葛飾北斎長崎屋そして蔦屋重三郎                   「サイトの歩き方」も参照してください。

嘉永二年四月、九十歳で臨終を迎えようとしていた葛飾北斎(1760〜1849)は『天が、後五年の命を与えてくれたなら、必ず真正の画工になることが出来るだろう』と口ごもりながら旅だったそうですが、彼の絵画に懸けた意気込みと自らの画業に対するゆるぎない自信のほどが伝わってくる逸話です。風景画の分野で独特の才能を発揮して海外にも多くのファンを持つ北斎は、浮世絵版画だけでなく版元の求めに応じて絵本・画本の挿絵も多数手がけています。その中でも著名な作品の一つが寛政十一年(1799)に蔦屋から刊行された狂歌絵本の『東遊』です。これは江戸浅草で質商を営んでいた伊勢屋久右衛門(狂名・浅草庵)が同好の士に声をかけて編んだ狂歌集で、江戸の名所が北斎の手によって巧みに表現されています。また他の絵本には見られない職人たちの仕事場や商家の佇まいなども紹介されており、店先が客で賑わう耕書堂の宣伝も含まれています(下左の画像)。初め浅草庵などの商家が資金を出して出版された「東遊」でしたが、北斎の絵そのものが評判になり、わずか三年後の享和二年版元の蔦屋は多色刷りの『画本東都遊』全三冊として再び世に送り出しています。その画本の中に、とても興味深い一枚の挿絵があります。下中央で紹介している長崎屋図がそれなのですが、江戸期唯一世界との窓口として開かれていた長崎出島のオランダ商館の関係者が、徳川将軍を初めとする幕府高官たちに「挨拶」するために参府する折、江戸での定宿に指定されていた商家なのですが、どうやら北斎は商館付き医官として在籍していたシーボルト(1796〜1866)と面識があり、沢山の絵画を彼らに渡していたようなのです。

蔦屋耕書堂  長崎屋  古地図より

平成二十八年秋、オランダの研究者が国内の美術館が収蔵していた作家名の分からなかった風景画六点が、いずれも日本の画家・葛飾北斎の作品であることが判明したと発表して大いに美術関係者たちの関心を集めましたが、文政九年(1826)に江戸を訪れた時の記録の中にシーボルト自身が『江戸で上手な絵師と出会った』とする文言も同時に発見されていたらしく、北斎が直接商館のキャプテンたちが宿泊していた長崎屋を訪ね歓談?していた可能性が十分あるのです。日本側の記録類からも商館長たちの江戸参府では、ほぼ半月程度の期間日本橋の長崎屋に滞在していたことが判明していますから、相当の余裕をもって事前にオランダ側から「注文」があれば、参府に合わせて絵画を引き渡すことが出来たと思われます。ただ、当時の幕法では許可なく外国人の求めに応じて絵画を描くこと自体が違法ですから、北斎が其のあたりの事をしっかり認識していたのかどうか、案外無頓着だったのかも知れませんが、シーボルトはこの後帰国に際して大きな「事件」を引き起こすことになります。それが幕府天文方の役人・高橋景保たちを巻き込んだシーボルト事件であることは読者の皆さんも歴史の授業で習われご存知のことでしょう。禁制品の日本地図がシーボルトの所持品に含まれていたことで長崎奉行も乗り出す「大事」になった訳ですが、恐らく成り行きを見ながら北斎も肝を冷やしたに違いありません、それはさておき。

北斎が文政期において、オランダの美術専門家たちの眼に「西洋画家が描いた」作品と思わせる程の技法を習得していたことが明らかになった訳ですが、彼の「東遊」はそれよりも30年余り前の寛政十一年に出版されており、北斎は若い頃から西洋への興味を抱いていたとも考えられます。尤も、この狂歌絵本には元々資金提供者が存在してようで、版元の蔦屋に出資者側から「描いて欲しい風物」の一場面として長崎屋が指定されていたという推理も成り立ちます。何れにせよ幕末を目前にした文化文政期のお江戸では、異国文化を象徴するオランダ人たちの定宿は「名所」としても著名だったのでしょう。

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