葛飾北斎蔦屋重三郎そして山東京伝                    「サイトの歩き方」も参照してください。

葛飾北斎は宝暦十年(1760)江戸葛飾本所の割下水で生をうけ、幼名を時太郎といい、後に鉄蔵と改名しています。幼い頃に他家の養子となったものの実子に家督を譲ってからは商家などで奉公、一時彫刻師の下で修行していた折り絵画に興味を抱き、安永7年に浮世絵師・勝川春章に弟子入り。春朗の画号を師匠から貰った翌年には役者絵の「瀬川菊之丞」(三世、1741〜1810)で絵師としてのデビューを飾っています。わずか1年で絵が売り物になったのですから、やはり筋が良かったと言えるのだと思いますが、今、その作品を眺めてみても後の北斎の片鱗も感じさせることはありません。懸命にお手本通りに「真似た」繪面が佇んでいるだけです。師匠や兄弟子たちにもまれながら春朗は絵心を満たすべく精進を重ねたと思われますが、寛政初めころには蔦屋重三郎が天明の狂歌ブームに眼を付けて売り出したと思われる「摺物」の挿絵を任されるようになっていました。この印刷物は店頭販売を目的としたものではなく、狂歌連の旦那衆が金主となって費用を出し、版元に注文する予約品ですが、現在、外国の美術館などに三十点あまりが収蔵されており、当時の画風を知るうえで大切な資料になっています。下で紹介している画像は「壬生狂言」に画題を求めた作品群に含まれるものです。それぞれの人物に、やや動きと表情が見られるものの、まだまだぎこちなさが残っています。

春朗の菊之丞  「壬生狂言」より

春章が亡くなった二年後の寛政六年(1794)、春朗は勝川派から「破門」されます。理由は明らかではなく彼自身も周囲に語っていませんから憶測に過ぎませんが、絵画に対する考え方が他の一門の絵師たちとは異なっていた事が軋轢を生んだのかも知れません。また、春章直々の宣告ではなかった処からも不透明さを感じさせる「処分」だったことは間違いなさそうです。彼は既に三十台半ば、たちまち生活に困窮したと思われ、食品の行商をして糊口をしのいだと云う「伝説」も残されています。時間が少し前後しますが、春朗は摺物だけを描いていた訳ではなく寛政四年には山東京伝の『桃太郎登場説話』(全三巻、蔦屋版)の挿絵を担当していますし、翌五年にも京伝の作品『貧福両道中之記』で作画を担当しています。版元の蔦屋重三郎が彼に一定の力量を認めていたからこそ、人気戯作者の黄表紙の絵師として採用したのだと考えられます。しかし、破門されて後、北斎の名前で発表された作品が余りにも少ないことなどから「写楽の実態は北斎だった」とする別人説が幾つも唱えられてきたのですが、寛政十年に「可候」の画号で挿絵を載せた『化物和本草』に出てくる役者風の男性像は、どこか師匠・春章の市川団十郎(1741〜1806)に似ているように思えてなりません。(寛政後期の団十郎と言えば五代目で、三升(みます)を定紋としていました。読者の皆さんには市川蝦蔵の名称の方が分かりやすいかも知れません。)

春章の団十郎  春朗の団十郎  化物和本草より

貧福両道中之記  写楽の蝦蔵  蔦屋(「東遊」より)

写楽も手掛けた蝦蔵ですが、実は黄表紙「和本草」が発売された寛政十年春、五代目団十郎の姿は舞台で見ることが出来ませんでした。何故なら彼は、前年の顔見世興行を最後に歌舞伎界から引退していたのです。北斎自身は、恐らく何度も何度も蝦蔵の役者ぶりを芝居小屋の片隅から眺めていたに違いありませんが、破門から数年たった時版元から注文のあった挿絵の「役者姿」を描くとき、春朗改め可候の胸の中で浮世絵を教えてくれた師匠の描いた団十郎が見え隠れしていたと筆者は想像しています。或いは手元に春章の版画が置かれていたのかも知れません。それでも尚、春朗の描いた「貧福両道中之記」の登場人物と東洲斎写楽が表現した役者絵との「落差」は大きく、版画と挿絵の違いを割り引いても、二人の資質の違いを感じざるを得ないのです。つまり、北斎が一時期写楽を名乗った可能性は低いと言えます。寛政十一年、彼は「北斎」を自らの画号としました。蔦屋が企画した狂歌絵本『東遊』(上中下三冊、浅草庵市人編)は旦那衆が趣向を凝らした入銀物だったようですが、その中で北斎の風景画は存在感にあふれています。いよいよ彼の本領が発される時が間近まで来ていたのでしょう。

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