フクスケ」と開高健、三文オペラ異聞                               サイトの歩き方」も参照してください。

福助とゑびす  「絵暦」の福助 福助とお多福の祝言

薄暗がりの埃っぽい凸凹道を、一人の男が頼りない足取りで歩いている。別段、何の目的がある訳でもなさそうな気配なのだが、その様子からは立っているのがやっと、といった風にも見えた。

ここは、大阪の下町、どういうわけか皆は「ジャンジャン」横丁などと言うのだが、ふらつきながら歩いている男は、その名の由来を勿論知らない。

『この前、飯らしいもんにありついたんは、あれは、何日前のことやったんやろ』『なんや、騒々しい割には、案外、道は空いてるやないか』『ほんでも、この、美味そうな匂いだけはたまらんなぁ。こら、身体に悪い。なんぼなんでも、こんだけ、ええ匂いさせといたら、あかんわ。殺生や』

『こら、おっさん。あっち、行かんかい。そんなとこ、立っとったら、来る客もにげるわ。はよ、どっか行け!』

耳の傍から飛んできた罵声に、一瞬たじろいだ男は、一言も言い返さず、再び、路地をよたりながら歩き始めた。どこから、どうやって、この大阪の地に辿り着いたのか、年は、生まれは、そんなことは誰も知らない。ただ、彼は、そこに小説の主人公として突然、現れたのだ。

1930(昭和5)年12月30日、作家・開高健(かいこう・たけし)は大阪市天王寺区に両親の長男として生まれ、1943年4月、旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高校)へ入学する。その年の5月、父・正義が腸チフスのため他界、生活は困窮した。三年生になった年の夏、終戦。9月には学校の授業も再開されたが、彼は「パン焼き」「ポスター貼り」「家庭教師」などのアルバイトを生活のために続けながらも学業を放棄することはなかった。昭和26(1951)年9月8日「サンフランシスコ講和条約」が調印され、翌27年4月に条約が発効した。

  



1952年、開高には長女が誕生、翌々1954年2月、彼は壽屋(現在のサントリー)に入社し「宣伝課」に配属され、独特の「宣伝」で商品の売上アップに大いに?寄与した。55年11月、東京へ転勤。58年1月『裸の王様』で芥川賞を受賞。この年、開高は翌年秋に発表する『日本三文オペラ』執筆のため、大阪に戻って精力的な取材を行った。

  大阪でアパッチ族の取材をしていた頃の写真。随分と細身です。

「にいちゃん、にいちゃん、ちょっと、まちぃーな」

あてなど何もなく、限界を超えそうな空腹感をかかえ、歩き続けようとしていた彼が、そこ等じゅうの店先から流れ出し、容赦なく空間に漂い垂れ込め、誘い込むように鼻先を無情にかすめ去る、何か正体の分からない雑多な暖かそうな食い物の匂いが、人の心を遠慮会釈なく抉るほど狂暴なものだったのか、と冷静に捉えていたかどうかは、誰にもわからない。ただ、彼は空腹であり、食事を、食い物を強烈に求めていた。

「にいちゃん、ええ体してるやないか!!なぁ、ちょっと話しあるねんけど、つきおーてぇな」「まぁ、立ち話もなんやし、どっか、そのへんで、なんぞ食べながら、話し、しょうか」

男の背後から大きな声で呼び止めたのは中年の女性。顔は浅黒く体格も大ぶりで、男物の半そでシャツから伸びた二の腕は鍛え上げたような筋肉質で、黒っぽい長めのスカートをベルトのようなもので腰に括り付け、履物は歯の殆どがちびた下駄だった。謂われるまま、間口一間の、飯屋の千切れかかった縄暖簾をくぐった二人は、狭苦しい店の片隅に向かい合って座り、顔を見合わせた。60センチ四方ほどの年季の入った卓の脚の一本には「接木」が当ててあり、低く、安定の悪い椅子が小学校の教室を男に一瞬思い出させた。

「なに食べる、なにがええ?好きなもん食べたらええでぇ」

「なに食べてもええのんですか?ほんまに、なんでも?」

「あぁ、にいちゃんの食べたいもん言うたらええがな、遠慮しいな」

空腹は耐えられない程切実ではあったが、まだ、幾ばくかの理性を残していた男は、それでも自分では『一番安い』と思われるモツ丼を注文し、それを無我夢中で食べた。女は、その様子を、まるで珍しいものにでも出合った子供のようにギラギラ輝く二つの眼で、しっかり品定めしていた。

「富国強兵」を唯一とも云える国是として発足した明治新政府は、明治三年(1870)大阪城の東および北側約10万坪(正確には明治31年度の段階で104,407坪。敗戦時には工場敷地だけで12万坪あった)の敷地に、東洋一の規模を誇る「大阪砲兵工廠」と呼ばれる兵器工場を建設した。以後、75年、昭和20年8月14日の大阪大空襲で壊滅するまで、この「工廠」は兵器・弾薬を無尽蔵と思われる程、生産し続けた。

  明治期の資料に見える「大阪砲兵工廠」   

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ただの廃墟に過ぎなかった「工廠跡地」は、講和条約の発効に伴い徐々に「戦後」に向かいつつあった経済状況の中で、ある人たちにとっては「宝の山」として注目されることになる。其処には夥しい「鉄」の塊りが眠っており、それは、見方によれば、正に取り放題の「おいしい」果実だったのだ。誰言うともなく、人々が跡地の周辺に集り、幾つかのグループに分かれて、夜な夜な「仕事」を競い合った。開高が1958年に取材した人々の中には、その当事者も含まれていた。

「食べたばっかりで言うのもなんやけど、にいちゃん、ちょっと手つどうて欲しい事があるんやけど、家まできてくれへんか」

「そら、そうやわな。ただで、飯、おごってくれるはず、ないもんなぁ。そんな、うまい話しが、この世にあるわけないわ」

飯屋を出た二人は、暗闇の中を歩き始めた。女は、闇の中でも眼が見えるらしく、人一人がやっと通れるほどの路地を幾つも潜りぬけて行く。初め、その道筋を帰るときの為、覚えておこうと考えていた男だったが、直、その思いを諦め、小走りに先導する女の後姿を見失わないよう、必死の思いで追いかけた。『まだ、つかへんのかいな』男の思いが天に通じたのか、案内役の女が一軒の家の前で立ち止まり、戸を開けて中へ入り、叫んだ。

雑魚(ざこ)つれてきたでえ」(『日本三文オペラ』新潮文庫版、19ページ)

  大阪大空襲で廃墟となった北御堂

物語は、このようにして幕をあける。作品からは開高の、主人公の「フクスケ」と呼ばれる一人の人物に対する熱い思い入れを、随所に感じ取ることができる。勤労動員先で空襲に遭遇し、戦闘機の乗組員の顔が見える位の距離から機銃掃射され、田んぼの中を泥まみれになりながら転げ周り、逃げ惑う、その自身の姿が「仕事師」たちの動きに投影される。空腹を紛らわせるため、飲めるだけの水を腹に詰め込み、ズボンのベルトを締められる限り締め付けて、人様が食べる「パン」を焼く。滴り落ちる汗の思い出が「フクスケ」の背後に見え隠れしている。

     
     
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