葛飾北斎は「東洲斎写楽」を見たのか?               サイトの歩き方」も参照してください。

春朗」(しゅんろう)「宗理」(そうり)の文字を見て、何となく『昔の人の名前だろう』と思う人はあっても「可候」「雷震」が誰かの号だと気づく人は相当、錦絵についての知識がある方に限られることでしょう。宝暦十年(1760)、江戸・本所に生まれ九十年に及ぶ生涯で百回近くも転居を繰り返した事でも有名な葛飾北斎(かつしか・ほくさい,1760〜1849)は、未だ「鉄蔵」と名乗っていた十代中頃から彫刻を学び、十九歳になった安永六年、浮世絵師・勝川春章(かちかわ・しゅんしょう,1726〜1793)のもとに入門、師匠の目から見ても、その画才は優れていたもののようで「春朗」の画号も早くに与えられました。洒落本、噺本や黄表紙の挿絵など、仕事も順調にすすんでいたと思われる天明五年(1785)、春朗の号を「群馬亭」に改めるのですが、どういう訳か「春朗」の画号も、そのまま十年近く併用しています。

群馬亭=北斎が、この号に改めたことは天明五年に刊行された『親譲鼻高名』の巻末に「春朗改め群馬亭」と自著していることで明らかなのですが、その後、寛政五年頃までに発表されている黄表紙などの画号は「春朗」を、そのまま使用しています。理由は不明のままですが、北斎にとって初めて絵を学んだ師匠の勝川春章が寛政四年の十二月に亡くなっていますから、改名はしたものの師匠の生存中は彼から与えられた「春朗」の画号を大切にしていたと考えることも出来るでしょう。

天明二年夏七月、十四日から翌日にかけて起こった江戸大地震は、一つの前触れに過ぎませんでした。降り続く豪雨・洪水そして河川の氾濫が西日本で頻発、翌三年七月には浅間山が大噴火し、その火山灰による影響は近隣十国にも及んだことから、作物の収穫量が激減、天明飢饉が全国民に牙を剥いたのです。特に東北・津軽地方の惨状は深刻でしたが、天明七年まで続いた大飢饉は二百万人余の命を奪う猛威を振るったのです。大坂での米騒動、江戸での打ち壊しという緊急事態は、全て、これらの飢饉を背景としたものだったのですが、幕府中央では田沼意次(たぬま・おきつぐ)が老中を罷免され、代わって登場した松平定信(まつだいら・さだのぶ)が「寛政の改革」に乗り出します。戯作者として人気を集めていた山東京伝(1761〜1816)が版元・蔦屋重三郎(1750〜1797)と共に刑罰を受けたのは寛政三年のことでしたが、京伝の黄表紙『桃太郎発端話説』では依然として「春朗」の画号を用いていた北斎が、寛政六年「俵屋宗理」の号を襲名、浮世絵研究家の飯島虚心は「宗理」に関して『俵屋宗達の流派なるべし』(『葛飾北斎伝』岩波文庫)としていますが、北斎が、僅か二三年で「宗理」の名を他人に譲っていることから、便宜的な、と云うか実利的な「襲名」だった可能性も考えられます。度重なる改名については式亭三馬(1776〜1822)も『浮世絵類考』の中で、

  その後、俵屋宗理が跡を続ぎて、二代目宗理となる。後に故ありて名を家元に返し

  北斎辰政と改む。その名を門人に譲り与えて、雷震と改む。再び門人に与えて戴斗と改む。

と紹介していますが、飯島は「伝」の中で更に一歩踏み込み、

  一説に、北斎翁、名を門人に譲りて若干の報酬金を得るを常とす。

  故に、貧困窮まれば、即ち名を譲る。門人ひそかに、これを厭ひしとぞ。

と、画号を「門人に譲った」裏事情を推理しています。「宗理」時代の北斎が狂歌の「摺物」(店頭で販売される物ではなく、趣味人や商家の店主などが親しい人に配る目的で作成した私家版の版画。商品の宣伝[チラシ]や芸人の披露などにも利用された)で生計を立てていたのですが、その貧窮振りは相当なもので「七色唐辛子」や「柱暦」を町に出て売り歩いた事もあったようなので、簡単に「売れる」自分の画号を飯の種にしたことは十分考えられるのではないでしょうか。つまり、一般的には寛政十年、北斎は「北斎」を名乗り一派を立てた(『増補浮世絵類考』)とされている訳ですが、妙なことに、ほぼ同じ頃、又、新たな号を自ら編み出しているのです。それが「可候」「時太郎可候」の作名です(「時太郎」は北斎の幼名)。研究家の多くは、この「可候」は「べく・そうろう」という書簡体の文言を北斎風に洒落たもので専ら「戯作」のために態々拵えた名前だとしているのですが、果たしてそうなのか?下の画像を見てもらいましょう。

 春朗号の市川団十郎  号の変遷   「化物和本草」より

これは「宗理」の画号を門人に譲ったとされる寛政十年(1798)、山東京伝が書いた『化物和本草』にある挿絵と、その「画工」名を記した奥付部分なのですが、皆さんの眼にはどの様に映るでしょう。名前の下一文字が不鮮明なので、見づらいですが…、では別の画像も紹介します。こちらは錦絵です。

北斎の署名は「画」の字(書)体に大変特色がありますから、上の挿絵も彼のものであることは間違いないと思われます(「画」の上の横棒「一」と下の「凵」まで縦の線がつながっている)。だから「可候」の名は戯作専用の筆名ではなく、画号でもあったのです。ところで話は寛政二年に遡ります。この年、京伝は菊園と結婚、曲亭馬琴(きょくてい・ばきん,1767〜1848)が彼の門を叩き、入門を許されるのですが、その翌年、改革のあおりを真ともに受けた京伝は「手鎖50日の刑」に処せられます。そして、いよいよの錦絵が登場することになるのですが、関係する人物たちの動きを表にしてみました。

年号 山東京伝 十返舎一九 曲亭馬琴 葛飾北斎
 寛政4年   黄表紙執筆  近松余七を名乗ったか?  蔦屋の食客となる(住み込み)  京伝の黄表紙に挿絵を描く=春朗の号
 寛政5年  妻が病死し、煙草入屋を開く  秋、山東京伝の知遇を得る  結婚し、噺本でデビューを果たす  春朗の画号で挿絵を描く
 寛政6年  黄表紙を執筆、挿絵は一九が担当    蔦屋の食客となる(住み込み)  黄表紙を執筆  「宗理」を襲名?
 寛政7年  店の広告(引き札)が好評を博す  「心学時計草」を執筆  読本出版の準備に取りかかる  狂歌本に挿絵を描く、画号は宗理を使う
 寛政8年  『人心鏡写絵』を作画する  『初登山手習方帖』を出版する   『高尾船字文』を出版、画は長喜が担当    『帰化種』に挿絵、号は百淋宗理を使用する 

正体不明の浮世絵師・東洲斎写楽が彗星のように登場したのが寛政六年の五月であったことは、別のページ(「写楽・落款の謎」)でも詳しく書いてきましたが、上の表からお分かり頂けるように、この人たちは全て、京伝を中心にしたというか、蔦屋と京伝の二人を核とした一つの出版業界サロンを形作っていた訳で、取り分け「一九」「馬琴」の両名はそれぞれが一時期、蔦屋の家に厄介をかけていたのですから、写楽の実像を知っていた可能性は極めて高いように思われます。そして、その内の一人である一九が『初登山手習方帖(しょとうざんてならいちょう)』の中で、写楽の作品をもじったと思われる凧の絵を挿絵として使用していることが、写楽を探求する者の想像を掻き立てることになるのです。では、問題の絵を見てみましょう。

描かれている役者は誰? 五代目・団十郎   六代目 

この「凧絵」については既に様々な「解釈」が行われていますので興味のある方は一度WEBで検索してみられると良いでしょう。ところで、此処に描かれた人物は誰なのか?紋所の「三枡」から市川団十郎ではないかと考えられますが、六代目は寛政十一年五月に二十二歳の若さで夭折していますから、この役者は五代目、つまり寛政三年に市川鰕蔵と改名し寛政八年十一月に引退した成田屋七左衛門だと思われるのです。そして写楽が活躍していた寛政六年十一月には桐座で『男山御江戸磐石』の外題で『しばらくのつらね』が演じられていますから、凧絵は「暫(しばらく)」の一場面を表したものなのかも知れません。ただ、現時点では写楽が五代目団十郎の「暫」を題材にした錦絵は発見されていません。また、このように見てくると「可候」こと北斎が寛政十年に挿絵として描いた上の人物も五代目であると考えられます。『近世物之本江戸作者部類』(曲亭馬琴、天保五年刊)が、十返舎一九に関して、

  寛政六年秋の頃より通油町なる本問屋蔦屋重三郎の食客となりて

  錦絵に用いる奉書紙にドウサなどをひくを務にしており。

と書き記した、正に、その時季、写楽の錦絵は蔦屋によって販売されていたのですから、一九が写楽の素顔を知らなかったはずもありませんが、同時期、京伝の作品を通じて蔦屋サロンを形成する一員であった北斎も、写楽という一風変わった画を売り出した人物に彼一流の好奇心で近づいたと考えるのは管理人だけの妄想に過ぎないのでしょうか?また、独断になりますが、一九の「凧絵」には歌舞伎役者個人、あるいは劇を演じる人物への好意ないしは好感といったものが感じらないのに対し、可候の描いた挿絵からは何となく役者への共感めいた感情、と言って語弊があればよい意味での関心が見て取れるように思えます。そして、写楽も確かに「余りに真を描かんと」したためにモデルとなった役者たちから「不評」は得たのかも知れませんが、描く対象への悪感情は微塵も感じられないのです。長生きをした北斎が、一言、何か手掛かりを残してくれていたなら…。(歴史にIFは禁物でしたね。今回は、オマケに写楽の六代目と、豊国の六代目「暫」を披露しておきます。上右の画像)

寛政十一年、春三月「助六」を演じて大当たりを博した六代目でしたが、翌月になり風邪がもとで休演、五月の半ば、惜しまれながら二十二年の早すぎる生涯を閉じました。その彼の辞世の句、と伝えられているものを紹介してお開きと致します。

  こはいかに 折れし三升の 菖蒲太刀

写楽の情報が殆ど現在伝わっていない事については、彼が活躍していた時点で「人気」が無く、業界内での評価が低かったからだとする説がありますが、彼とほぼ同じ時期に文筆活動を行っていた式亭三馬(しきてい・さんば,1776〜1822)の黄表紙『稗史億説年代記(くさぞうしこじつけ年代記,1802年刊)』に大変面白い挿絵が載せられています。

本の冒頭にある画巧たちの一覧『倭画巧名盡』より

少し見難いかも知れませんが写楽が右上の「歌川」一門と中央の集団の間で「孤立」した存在として紹介されていることが分ります。この挿絵の作者が画巧の配置を意図的に行っていたのだと仮定すれば、北斎が勝川一門に近いように、写楽という画工が歌川一門に最も近い存在として意識されていたことになるでしょう。また、北斎や歌麿ほど大物ではなかったものの、江戸の浮世絵師として一定の評価が与えられていたことは確かなようです。

        

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