしひこのみこと)が春日臣、大宅臣、小野臣、粟田臣などと共に「柿本臣」の祖であると詳述しています。また「姓氏禄」には、柿本朝臣を大春日朝臣と同祖とし「敏達天皇」の御世に「家の門に柿の木」があったことから柿本氏を名乗ることになった、とあります。

それでは何故「石見風土記」云々などという怪しげな文書が後世出回ったのか?その答えに繋がると思われる事柄が「万葉集」に収められた幾つかの作品に、垣間見ることが出来ます。

  鴨山の 岩根しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ

これが、所謂『鴨山五首』として知られる人麻呂終焉に関わる短歌の最初の作品であり、万葉集は『柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る一首』の詞書を副えているのです。そして『柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻、依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首』が、これに続きます。

  今日今日と 我が待つ君は 石川の 貝に交じりて ありといはずもや

  直に逢はば 逢ひかつましじ 石川に 雲立ちわたれ 見つつ思はむ

この三首を並べ、素直に読めば、夫は目前に迫った自分の「死」を冷静に歌人として捉えながらも『まさか、妻も、私が冷たい岩を枕にして最期を遂げるとは思いもよらないだろう』だから『今の今でさえ、私の帰りを心待ちにしているだろう』と辞世を残したのに対し、夫の不慮の死を誰かに教えてもらった(かも知れない)妻が『今日は帰るだろう、今日こそ帰ってくるだろうと待ち焦がれている貴方は、なんと、石川の貝に交じって(死んで)しまったとでもいうのでしょうか』『(貴方が、もう亡くなられたと聞いても)今直には会うことも叶わないだろう。せめて、この思いだけでも、石川に立ち渡る雲が貴方の許に届けてくれれば良いのに』と嘆き悲しんでいる風景が浮かんできます。(妻の一番目の歌については「貝」の文字を「谷」とする本があります。また「川」に「貝」という取り合わせが管理人には場違いな取り合わせのように感じられます。「貝」なら「海」が相応しいと…。)

人麻呂の「」を悼む歌を捧げた、唯一の人は丹比氏

不思議なことに、持統三年(689)草壁皇子(持統天皇の皇子、軽皇子の父)の挽歌に始まり、翌四年の吉野行幸や六年三月の行幸に関する歌を多数残し、同年冬に行われた軽皇子(後の文武天皇)の安騎野行きにも御付きとして従い、十年七月には高市皇子(天武天皇の皇子)の死去にあたって「渾身の傑作」と後世評価される挽歌を捧げた奈良朝最高の宮廷歌人の「死」に対し「妻」以外、誰一人として哀悼の意を表し、歌を捧げた人はいませんでした。そのような状況の中にあって『柿本朝臣人麻呂が心に擬して、報ふる歌』を寄せた人物が、一人だけいたのです。ただ万葉集は、その人の姓を「丹比真人」(名欠けたり)とのみ記し、名前を記録していません。

  荒波に 寄りくる玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ

この歌が謂わんとしている内容は「玉」という言葉・文字をどのように解釈するのかで変ってくる部分もありますが、詞書も考慮すれば「(人麻呂は)私が、荒波の打ち寄せる海の中(海岸)で、冷たい玉(石)を枕に横たわっていることを、誰か(私の家族に)伝えてくれているのだろうか、いや、誰も伝えて呉れはしまい(と思っているだろう)」といった大意でしょう。この歌の作者名を万葉集は『名欠けたり』として公表していませんが、奈良朝で「丹比(たじひ)」しかも位が「真人(まひと)=八色の姓の最高位」である人物は極めて限定されます。つまり数人しか「該当者」が存在しないにもかかわらず、言葉を変えれば、当時の宮廷関係者であれば直にでも作者の「名」が明らかになるにも関わらず、万葉集の編集者は、その「名」を敢えて公表しようとしなかった訳です。それには理由がなければなりません。

さて、話が少々込み入ってきましたので、ここで今まで見てきた(確認された)事実だけを整理してみましょう。

  1 奈良朝に仕えた柿本朝臣人麻呂という人が沢山の「歌」を「万葉集」に残した

  2 「1」の実績があるにも関わらず人麻呂について正史は何も伝えていない

  3 人麻呂の時代から約二世紀後になって勅撰和歌集の編集責任者が彼を「正三位」と紹介した

  4 人麻呂の「死」にあたり「丹比真人」何某という人だけが追悼の「歌」を詠んだ(或いは、詠むことを許された)

  5 人麻呂は自らの「死」に臨んで「自らの死を傷む」「歌」を残し、妻も「挽歌」を捧げた

先ず「1」と「2」の事実が、それぞれ相反する不合理なものであるのか、という点についてですが「万葉集」に自作の「歌」が掲載されたから(作品が収録されたから)、その人物の履歴などが「必ず正史(日本書紀、続日本紀)に記載される」訳ではありませんから、この二つは矛盾していません。ですから、当然「4」「5」の事実とも何ら食い違いは無いと云えるのです。つまり問題は「古今和歌集」で紀貫之が仮名序で述べた「正三位」という一言に尽きることになります。繰り返しになりますが、そのような高い「位」を授与された人物については「必ず」正史が記録していなければならないからです。従って、この相反する二つの事実を無理なく解釈する方法は一つしかありません。それは、

  万葉の歌人として活躍していた頃の人麻呂は、唯の人、つまり無位無官の人に過ぎなかったが

  後、万葉集が編集され、人麻呂の「歌」に高い評価が与えられるようになったため

  紀貫之が「古今和歌集」を編集し終わるまでの間に「正三位」が追贈された

と考えることなのですが、それでも「どうして、追贈の記事が残されていないのか?」と云う疑問が未だ残ります。それについても一つの或る「考え」があります。しかし、余り説得力のある「説」だとは云えません。だから、冒頭の部分と同様に下は「小説」の世界でのお話になります。その前に些細なことですが、一つだけ気になっている事があるので、付け加えておきます。上で紹介をした「人麻呂辞世」の一首は、詞書によれば彼が「石見の国」に在って、なお「死に臨んで」「自らを傷み」歌ったものだとされ、管理人の解釈も、その筋書きに沿って大意を述べてみましたが、この歌には理屈に合わない=合理的ではない部分が含まれています。恐らく、このページを読んで下さっている皆さんの脳裏にも、同じような素朴な「疑問」が浮かんだはずです。それは、彼が「死に臨んで」つまり「死を目前にして」歌を詠んだのであれば、自分の「死」それも「間近に迫りくる死」を、事前に「妻」に伝えることが出来たはずだ、という当たり前すぎる推測です。例えば人が病気や不慮の事故などにより、もう自分の命が永くは無い、と知ったなら、必ず、その「思い」を自己にとって大切な人に伝えようとするでしょう。だから、人麻呂の所謂、自傷歌が詞書の通り「死に臨んで」歌われたものであるのなら「不知等妹之 待乍将有(知らにと妹が 待ちつつあるらむ)」の下の句には作為があったと言うほかありません。

柿本人麻呂の「妻」は、本当に石見の人なのか?

『住吉物語』 河内「石川」

そのような目で見てゆけば首を傾げたくなる部分が「妻」の歌にも窺えます。それは彼女が元々石見地方出身の人であり、人麻呂が「石見」に赴いた時知り合った人物であったのなら(つまり石見に住んでいる人なら)、どうして夫が「石見の国」で「死に臨んでいる」重大な事実を知ることが出来なかったのか?また、彼女の「歌」に出てくる「石川」という言葉が固有名詞であったのなら、それは「石見」を流れる川でなければなりませんが、二首に歌われている「石川」は明らかに、別の二つの「川」であると思えるのです。何故そう云えるのか?初めの一首にある「石川」は彼女の目の前にある川ではなく、どこか遠くにある「川」であるからこそ、彼女は「石川という名の川」という意味で歌に詠み込んでいますが、二つ目の「石川」は、そうではありません。「石川尓 雲立渡礼 見乍将思(石川に 雲立ち渡れ 見つつ思はん)」と娘子が歌った時、その「川」は彼女の眼前を流れていなければならないのです。であれば「妻」である娘子の二首にも又、作為があったと考えざるを得ないことになるでしょう。なお、ここで管理人が「作為」と呼んでいるものは「嘘(うそ)」をついた、と言っているのではなく、歌の世界の一つである「虚構」(物語としての歌)も十分考慮しなければならない、と云うことです。天才歌人であれば「自らの死」も、歌の「主題」として取り上げたかも知れないと…。

丹比真人について=天平勝宝九年(757)橘奈良麻呂の乱が起こり、連座する者は実に443名にも及んだのですが、この謀反に加担した人物として多治比犢養、同鷹主同礼麻呂、同国人、同広足の名前があがっています。そして、この五人は全て多治比(丹治比)真人の子と孫たちに擬せられています。この事から、人麻呂に関する歌を寄せた人物があるいは、その子の池守県守等であった場合、敢えて名を伏せた可能性は十分にあります。(但し、嶋は701年に没している)尚、この乱に関与した者を糾問する責任者に選ばれた人が、当時、出雲守の任にあり東大寺建立の際にも大活躍した百済王敬福でした。そして、記憶力の良い読者の方は見つかった黄金を寿ぐ「歌」を誰が捧げたのかも覚えておられるはずです。

柿本人麻呂さんの「妻」については諸説があり、上の歌を詠んだ「依羅娘子(よさみのをとめ)」は「石見」の人である、とする考え方が定着しているようですが、彼女の苗字だけに拘れば、別様の見方もできます。それは「続日本紀」が天平勝宝二年(750)八月十六日の記事として残した次のような文言です。

  摂津国住吉郡の住人で外従五位下の依羅我孫子(よさみのあびこ)忍麻呂ら五人に依羅宿禰の氏姓を賜り

  神奴意支奈(かむやっこのおきな)・祝長月(はふりのながつき)ら五十三人には依羅物忌の氏姓を賜った。

大阪・住吉区の庭井という処には今でも「大依羅神社」(上右の画像、おおよさみじんじゃ)があり、その祭神・建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)は孝元天皇を遠祖とするとされ、子孫である依羅吾彦(我孫子、あびこ)男垂見は第十四代・仲哀天皇の妻、神功皇后の征討軍に加わったと日本書紀は伝えています。また「古事記」も建豊波豆羅和気王が依羅阿比古(よさみ・あびこ)の祖であると明記しています。さらに姓氏録は「依羅連(よさみ・むらじ)」が@饒速日命(にぎはやひのみこと)の十二世の孫・懐大連(ふつくる・おおむらじ)の子孫A百済人の素禰志夜麻美乃君(そねしやまみ・きみ)が祖先−−と異なる系譜を伝えていますから、相当、古い時期から近畿地方南部に勢力を持っていた氏族であったことが分ります。若し、件の「依羅娘子」が、これら古い氏族(藤原氏などと比べて)に縁のある女性であったのなら、彼女の歌った「石川」も、大変、具体性を帯びた名前になります。それは古代から河内・摂津の各地を結ぶ水運の大動脈とも言える河川で、あの蘇我氏一族の実力者「石川麻呂」が己の名前に用いた著名な「川」を意味しているのです。そして「石川」が近畿河内の流れであれば、彼女が「石見」で「死に臨む」夫の重大事を知ることが無かった理由が明らかになると同時に、河内国丹比郡を本拠地としていた多治比氏(丹比真人)が「人麻呂が心に擬して」(人麻呂の気持ちになって)意味深長な「歌」を寄せた事情も見えてくるのではないでしょうか?つまり宣化帝の後裔、丹比真人・一族は「古い氏族」仲間としての依羅氏とは地縁的にも、また、心情的にも近しい関係にあり、その「娘子」の「夫」である柿本人麻呂の不慮の死を悼む歌を残したのですが、たまたま、万葉集が編集されようとしていた時期に一族五人が「重大な犯罪」に関わったとされたため、実名で「歌」を公開することを控えたのだ、という推理です。
人麻呂には『青みづら 依網(依羅)の原に 人も逢わぬかも 石走る淡海県の 物語せむ』という一首がありますが、古代、丹比郡と住吉郡は隣接する位置関係にあり『依羅郷』そのものが丹比郡の一部だった、と聞けば上の推測も頷いてもらえるのではないでしょうか。管理人の妄想では、人麻呂と娘子の間を取り持った人こそ丹比真人だと云う事になるのですが…。

依羅(よさみ)」娘子が詠んだ相聞歌  『鴨山五首』の新解釈

「よさみ」(依網、依羅)は、少し読みの珍しい言葉の部類に入ると思いますが、もともとは「寄せる波」あるいは「寄せる網」が転じて出来上がった古語だと考えられ、辞典などでは『海に流れ込む河口』『海の波と川の流れが合流する場所』ないしは『海の波と川の流れが合わさったもの』を意味していると解説しています。「よさみ」の原義が、そのようなものであったとしても、記紀は明らかに固有の名前として記載していますから、大和川が大阪湾に流れ込む辺りの土地が「よさみ」の地として古代から発展していたものと考えられます。そして、依羅我孫子(よさみ・あびこ)が「祭(いわい)の神主」であったことが書紀と続日本紀の記述から確認することが出来ますので、依羅氏は律令制度が整えられて朝廷の祭祀が一部の有力豪族たちによって独占されるまで、諸々の古い神々をお祭することで帝近くに仕えていた氏族の代表と見なすことが出来るでしょう。「宮廷歌人」の人麻呂と、神官の縁者・娘子が、宮廷内で行われる何かの行事等で巡り会う可能性は、とても高かったと云えます。(蛇足になりますが、南河内の一級河川「石川」は、依羅娘子と丹比真人の古里のあたりで、大和川に合流します)

このように「よさみ」を古代天皇の側近、それも神々に仕え、神を祀る側の人々、そして「依羅」(我孫子、吾彦)が若し「依羅娘子」の関係者、と云うより近しい縁者であったとするなら、先に見た『鴨山五首』にある「娘子」の歌の解釈も大きく変わることになってきます。何故なら、彼女の歌が、云うところの「人麻呂辞世の歌」に続けて置かれていることから、読者の全てが当然のことのように受け止めている『前提』が異なってくるからです。それは『万葉集の編者が人麻呂の「辞世」の歌に続けて依羅娘子の歌を並べて記載したのは、「詞書」も含め、娘子が人麻呂の「死」を悼んで詠んだ歌であるから』だとするのが「常識」でしたが、彼女が「石見」ではなく「河内」の人であり、しかも神々の祭祀に深く関係する古い氏族の縁者であり、帝の遠い縁戚に当たる丹比真人達とも交流があった女性である、という想像が許されるのなら、先の二首は「挽歌」ではなく「相聞歌」に違いありません。また、歌の文言も、娘子の人麻呂を恋い慕う内容だとするほうが、明らかに分りやすく思えてきます…。であれば、万葉集の編者は、意図的に「五首」を編集したことになるでしょう。(「貝」という「川」には馴染まない用語も、女性を指す隠喩だと考えれば、歌の趣旨が顕になります)

小説「古今和歌集」仮名序が誕生した日

紀貫之『三十六歌仙』より(京都大学収蔵) 明石の柿本神社

庭とも呼べないほどの広さではあるが、南に面した縁を取り囲むように花木を植えられるだけの場所が残してあるのが、せめてもの風雅というものか。夕間暮れ、役所から戻った男は、いつものように縁に腰をかけ、夕餉の支度が整うまで、見るとも無く天空を自在に動き刻々と姿を変え続ける雲の群れ、遠く近く鳴き交わしながら家路を急ぐ鳥たちの影を見つめ、時には何やら草花に独り言のような声をかけてみたりしている。門を入った直ぐ脇に、一本の柿の木を植えたのは、父だったと聞かされた。

  「あんな男でも、死ぬときは死ぬのだ。人の命なぞ、そのようなものだ」

誰かに聞かれてはいけない事のように男が小声で呟き、柿の木の枝に一つだけ取り残され赤茶け、半ば朽ちかけた実を見つめているうちに、あの日の記憶がありありと彼の脳裏に甦り、男の瞳が再び焦点を失ったように見えた。

役所に出向くと、どうしたことか、彼より早く上司の別当が出仕している。顔を見るなり上座から『待ちかねた』と手招きする癖はいつも通りだが、今朝の仕草には、どこか上機嫌というより珍しく興奮している様子が容易に見て取れる。常日頃、冷静さを失うことのない別当が、これだけ生の感情を顕にすることは滅多にないことなのである。

  「貫之、喜びなされ。一上(いちのかみ)がお召しですぞ」

御書所の別当が語るには、昨夜、蔵人所頭の使いのものが彼の屋敷を何の前触れもなく訪れ『明朝、御書所預の紀貫之を一上のお邸まで独りで出頭させよ』とのみ伝えたらしい。蔵人所頭直々の使者も始めてなら、書き物を一切持参せず、口上だけで「一上」の私邸まで出頭せよと伝えたやり方も異例であったが、その使者は帰り際、玄関先まで見送りに出た別当に、態と聞かせるような口ぶりで『貫之は果報な奴じゃ』と笑みを浮かべながら一言漏らし、門の外へ消えたとか。

  「これは、良い兆しですぞ」「果たして、そうでしょうか?」「良い兆しに間違いはない」

そんな他愛もないやり取りの後、別当に追い立てられるように校書殿を後にした貫之は、ひたすら教えられた通りに道筋を辿り、皆みなが「一上」と畏れを込めて呼ぶ左大臣・藤原時平(ふじわら・ときひら,871〜909)の屋敷を目指して歩き続けた。恐らく、向こうからの呼び出しが無ければ、一生涯訪れることがなかったと思われる時平の屋敷は、他の家並みを圧して聳え立っていた。『なるほど、このような家のことを邸と云うのだ』その、余りの広大さにあきれ苦笑いをかみ殺しながら脇門に近づいた時、独りでに真新しい木戸が開いたように見え、中から、若々しい声の主が貫之に姓名官を尋ねた。許されて門の中に入ると、衣服を通して見ても鍛錬された逞しい体つきを顕に感じさせる大柄な郎党が二人左右から近づき、再び、貫之本人であることを確かめた後、行くべき建屋の在り場所を指差し教えた。その言葉遣いには坂東生まれかと思わせる、仄かな里言葉風の趣きが感じられた。

人麻呂と「柿本」の縁(えにし)とは?…物語風に

大伴家持『三十六歌仙』より(京都大学収蔵) 柿本人麻呂の歌碑   PR

母屋から五十歩ばかり南西に離れた場所に建てられた家屋は、二方に生垣が廻らせてあり他の建屋から繋がる廊下などは設けられていないようにも見える。部屋は五つばかり、開け放たれたその内の一部屋が巻物と書物で埋め尽くされている。式台の前で立ち止まり、座敷に上がらせて貰えるものかどうか戸迷っている貫之が手持ち無沙汰にしていると、暫くして左手奥の二部屋の襖度がほぼ同時に左右に開かれ、彼と年恰好も余り違わない鋭い目つきの男が、部屋奥に設えられた一段高い畳座の上から貫之を凝視している。何処からとも無く聞こえた低い声が、改めて貫之であることを男に告げると、僅かに頷き右手で空を切るような所作をして、近くに居る筈の誰かに退室を命じた。

 「家持より優れた歌詠みがおるそうな」

時平が、常がね十余年、貫之が同輩たちに語ってきた「歌」論を聞き知っていることは確かであった。土間に平伏したまま押し黙っていた貫之であったが、人の近づく気配を感じ、暫くしてようやく顔を上げると、時平の笑い顔が、直ぐ目の前で揺れていた。微かに香の匂いが漂っていた。部屋に上がり板の間の隅に座ることを許された貫之の語る「歌」への思いを、じっと黙って聞き続けていた時平は、意外なことに奈良朝の出来事や、万葉の歌人たちについても予め調べていたものらしく、時折、関心のある事柄について貫之に幾つかの質問まで投げかけたのだが、その内の一つが貫之の知識を試しているように思われた。『柿本朝臣猿とは、何者か?』『奈良の御時、仕えまつりました者で、先は大春日氏と承っております』『人麻呂とは縁(えにし)のある者か?』『些かも縁は無いものと思われます』時平の表情が一瞬緩み、咳払いをすると、居住まいを正して言った。

 「ご一人が、古今の歌を編めと仰せである」

再び平伏する貫之に『万葉は要らぬ。今の話を先ず、仮名で奏上せよ』とだけ告げ、一枚の書き物を彼の前に置くと、再び、時平は奥座敷に戻り、襖戸が閉じられた。紙には黒々と「大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府壬生忠岑」四名の姓名官が記されていた。貫之が、何時の日にか公にする事があるかも知れないと密かに思い、下書きとして暖めていた「歌論」に筆を加え、蔵人所を通じて「仮名序」として奏上すると、再び、時平からの呼び出しが掛かり、邸に出向いたのは三月になった初めの日の午後であった。野辺に草花が満ちていた。草いきれが何処までも貫之の体に纏わりついて離れようとしなかった。邸に着いた頃、汗ばむほどだった。

 「人麻呂が一の者か?!」

繰り返しになることを怖れず貫之が「序」に著した歌論を述べると、時平は頷き、一つだけ「注文」があると言う。怪訝な面持ちで見つめ返す貫之に、彼が言葉を続けた。

 「家持より優れた歌詠みが、ただの人であったとは…。−−家持は確か…」

 「家持卿は、大同元年、従三位に復されております」

 「であるならば、この、柿本朝臣は、正三位でなければなるまい」

 「………」

女御方ならまだしも、奈良朝の記録を少しでも知る者なら、誰でもその間違いに気づかぬはずもない。そう言い張る貫之に時平は「そのような心配は無用。なんなら、ご一人を煩わせても」とまで言い返され、あの時、文章に心ならずも「正三位」の文言を書き加えたことが苦悩の種として貫之の心に植え込まれた。幸い、これまでの処、さして大きな問題にもなってはいないが、必ず、後世の誰かが、人麻呂の「官位」を廻って理非を質そうとするだろう。紀貫之が己の才に溺れ、天下に無知を曝け出したと嗤うことだろう。

難題を押し付けた男、藤原時平が昨日、延喜九年四月四日に薨じたと言う。無論、人麻呂への叙位は実現されなかった。「古今和歌集」の編集から実に十二年、紀貫之は延喜十七年に至り、やっと従五位下に叙任されたのである。延長八年(930)土佐守に任ぜられたのは、彼が還暦を迎える直前のことであった。この、極めて遅い昇進を、皆さんはどのように解釈されることでしょう。わが国初の勅撰和歌集の編集者だった者に「栄誉」は与えられなかったのでしょうか?それとも、人麻呂叙任を裏付ける幻の文書が、今でも、何処かの倉に眠り続けているのでしょうか!

お断わりするまでも無く、上の「小説」は管理人の妄想に過ぎません。一つ違いの二人が「絶対に出会うことがなかった」と言い切れないのと同様に、二人が何処かで間違いなく会っていた、という資料も無いからです。ただ一つだけ確実な事は、紀貫之が「古今和歌集」の編集作業を行っていた頃所属していた「御書所」(ごしょどころ)という部署は、令外の役所である「蔵人所」(くろうどどころ)の配下にあった、内裏の書籍・文書などの書写(複製)を主な仕事としていた所で、その蔵人所の初代長官(別当)に藤原時平が任命されたのが寛平九年(897)だった、という事実です。つまり組織上、時平は貫之の所属するお役所の最高責任者として彼の仕事ぶりを監督する立場にあった、ということなのです。「古今和歌集」は歌詠みの手本として広く流布し、幾つもの写本が作られました。そして古今の誕生の背景に、時平の宿敵・菅原道真(すがわら・みちざね,845〜)の大宰府への左遷、更には道真の死(903年)があったことは確かだと考えられ、時平が「古今」において殊更「仮名」にこだわりを見せたのも道真が寛平五年(893)に撰集した「真名」(漢字)書きの『新撰万葉集』を強く意識した結果だと想像することは、そう難しいことではありません。

壬生忠岑の機転を伝える『大和物語』

二人の「出会い」を証明する資料は結局見つけることが出来なかったのですが、当時の、つまり西暦900年前後の宮廷を中心にした人間関係を窺い知ることが出来そうな資料を一つ紹介しておきます。それは、950年頃に書かれたと考えられている『大和物語』という書物です。貫之と共に、古今の編集に携わった壬生忠岑(みぶ・ただみね,860〜920?)は、時の左大臣・時平と同じ藤原北家の流れを汲む泉大将・大納言藤原定国(ふじわら・さだくに,867〜906)に仕えていたようなのですが、ある日の深夜、酒に酔った勢いで定国が突然、時平の邸を訪れ不興をかったのです。その時、お供として従っていた忠岑は、松明を燈しながら、階段の下に跪き、

  カササギの 渡せる橋の霜の上を 夜半に踏み分け 殊更にこそ

と、大伴家持の古歌を踏まえて弁明したところ、時平は『いとあはれにおかしとおぼして』機嫌を取り直し、その夜は一行に「大御酒」を振る舞い、忠岑には「禄」まで賜ったと「大和物語」(百二十五段)は伝えています。この定国の兄弟であり、古今が出来上がりつつあった904年に近江介であった三条右大臣藤原定方(ふじわら・さだかた,873〜932)と、従兄弟に当る堤中納言・藤原兼輔(ふじわら・かねすけ,877〜933)の両人が紀貫之と近しい関係にあったと思われますから、上で述べてきた「小説」の筋書きが、全くの見当外れだとは云えないかも知れません。また、家持の本歌は「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」というもので、七夕の夜、カササギが一斉に飛び立ち、翼を連ねて「牽牛」「織女」が逢えるように「天の橋」をかける、という中国の故事に因んだもので、若しかすると、その夜が七夕だったのかも知れません。更に勘ぐれば、カササギが橋を架けるのは「天の命」に従っているのですから、時平を「牽牛」になぞらえてご機嫌をとったのだ、とも言えます。そして、忠岑の「歌」の意味を即座に理解し、客人を歓待した時平も中々の「粋人」だったと言わねばなりません。

左から二行目「三つの位、柿本の人丸」と読めます(国立博物館収蔵)

この項とは直接関係のない事柄になりますが、人麻呂と並んで万葉歌人として有名な山上億良(やまのうえ・おくら)は大宝元年(701)当時、無位、つまり唯の人に過ぎませんでしたが「続日本紀」によれば、同年正月二十三日付けの人事で「少録」に任じられています。これは同日、粟田朝臣真人が遣唐執節使に任命されたことに伴う記録係(少録)に彼が就いたことを意味している訳ですが、その位は正八位上、つまり下から八番目という低いものでした。また、貫之と同じく「古今和歌集」の選者であった凡河内躬恒(おおしこうち・みつね)が時の帝に寵愛され「御衣を賜った」り、もう一人の選者・壬生忠岑も帝から歌を嘉賞され「昇殿を許された」などという逸話が残っているのに対して、貫之には、何故か、そのような話題も欠けているようです。

再び人麻呂の「三位」という官位について

最後の最後に、もう一度、人麻呂の「官位」に関わる紀貫之の記述を取上げて「正三位」の虚構性を指摘したいと思います。これまでに発表されている色々な「論文」などの中で、柿本人麻呂の「位」を推し量る目安として常に取り上げられてきた「万葉集」の詞書の文言があります。それは「人麻呂が死に臨み」という箇所の「死」という単語なのですが、律令制の下では人の「死」にも表現に区分があり「三位」以上の貴人の場合には「薨」という字を、「四位、五位および王、女王」の場合には「卒」という字を用いる規定となっていたのです。だから、万葉集で人麻呂の「辞世」に付けられた「死に臨む時」という表現は間違っている。また、或る「説」では『人麻呂は元々、高い位にあったのだが、何かの事件等を起こしたか、事件に関わったことで、その位を取り上げられたため、万葉集の編集者が「死」という文字を使った。その後、元の位に復されたか、或いは正三位を追贈されたので、紀貫之は、それを参照して正三位と紹介した』として、飽く迄も人麻呂が万葉の時代に「高官」であった、と強調しています。しかし、

 1 正三位は「大納言」に相当する極めて高い位であり

 2 そのような地位に上った人の叙任を正史が書き漏らすことは有り得無い

 3 例え、何らかの事件に関連して「位」を剥奪されたとしても、その事実は記録される

ことは他の記述例を見ても明白な事と言わねばなりません。或る「説」などが想定している「事件」それも「三位」の高官が官位を剥奪される「罪」の前提は『国家に対する犯罪』か、それに準ずる未遂事件だと考えられますが、このオノコロ・シリーズで紹介をしてきた「道鏡事件」さらには「広継事件」のいずれの場合も、事件の首謀者たちですら正史から抹消されてはいませんし、ましてや事件首謀者たちの叙任記事などが「改竄」されたという事実も存在していないのです。さらに、人麻呂たちが活躍した時代とも時間的に近く、万葉集の編集者たちの記憶に新しい「橘奈良麻呂事件」をみても、奈良麻呂自身の叙任履歴は勿論、それに連座したと思われる人物たちの記事も正史から取り除かれた形跡が認められません。むしろ、正史の性格上、

 何年何月何日、誰だれという者が重大な罪により、その「官位」を剥奪された

と記述することが後の世に「事実」(それが冤罪などであったとしても)を伝える唯一の手段になると思われるのです。若しも、誰かが「冤罪」で官位のすべてを剥奪され、その事実が正史から削除されていたら「復位」を請求する根拠すら失うことになりかねません。人麻呂が八世紀初頭に起きた何らかの重大「事件」に関与して、その「官位」を剥奪された、との「説」を展開するのであれば、先ず、その「事件」の内容を明らかにすべきではないでしょうか?

物事を「損得」勘定だけで判断することは決して良いことではありませんが、宮廷に長年「歌」を以って仕え、齢三十を超えて初めて廻ってきた「勅撰和歌集」の編集を、貫之が「絶好の機」と考えなかったはずは無く、その「序文」で、彼が敢えて「虚偽」の文言を含めた文章を、自ら進んで「奏上」することは、如何見ても理屈に合わないと思います。であるなら、柿本人麻呂が「正三位」であったと彼に確信させる何らかの「資料」が存在していたと推理するしか無いのですが、それでも紀貫之が、同時に認めた「真名序」には、

 然猶有先師 柿本大夫者 高振神妙之思 独歩古今之間

とのみあることが、更なる「謎」を生む結果になっているように思えてなりません。柿本人麻呂さんは、一体、どのような人物だったのでしょう?皆さんも、調べてみてはどうですか?(「大夫」という呼称は、律令制の下で「一位から五位」までの人の総称なのですが、五位の通称でもあります。だから、この書き方では、どの様にも受け取れる訳です)下世話な言い方をすれば『貫之が序文で嘘をついたとしても、一銭の得にもならない』訳ですし、むしろ、その「嘘」が明らかになった場合、彼の職そのものを失う怖れもあったのですから、なお更、疑問は深まるばかりです。「古今集」は歌を詠む者にとっての必読書のような扱いを受けたため、後世、その解説書・虎の巻のような書物が幾つも書かれています。それらは「註」あるいは「注」の名で現在伝えられていますが、中世、南北朝の混乱期に南朝方の重鎮・北畠親房(きたばたけ・ちかふさ,1293〜1354)も1344年頃『古今集註』を著しています。なお、時期的にみて早い部類に入るものとしては、十二世紀後半波乱の人生を送った藤原教道(ふじわら・のりみち,1109〜1180?)にも同じ題を持った『古今集註』の著作があり、その解説の中で教道は人麻呂の「正三位」に全く触れていませんが、流石に親房は『神皇皇統紀』を記した人物らしく公的な文書も照合したと考えられ、人麻呂の「叙任」そのものが補任記録に一切見えないことから「疑わしい」と見ていたようです。(奈良時代から明治元年までに「参議」以上あるいは従三位以上の非参議に叙任されたお公卿さんの職員録として『公卿補任』という記録があり、持統天皇までは一代ごと、文武天皇以降は一年ごとにまとめられています。そこには「公卿」となった人の生年、出自、経歴が詳細に記されているので、人麻呂さんが、若し、本当に「正三位」に叙任されていたのなら、必ず、そこに載っていなければならない訳です)なお、昭和の初め頃『古今和歌集』(昭和2年8月、日本古典全集刊行会)を出版した与謝野晶子、与謝野寛、正宗敦夫たちは、柿本人麻呂の「位」について『正三位は後人注文の混入か(後世の誰かが注を書き加えた)』ものだと、至極、明快で単純な結論を出しています。案外、それが「正解」なのかも知れません。

 不機嫌そうな人麻呂さん(京都国立博物館収蔵)  真ん中三行目下「三位」の記述を疑う文言が見受けられます(京都大学収蔵)

『公卿補任』の具体例を引いて紹介しておきます。人麻呂と並び、和歌の世界では有名人である大伴家持は、天平十年(738)二十一歳で正六位の内舎人となった後、三十二歳で従五位下に昇格、宝亀九年の一月、正四位下に叙任され、同年二月には右京大夫、同十一年二月に参議を仰せつかっています。そして、延暦四年(785)六十八歳で亡くなったときの最終官位は「中納言従三位持説征東将軍陸奥按察使鎮守府将軍兼東宮大夫」だったそうです。これでは覚えるのが大変です…。

鎌倉時代に「創られた」と思われる「石見風土記・逸文」を真似て、ちょっと言葉遊びをしてみましょう。奈良朝廷(文武天皇)は、西暦701年、三月二十一日、新しく元号をたて「大宝元年」としましたが、その同じ日、新令(大宝令)に基づき、朝廷に仕える人々の官名と位号の制度をも改正したのです。さて、その時、従三位および正三位の位を授けられた人々を次にあげてみましょう。皆さんの目に、一体、何が見えてくるでしょう。

 藤原朝臣不比等(ふひと  石川朝臣麻呂  大伴宿禰安麻呂 
 紀朝臣麻呂  粟田朝臣真人(まひと  高向朝臣麻呂

面白い「偶然の一致」ですね。これを「ネタ」に『紀貫之が人麻呂に託した暗号』を主題にした推理小説が一つや二つは書けそうな気分になりました。

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