「江戸方角分」の資料価値について考える                             サイトの歩き方」も参照してください

昨年の夏、次の遣唐使が彼に決まった時、都の事情通たちは日々顔を合わせては、声を潜めて噂話に余念が無かった。

  『それにしても、お上のご信任の篤さは到底只事とも思えませんな』

  『藤家の主も、密かに後を託されたのだとか』

  『唐土へ、兄弟が続けて使わされるなど開闢以来初めてのことですぞ』

天平五年三月のある日、遣唐使節の長として出立の挨拶に訪れた多治比真人広成(たじひ・まひと・ひろなり)に節刀を授けるとき聖武天皇(しょうむてんのう)の口が一瞬開きかけたのだが、広成は努めて気づかぬ風を装い、素早く侍立していた役人から刀を押し頂き、謹んで使節の役目を全ういたします、とだけ奏上し足早に御殿を退出した。誰が、どこで「何を」聞いているか分からない。父のは常々息子達に御殿の内では極力、最小限の発言しかしない様、常々諭していた。藤原不比等(ふじわら・ふひと,659〜720)の最晩年、兄の県守(あがたもり、668〜737)は第九回の遣唐使として養老元年に渡航、翌年無事生還していた。広成の出航は四月三日のことである。

男に上司から難波への出張が命じられたのは三月初めのことで、手渡された文書には『本年四月二日の内に摂津国難波津の船役場まで出頭せよ』とあり、第十回遣唐使節を見送り報告せよと記されている。生まれて初めて国の外に赴く嬉しさを男は、その日の夜つい、妻に語った。まだ幼さの残る新妻は『わたくしも一緒に行くことは叶わないのですか』と俯き加減に言ったきり押し黙ってしまい、男は大いに慌てたものだった。その妻が今日家を出る折、

  『お帰りになったら、お土産話をきっと沢山してください。恙無く』

と笑顔で見送ってくれたことを思い出し、彼の頬が思わず緩んだ。草香山を越えれば、もうすぐ押し照る海が見えてくるはず…。

  難波潟 潮干の名残 よく見てむ  家なる妹が 待ち問はむため (万葉集 976)

生駒から大坂へ抜ける生駒道を使って難波津を目指しひた歩いていたのは神社忌寸老麻呂(かみこそ・いみき・おゆまろ)という大変珍しい苗字の奈良朝のお役人で、恐らく和銅三年正月、葛木王(橘諸兄、たちばな・もろえ,684〜757)と共に「従五位下」を授けられた神社忌寸河内の一族(息子?)で、渡来系の氏族だったと思われます。また、想像に過ぎませんが多治比氏の本拠地が河内であったことから、遣唐使の大役を仰せつかった広成とは面識があったかも知れないのです。

  伊勢寺(大阪) 境内に設えられた「路」

三十六歌仙の内には多くの女流歌人が含まれていますが、難波を主題にした一首で良く知られているのが藤原北家の流れを汲む伊勢(いせ)です。彼女は父の藤原継蔭(ふじわら・つぐかげ)が「伊勢守」であったとき産まれたことに因んで「伊勢」と呼ばれるようになったそうですが、宇多天皇(うだてんのう,867〜931)の寵を得た後、敦慶親王(あつよししんのう,887〜930)と結ばれ歌人としても知られる中務(なかつかさ)を儲けていますが、その半生は波乱に満ちたもので、情熱的で直截な歌いぶりは多くの人のお手本になりました。彼女が生きた時代は、あの紀貫之(き・つらゆき,868〜945?)さんとほぼ同時期だと考えられています。親王と出会った頃、彼女は、

  難波潟 短き葦の 節の間も  逢はでこの世を 過ぐしてよとや

と歌い、おっとりと構える未来の主人を挑発?したらしいのですが、その伊勢ゆかりの寺院が大阪・高槻市にあります。そして、彼女の歌風を慕って、わざわざ住まいを捨ててまで移り住んだ歌人がいるのです。その名を能因法師(のういんほうし,988〜?)と言います。ところで、いつになったら「江戸方角分」の話になるんだと訝しんでおられる方も多いと思いますが、もう少しの辛抱です。

法師の別名を古曾部入道と呼ぶのは伊勢を尊ぶ余り、住居まで伊勢寺の近く(摂津国古曾部)に移したからなのですが、彼の俗名は橘永ト(たちばな・ながやす)と言い、暦とした旧家の一族。文章生として大学で学んでいた長和二年(1013)、突然出家、摂津の高槻に棲み、諸国を旅する人生を歩み始めるのです。閑話休題。

二重の虚構、「写楽斎写楽=能役者」説を考える

下で紹介しているのは嘉永七年(1854)に麹町の近江屋・近吾堂が出版した「改正 本八町堀辺図」の一部分で、右上に『地蔵橋』とあるのがお分かり頂けるでしょう。そして、言わずもがなの事ですが「」とあるのは奉行所与力の自宅を指し「▲」印は南組を「●」印は北組所属の同心屋敷であることを表したものです。このように周囲すべてが奉行所勤めのお役人宅という特別な環境の中で、本当に写楽が永年棲み続け浮世絵を描いて生活していたのでしょうか?

嘉永7年板「本八町堀辺図」、「村田」「斎藤」     「×」印は浮世絵師    

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

埼玉県越谷市にある浄土宗本願寺派の法光寺から「発見」された過去帳に、東洲斎写楽の本名だとされる「斎藤十郎兵衛(さいとう・じゅうろうべい)」一族に関する記事が多数あったことから、江戸神田の町名主・斎藤月岑(さいとう・げっしん,1804〜1878)が『増補浮世絵類考』(天保十五年、1844)に、

  写楽  天明寛政の人。俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す。阿波候の能役者なり。 号 東洲斎

と記した文言の信憑性が一気に高まり、これで「写楽=能役者」説が確定した?憾が学会の一部にすらありますが、管理人には今ひとつピンと来ない…。それどころか「それはないだろう」と言いたい気分なのです。とは言え己の「気分」だけで人様の大切な学説をあれこれ批判がましく言うことは大変失礼な話なので、今一度、手元にある全ての資料を見直し、あわよくば能役者説そのものをひっくり返したいと思います。

では、先ず「能役者説」の成り立ちについてですが、これには四つの要素が絡んでいます。言葉を変えれば、その内の一つが崩れれば「説」そのものが成り立たなくなるのです。また「説」は二つの虚構に支えられています。一つは「写楽斎」を写楽だと仮定していること。二つ目は、その仮説の上に「写楽斎」が斎藤十郎兵衛と同一人である、という「説」を組み立てていることです。つまり、写楽探しの原点とも言うべき「方角分」の記述を点検すること無く、無条件で「説」の前提にしているのです。だから、能役者説は、

  その一、江戸の住人で信頼性の極めて高い町名主が証言していること

  その二、十二冊にも及ぶ寺の過去帳に多くの記事が認められること(「斎藤十郎兵衛」と家族に関して)

  その三、江戸期の古地図に「斎藤」の名前が認められること

  その四、江戸期の人名帳(「方角分」)に「写楽斎」の名前が記されていること

だけに基づき、結論を出してしまっています。そして、これは最も大切なことでありながら余り問題視されてきませんでしたが、写楽の実在を「証明」する大きな契機となったのが、実は「四」の「方角分」という写本の発見だったのです。昭和50年10月、新聞紙上で紹介された新資料『諸家人名江戸方角分』について九州大学の中野三敏は、

  著者は文化十一年に襲名した三世瀬川富三郎で、成立年は文化14年(1817)から同15年にかけて

と何度も著書の中で述べています。そして、その成立が文化15年(文政元年)までと明言されているのは「方角分」の奥付に、

  文政元年七月五日竹本氏写来る、七十翁蜀山人

とあるからなのです。つまり、誰かが歌舞伎界と出版界の双方に「顔の利く」太田南畝(おおた・なんぽ,1749〜1823)に、この人名帳が出版に値するものかどうかの目利きをして貰うために写本を持ち込んだのが文政元年七月。従って原本の成立も、それ以前でなければならない訳です。それでは「方角分」の内容を見てゆくことにしましょう。(上で紹介している画像は筑波大学が収蔵しているもので、現存する唯一の写本だと考えられます)

先ず問題になる事柄を挙げれば「東洲斎写楽」は、あくまでも「写楽」であって、かつて一度も「写楽斎」と名乗ったことは無い、という事実。この「写楽斎」が浮世絵版画の巨匠・写楽であると証明できるのでしょうか?恐らく出来ないでしょう…。これが一番目の?。次の問題は「写楽斎」の没年に関するものです。中野氏の綿密な考証によれば、寛政11年江戸に下り、瀬川菊之丞に弟子入り、三世瀬川富三郎を名乗った歌舞伎役者・浜次郎が「文政元年(1818)」までに書き上げた「方角分」が既に『故人(かぎ印)』であるとしているのなら、先に見た法光寺の過去帳に在った記事との整合性が問われることになります。何故なら、そこには、

  文政三年、辰三月七日釈大乗院覚雲居士、八町堀地蔵橋阿波殿御内、斎藤十良兵衛事、行年58歳

とあり、人名帳が出来た当時「故人」であるはずが無いのです。また、これも余り諸説で取り上げられる機会に恵まれていませんが、この阿波・蜂須賀家お抱えの能役者であったとされる斎藤氏が、件の八丁堀地蔵橋付近に住み始めたのは「写楽」が活躍していた寛政6年(1794)より前ではなく、少なくとも寛政12年或いは享和元年(1801)までの間は、南八丁堀にあった阿波藩屋敷内で暮らしていたことが過去帳の記事から判明しているのです。つまり「写楽=写楽斎=能役者」説に立てば、暦とした武士であり藩屋敷内で親子ともども同僚達と生活していた人間が、寛政の改革の真っ最中、人目をはばかることもなく、歌舞伎役者の浮世絵を。ほぼ1年間にわたって描き続けていた、という事になるのです。例え「見立て」が中心であったにせよ、役者の顔付き、所作、得意芸などを知るためには江戸三座へも足しげく通う必要があったでしょうし、何より、書き上げた版下絵を蔦屋に届けなければなりません。であれば、斎藤氏は藩屋敷で肝心の稽古に励む間も無い位、多忙な人であったに違いありません。(能役者説を殊更に主張する方々の一人は、藩抱えという身分だと『隔年毎に当番と明け番』を交代するので、明け番の年は暇なのだそうです。それにしてもお家の大事な「本業」そこのけで版画の下絵を描き続ける武士の姿を想像することが出来ません)

さて、ここで、もう一度上の画像を見直して下さい。実は今回「方角分」について再度書こうと思い立った不審点が、この書き付けの中で見つかったからなのです。「写楽斎」の右三人目に注目して下さい。そこには、以下のように記されています。

  錦織 名 春海 字 士観(又号)琴後翁 平姓  地蔵橋  村田平四郎

元々、日本橋小舟町で干鰯問屋・両替商などを営んでいた村田平四郎が放蕩の挙句、倒産した店を畳んで八丁堀の「地蔵橋の角」板倉善右衛門という与力の屋敷の一部を譲り受けて移り住んだのが寛政中ごろの事。歌人であり国学者・賀茂真淵の門人としても著名な彼は、真淵門下四天王の一人とも称されるほどの人物だったのですが、文化八年(1811)二月に他界しています…。もぅ、お分かりですね皆さん。そうです、斎藤氏とは逆に、「方角分」を書き上げる数年以前に亡くなっていた、村田春海に「故人」を示す¬マークが付けられていないのです。この事実だけで「方角分」そのものの資料的な価値を判断することは危険かも知れませんが、後世に伝わる『浮世絵類考』の多くが、写楽と写楽斎を同一人物とみなし、加えて「地蔵橋」に住む斎藤氏を写楽だと決め付ける最も重要な書き付けそのものの記述内容に全幅の信頼が置けない事だけは明らかにされたと思うのです。

つまり、従来の諸「説」は、大前提として「方角分」の記述が全て正しいものであるとした上で、更に、

  文政元年頃に書かれた「方角分」にある「写楽斎」を写楽と同一人物だと仮定、

  そこに書かれた「地蔵橋」という小字(呼び名)だけを頼りに、

  半世紀後に出版された細見図にあった斎藤氏を「写楽斎」と断定し、

  写楽の活躍した時期の詳細な検討を棚上げにして、

  「写楽」が斎藤氏以外であるはずがない。

のだと「結論」付けた訳なのです。「方角分」の写本を届けられた南畝は、写楽斎についても、又、村田春海についても一切書き残していないのですが、この人名帳が出版に至らなかった事にこそ彼の意思が働いていたと推測することも可能でしょう。さてさて、今回の迷推理もそろそろお開きの時間が近づきました。「方角分」と能因法師を結ぶ細い糸についての説明をしておきます。

高槻にある能因法師の墓 加藤千蔭像  万葉集略解

村田春海には、同じ町内に住む一人の「友」が居ました。俗称を加藤千蔭(かとう・ちかげ,1735〜1808)と言い、父の代に松阪から江戸へ出て町奉行の与力となり、吟味役まで勤め上げた有能な江戸末期の官僚ですが、天明八年(1788)余力を残して引退すると学芸に専念、国学を賀茂真淵に学んで地力をつけていた加藤は、1803年には本居宣長(もとおり・のりなが)の協力も得て『万葉集略解』を上梓、各界から高い評価を得ました。実は、村田に八丁堀の「家」を周旋したのが加藤本人であり、彼の住まいも二筋違いの八丁堀にありました。加藤の姓は「橘」とされ、能因法師の末裔だと言い伝えられているのです。

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