写楽の「落款」と複製版画、二人の写楽?                     サイトの歩き方」も参照してください。

寛政六年、夏五月、花のお江戸に突如出現し、あっという間に姿を消した謎の天才画家・東洲斎写楽の「落款(らっかん)」(署名)をめぐる迷推理と、その無残極まりない結末については『写楽が誕生した日』『写楽を探せ』『落款の謎とワナ』などに、それぞれ臆目もなく詳しく事細かに書いてあるので、オノコロ・シリーズの忠実な読者の皆さんは、その余りにも分りやすい主旨と大失敗の原因を、よく理解されたことと思いますが、例によって、このページに初めて足を踏み入れた幸運?な方のために、一言だけ注釈を入れてから、今回のお話しを進めてゆくことにします。

写楽の署名部分、つまり「落款」と言われる文字列に関しては、これまでも余り詳しく論議されることは無かったのですが、それでも「東洲斎写楽」から「写楽」への変化などに関しては、画風の移り変わりと絡めて解説されることがあり、また「誤字」の存在も早くから指摘されてはいたのです。ただ、管理人が上の各ページで取り上げたような「文字」そのものの異同を正面から論じた文章は無かったように思えます。……で、それは、こういう事です。「東洲斎写楽 」の落款には大きく分けて二種類あり、それぞれ別人の手によるものではないのか?

その「」の字の違いは拙い言葉で説明するよりも、画像で紹介した方が手っ取り早いし分りやすいので、以下順にあげてみます。字の違いというのは「凵」(かんにょう)の中が「」なのか、或いは「」なのかと云う点にあります。まず「」から見てみましょう。云うまでも無く、この「」という旁(つくり)が意匠的には有り得ても「正しい漢字」でないことは明白です。

俺が写楽だ  江戸兵衛  鰕蔵    明らかに「」です

前回「落款」を取り上げた折、世界的にも著名な外国の美術館が「複製品(後から似せて造った物)」を展示・公開するはずが無い、という勝手な思い込みでエライ目に遭っていますので、今回は、少し慎重・大人?になりました。上の三点は何れも東京・国立博物館が収蔵している重要文化財クラスの逸品なので、よもや複製では無いでしょう。そして、それぞれの落款は「明らかにの字」に作ってあります。そして、今回、資料集めの過程で判明したのは、国立博物館ボストン美術館の各々が収蔵している、そしてWEB上で鑑賞することが出来る写楽作品の「全て」(百数十点)が「」の字に作ってある、という事実でした。では、これまで管理人が「発見」してきた「」の落款がある多くの作品の作者は誰なのか?それが、今回のテーマです。

大阪・キタの中之島図書館を訪れるまでは、別段、これといった「収穫」が直ぐ見つかるとは流石に暢気物の管理人も期待していた訳ではなかったのですが「東洲斎写楽」という検索語で最初にひっかかったのが『東洲斎写楽画集』(以下「4年画集」と呼びます)という何の変哲もない一冊の大型本、出版年は1929年(昭和4年)なのですが「出版者は不明」となっており、書庫から出してもらい調べてみると確かに古びれた写楽の浮世絵版画(複製品)が十二点貼り付けてはあるのですが、奇妙なことに画集には奥付も何も、文字の類が一切無かったのです。それでも何か手掛かりの様なものが見つからないものかと思い、図書館の方に事情を説明すると『その時期に受け入れた画集は大体一まとめにしてあるので、似たようなものがないか調べてあげる』との事。暫く閲覧室で待っていると、全く同様の装丁、紙質、大きさの画集が、もう一冊現れたのです。そして、その奥付には、次のような文言が並んでいました。

  東洲斎写楽版画集英」臨時号  昭和3年12月15日発行
  発行兼編集人 安達豊久  発行所 浮世絵版画集成刊行会  定価15円(現在の価値に直して約870円位か)

この発行人は恐らくアダチ版画研究所の創始者である安達さんに間違いないようです。同所のホームページによれば氏は大正の半ば頃に浮世絵の世界に入り『関東大震災を機に関西へ移住、1928(昭和3)年に独立して』木版画を作り始めたそうですから、この僅か3枚(1松本幸四郎・中川富三郎、2市川富右衛門・佐野川市松、3市川男女蔵・大谷鬼次)の浮世絵版画を集めただけの「臨時号」は、安達豊久が初めて世に問う作品集の予告編であり、先に見た「4年画集」は「版画集」の見本或いは画集の一部そのものではなかったのでしょうか、その様に想像されます。(予告が昭和3年12月に出ていたのなら、本編の刊行(及び図書館への収蔵)が翌昭和4年であったことと何等矛盾しません)そして一枚ずつ版画を見てゆくと…ありました、ありました、何と12点のうち4点が「」に作った字体になっています。では、先に「」の落款がある、ボストン美術館所有のオリジナルから紹介してみます。1作目は松本米三郎の「けはい坂の少将、実はしのぶ」です。右目横の鬢部分も比較のために引用します。

  本物は、やはり「」になってます。 縦髪の横線に注目

では、これが「4年画集」の複製品と思われる版画ではどうなっているのかと云うと…。(画集の画像は一旦、複写したものをスキャナーにかけていますので粒子が荒れています。縦に入っている折じわの様な黄色い縦線は元々あったものです)

   署名の「画」は「」に象られています

オリジナルの落款がやや不鮮明なのは恐らく雲母(キラ)摺りという特別な仕様の結果「板に彫られた文字が版画の表面に馴染まなかった、つまり印刷しにくかった」からではないかと想像されるのに対して「4年画集」のそれは「いかにも署名しました」と云わんばかりに鮮やかで文字列の歪みも余り目立ちません。そして、彫りの細工にかんしても相違が見られます。その最たる部分が「右目横の縦に降りた髪形」なのですが、どう「違う」のかは、皆さんが、その目で確かめてください……、本物の凄さが分りましたか?では、次の作品、二世坂東三津五郎の「石井源蔵」に移りましょう。こちらもボストンにあるオリジナルから貼り付けます。(一番右に置いた物は、黒地の着物にある紋の模様です)

   刀の柄に注目してください  紋の柄も鮮明です

この源蔵が「4年画集」になると次のようになります。先ず、落款から、そして刀、着物と並べてみます。

」ですね。 柄の模様に注目。 紋の模様が全く消えています。

落款の文字は「」そのものに間違いありません。そしてオリジナルの着物にはきちんと彫りこまれていた「紋」(三津五郎を象徴した家紋なのかも知れません)が「4年画集」では消えています。これは復刻の際の「手抜き」作業ととられても仕方ありませんね。そして、少し見づらいかも知れませんが「刀」の柄部分の模様も微妙に異なり、特に柄の最も先端の部分に嵌め込まれた金属部分(オレンジ色の部分)にある菱形の模様も両者ではかたどりが違っています。この「刀の柄」にある模様の違いについては国立博物館の収蔵品とも比較が可能なので次に紹介してみます。

三作目は八世守田勘弥の「鶯の次郎作」です。これもボストン・国博から見てゆきましょう。(スペースの関係上、全体像はボストン美術館のもの一枚だけにします。従って、左3枚がボストンの画像になります。全体的に国立博物館収蔵の作品が赤味を帯びているのは原画そのものが赤くしてあるためで、何かの加工を施した訳ではありません。念のため)

守田勘彌    国立博物館の収蔵品

落款は見難いものの「」であることは確かなようです。そして次郎作が着物の上に羽織った袖なしの肩部分(茶色い所)の模様に着目してください。「4年画集」に移ります。

 「」の字体になっています   櫛目の様な模様に違いが…   

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

分かりましたか?着物の模様は、明らかにオリジナルが、その細かな表現で優っています。彫り師の技量の差なのか、それとも原画そのものが劣っていたのか?今となっては、どちらとも判別がつきませんが、見る者にとっては「手抜き」仕事であることに変わりはありません。また国博の収蔵品のアップが、ボストンのものに酷似していることも分ります。

落款」に細工をしたのは一体誰なのか?

4作目は中島和田衛門「ぼーだらの長左衛門」、中村此蔵「神奈川」です。これも写楽の特色或る作品の一つとして紹介されるケースが多いものですから、皆さんにもお馴染みだと思います。先ずは、ボストン収蔵の一枚から。(尚、この作品のみ落款が「写楽画」となっていますが、国立博物館の収蔵品ニ点では、いずれも「東洲斎写楽画」となっており、ボストン収蔵品の「東洲斎」に相当する部分の色合いが微妙にぼやけた感じになっているので、誰かが「東洲斎」とあったものを細工して見えなくした可能性があります。参考のため国博の一枚から東洲斎写楽と二行になった落款部分の画像も載せておきます。時間のある方は、一度、ボストン美術館を訪ねてみて下さい。そうすれば落款だけではなく「極め」印の文字も明らかに異なっていることが分ります)

  明らかに「」です  髪の形に注目!

画面に向かって左側の人物の髪(細かく言えば毛先の湾曲部)を覚えておいて下さい。「4年画集」にある作品では、落款も「」の旁に変わっています。同じ作品(複製品であることを明記)が東京の都立中央図書館(右側の2枚)にもありましたので並置してみました。

「田」ではありません。   「毛先」が消えてしまっています。

以上が今回「発見」した「4年画集」とオリジナル作品との相違点なのですが、ここから分ってきたことは、

  1 写楽は「画」の字の旁が「」だと思い込んでいた(正しい字を知らなかった

  2 正しい「画」の字は複製品だけに見られるものである(だから、態々「」に直した)

  3 複製品にも「」に創った落款がある(複製品にだけニ種類の落款がある)

  4 複製品は、昭和以前から市場に流通していた

等といった事柄です。但し「1」については、写楽が意図的に、つまり独自のスタイルの延長として「敢えて」間違った字体を選んだ、という可能性も捨て切れません。そして、反対に、その「意図」は無く、彼が本当に「画」の字を間違って覚えていたのだとすれば、落款の文字が総体的に稚拙であること等から、「文字を書き慣れていない人物」像が浮かび上がるのです。更に、疑問は尽きません…。若しも、誰か後世の版画職人(絵師あるいは復刻の責任者の立場にあった人物)が、正しい「画」の字体を複製品の落款として使用したのだとしても、

  それが、何故、一部の作品にだけ

採用されたのか、その「基準」は何だったのかが良く分からないのです。(複製品であることを示すサインの様なものとして扱われていたのなら、全作品で「画」の字体を使うべき)浮世絵版画の複製、復刻は明治中頃から一つの「仕事」として商いされていたようですが、慶応義塾の高橋誠一郎(1884〜1982、日本芸術院院長)も、昭和9年刊の『浮世絵版画大鑑』の中で、市川高麗蔵の志賀大七について、

  クルトが其の著「写楽」の表紙に刷り付けたのが此の図である。
  本図は写楽の大首絵の中で最も有名なものの一つで、既に複製も多く行われていて

と「解説」しているように、著名作家の作品の複製・復刻は明治以降盛んに行われていたに違いありません。これは『浮世絵版画誌』(大正8年6月刊)の著者エー・デー・ファイッケ(この人物は「写楽・阿波蜂須賀家の能役者説」を強く支持している)が、その312ページで、

  写楽の作は数多くない。現今(大正中頃)では非常に稀なものとなっている

と述べているように、写楽作品の人気が大変高かったにも関わらず、作品(オリジナル)数が極めて限られたことから、常に受給バランスが均衡を保てないという事情が複製を促す背景にあったのでしょう。この様な折、美の神様は一人の天才を世に送り出したのです。彼の名を高見澤遠治(たかみさわ・えんじ,1890〜1927)と言います。その華麗で見事としか言いようの無い「仕事ぶり」は実の姪・高見澤たか子の『ある浮世絵師の遺産−高見澤遠治おぼえ書』(昭和53年、東京書籍刊)に詳しく語られていますが、昭和3年8月、雑誌『文芸春秋』が催した浮世絵座談会に出席した東京帝国大学教授の藤懸静也が、松方コレクションの復刻作業に纏わる話の中で、

  高見澤が入念に作ったものは真物か、贋物か鑑別がつかない

と告白している様に、正に彼の「作品」は「見事さにおいて空前絶後」のものだったのです。その遠治が浮世絵版元・だるま屋の招きを受けて大阪に移り住んだのが、関東大震災から三ヶ月後の大正12年12月。だるま屋のために「特別」の複製を行う中で画家・岸田劉生(きしだ・りゅうせい、1891〜1929)との親交も深まったと云います。関西で彼の評判が高まるのに長い年月は必要とされませんでしたが、病を得た天才絵師は昭和2年6月、わずか36歳の生涯を終えたのです。天才・遠治は別格としても昭和初期の美術界では浮世絵の復刻が一つのブームになっており、多くの絵師・彫師そして摺師が、それぞれの持ち場でそれぞれの「仕事」をこなしていたのです。写楽の落款についての「謎」は、より古い複製品との比較対照という地道な方法でしか答えを見つけることが出来ないのかも知れません。

国立国会図書館は『東洲斎写楽画集』(安達豊久編、大正15年グラフィック社刊、第1〜6輯)という6冊の画集を所蔵しているそうですが、これが、今見ることの出来る「最も古い、そして出自が明らかな復刻品」なのかも知れません。

閑話休題、その高見澤遠治ですが、このサイトの主人公である中原中也と全く無関係な人物なのか、と云うとそうでもありません。大正半ば遠治の家に書生として住み込んでいた従兄弟の高見澤仲太郎(たかみさわ・ちゅうたろう、1899〜1989)は、漫画『のらくろ』の作者として著名な田河水泡その人なのですが、水泡の夫人・潤子は中也と親しかった評論家・小林秀雄の妹なのです。そして、そして「田河水泡」のペンネームは本名を捩った「たかみずあわ」から付けられたものだった、そうです。八代目・坂東三津五郎(1906〜1975)と親しかったという名人・遠治は、ひょっとして写楽の実名を知っていたのでは?そう思えてなりません。

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