扶桑国と黒歯国と邪馬台国                         「サイトの歩き方」も参照してください。

日本では弥生時代、紀元前数世紀の頃までには成立したとされる『山海経』を始め大陸の古い書物には、東方にあるとされる不思議な国々に関する記述が散見されます。その代表的なものが扶桑国です。扶桑(ふそう)は中国の伝説に登場する「東方の果て」に屹立する巨木のことで、太陽はそこから上るものとされ、この樹木が生えている土地を扶桑国と呼んだのです。古代地理誌の元祖とでも言うべき山海経は、その国々について次のように述べています。

  東方の海中に黒歯国があり、更に、その北に扶桑という木が立っており、太陽がそこから昇る。                  海経第四巻 海外東径
  大荒(辺境)の中に孽揺類羝という名の山があり、その山の上に扶木がある。その高さは三百里(およそ130メートル)
  湯源谷という谷があり、湯谷の上に扶木がある。一つの太陽が来ると一つの太陽が出て行き、太陽は皆烏を載せている。  海経第九巻 大荒東径
  黒歯の国がある。俊帝の子孫である。姜姓である。黍を食べ四鳥を使う。                                第十四巻 大荒東径

最後の行にある「俊帝」という人物は「帝舜」の別名であるとも考えられており、いわゆる「三皇五帝」の一人で、理想の君主「殷の祖神」を指しています。殷自体は紀元前十七世紀から紀元前十一世紀(前1046年)に存在したとされる古代国家なのですが、その「祖」俊は東方の天帝として古くから崇められてきました。また黒歯の国を治めているのが「俊帝の子孫」だとする情報の出どころ(根拠となる物)が何であったのかは、もう今となっては確かめる術がありませんが、少なくとも山海経が編まれた頃には一般にも広く流布していた「理想郷に関するお話」だったのだろうと思われます。山の彼方の空遠くではなく、東方の大海の只中にあるとされた君子国こそが扶桑の国だった訳です。

山海経  扶桑の木

史記・三神山  史記より 

中原を統一して「始」皇帝を名乗った秦の支配者は全国各地を精力的に巡察し、様々な政策を次々と具体化して国力の拡充に努めました。権力の頂点に立ち何不自由のない暮らしを満喫していた彼にも意のままにならないものがただ一つありました、それが過ぎゆく時間と共にすり減ってゆく自らの限られた寿命だったのです。発掘された始皇帝の陵墓が水銀で満たされた空間を有していたことから、一日でも自らの生命を永らえる目的で彼が日常的に水銀を服用していたのではないかとする説もあるようですが、不老不死を強く望んだであろう彼の胸の内を見透かしたかのような進言をする者が登場します。その代表的な人物こそ徐福と呼ばれた男です。

前漢時代の歴史家である司馬遷(紀元前145?~前87?)が著した「史記」によれば、秦に仕えていた方士の徐福(又の名、徐市)は神仙思想に深い興味を抱いていた始皇帝に対し『東方の三神山に長生不老の霊薬がある』と言葉巧みに上奏、皇帝から莫大な資金援助を引き出し「三千人の若い男女と多くの工人(技術者)更には五穀の種多数」を積み込んだ大船団を組み、大海に漕ぎ出したと伝えられています。また史記は徐福が「平原広沢を得て王となり帰国することは無かった」とも記述していますが、我が国の各地に徐福「伝説」が語り継がれているのも又事実で、古代史ファンに限らず史跡?を訪ね歩く方は今でも少なくありません。ただ、その一方で史記は徐福の言動に関して「秦始皇本紀」の中では、

  還りて呉を過ぎ、江乗従り渡り、海上に竝い、北して琅邪に至る。徐市等、海に入り、神薬を求め、数歳なれども得ず。費え多し
  譴(せめ)られんことを恐れ、乃ち詐りて曰く『蓬莱の薬、得可し。然れども常に大鮫魚の為に苦しめらる。故に至るを得ざりき。
  わくは善く射るものを請い、與に倶にせん。見われなば則ち連弩を以て之を射ん』始皇、夢に海神と戦い、人の状(かたち)の如し。占夢博士に問う。
  曰く「水神は見る可からず。大魚蛟龍を以て候と為す。今、上、祷祠(祈祷祭祀)備わり謹めり。而るに此の悪神有り。當に除去すべし」

とも述べて徐福が一旦は海に漕ぎ出したものの「数歳(数年)」経っても神薬を手に入れることが出来ず、始皇帝に咎められることを「恐れ」「詐(いつわ)りを言上したとありますから、果たして彼が我が国までやってくることが出来たのか、大いに疑わしいのも確かなようです。秦の頂点で君臨した皇帝は様々な情報源を全国的な規模で網羅していたでしょうから、生半可な「言い訳」は決して通用しなかったはずなのです。それでも尚処罰を即断しなかったのは、やはり心の何処かで不老不死の妙薬を得る術が残されているかも知れないと一縷の望みを徐福に託したい生への強い願望が始皇帝の心理を支配していたのでしょうか、それはさておき。

時代は一気に数世紀ほど下りますが、著名な邪馬台国の女王・卑弥呼について陳寿が記した魏書東夷伝にも黒歯国の名前が登場します。そこには「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆、倭種なり。また侏儒国その南にあり、人の長、三四尺、女王国を去る四千余里。また裸国、黒歯国あり。また、その東南にあり、船行一年にして至るべし」とあり、魏の使者が倭国を訪れた際に得た何かしらの「情報」が短い記事の文章に反映されている可能性があります。貴方は、それらの国々が何所にあったと思いますか?偶には日本地図を本棚の隅っこから引っ張り出して空想に耽ってみては如何。

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