小説 蘇我稲目正体を見せた!                                        サイトの歩き方」も参照してください

越の国から男大迹王の担ぎ出しに成功した物部麁鹿火には一つの誤算があった、と前回のオノコロ・シリーズを締め括りました。継体帝と摂津三嶋に関する資料を集めている過程で浮かび上がっていた一つの疑念が、次第に明らかな形を取るようになったのです。ただ、その「仮説」を証明することが出来る物的な資料を、読者の皆さんが納得できるほど提示することは極めて困難です。そこで、今回は推理ではなく「物語小説」の形式を取りながら、その「仮説」によって古代史の幾つかの謎を解くことにより<、翻って「仮説」の信憑性を支える「状況証拠」にしてみたいと思います。お話は、麁鹿火(荒甲)の、独り言の場面から始まります。

金村たちの本音が何処にあるのか、お互い腹を割って話した訳では無いが、己の思いと、そう変わりはすまい。兎にも角にも先の大王のような妙に仕事熱心な方は、周りの者がやりにくい。その点、田舎暮らしが長かった今度の大王は、周囲の者の言うとおりに動いてくれるに違いない。何しろ、もう年も歳なのだから、取り敢えず手白香媛との間に御子が産まれれば上々、若し、それも叶わなければ、また、大王縁の人物を探し出して、先王の娘と見合わせれば良いのだから…。

日降丘(茨木市)  大酒神社

大連物部麁鹿火(もののべ・あらかい、荒甲とも記す)は、とても自負心の強い男だった。取り分け己の祖先一族が、この国の基礎を自ら創り上げてきたことを無上の誇りとしていた。決して口に出したことはないが、物部は大王とも対等な家柄であり、むしろ物部が大王たちを守り育ててきたのだという思いが彼の信念でもあった。『血筋なら誰にも引けをとることなど無い…』

記紀神話が後に伝える事になる様に、物部氏の祖先である「ニギハヤヒ」は、神武帝の「東征」に先駆けて『東のうまし地』に、

  天岩船に乗りて飛び降り

たとされ、神武帝はニギハヤヒの居る『六合(くに)の中心』である「東の地」に行って『都を作る』のだと正史の中で明言しています。そして、物部の祖・ニギハヤヒが「天降った」場所こそ摂津三嶋の「日降り丘」であったのです。先の大王・武烈が亡くなり、その後継をどうするかが審議された折、大伴金村が越の男大迹王の名前を持ち出さなかったら、麁鹿火は別な人物を他から探し出していたでしょうか?。日本書紀は「継体天皇」本紀の冒頭で、

  小泊瀬天皇崩りましぬ。元より男女無くして後嗣絶ゆべし。

と不安を煽るように記録していますが、この心配は杞憂に過ぎませんでした。武烈には多くの姉妹たちがあったからです。(下の画像参照。左から四人目に手白香皇女の名前が見えます)しかし、金村が男大迹王こそ次の大王に相応しい人物だと合議の席上で態度を明らかにした時、麁鹿火の頬が思わず緩んだのは、王が物部一族と極めて縁の深い尾張の連の娘を正妃とし、既に二人の王子まで儲けていたからに他なりません。しかも、王は正に還暦に手が届きかけた「老人」であり、豪族連合の長たちが「中継ぎの役」として考えている人物としても理想的な存在であったのです。男大迹王には、今回の「大王就任」で恩を売り、金村の地元近くで静かに暮してもらい、王と先王の媛との間に王子が誕生したなら、王子が成人するまでの間、その後見役として国を預かり、かつて太祖ニギハヤヒが治めていたように、この国中を栄えさせてみるのも一興だろう…。

本朝皇胤紹運録より  PR

越の田舎に隠棲していた只の「老人」だと半ば見下していた大王が意外に諸般の事情に詳しく、中でも宮が置かれている河内国内は勿論、近隣の摂津国、山背国更には大和、吉備、出雲などの情勢についても詳細に承知していることが不思議で、それとなく警護の責任者達に話を聞くと、今度の大王は比較的身分の低い者でも、自分を訪ねてやってくる者は分け隔てなく邸の中まで招き入れ話し込んでいるらしい。その中には国外に本貫を持つ者も混じり、何やら珍しい宝物を持ち込み大王の機嫌を取る輩も多いようだ。これまで歴代の大王たちは、半島内での利権に強い関心を示し、大国の皇帝から色々な称号を貰うことに多くの労力を費やしてきたが、新王の視線は国内外に均等に向けられていた。

皇女の胎内に芽生えた新しい命は、次の大王となって結実した。麁鹿火たちの思惑の一つが現実のものとなったが、彼自身の野望が日の目を見ることは無かった。継体二十一年夏六月には筑紫国造磐井の謀叛という思わぬ大事に遭遇はしたものの、男大迹王は恙無く大王の務めをこなした。そして、何より、天寿を全うした。時に八十二歳。さすがの麁鹿火も、大王の寿命まで見通すことはかなわなかった。

「稲目」は安閑の息子(豊彦王)だったのか

男大迹王を大王として迎え入れるに当たっては、王本人と畿内の主だった豪族連合の首長たちとの間で一つの決め事が存在していた。それは、

  大王と手白香媛との間に生まれた王子を次の大王とする

と言う極めて現実的な「約束」事であったのだが、男大迹王は表情一つ変えるでもなく平然として、部族連合の「要求」を呑み『先王たちも当然、そのように望むに違いない』と応えて族長たちを喜ばせた。ただ、早くから地方に土着して自らの才覚、実力だけを頼りに運命を切り開いてきた強かさを持ち合わせていた王も、交換条件を持ち出した。それが、

  既に成人している二人の王子への保障

問題であった。つまりは「分家」させて欲しいという事なのだが、皇別という概念から長らく遠ざかっていた畿内豪族たちは最初、中々、この提案を理解することが出来なかったのだが、王と同様に、二人の王子にも武烈の娘を輿入れさせ、かつ、彼らが将来に亘って生活できるだけの財産(土地)も付与すれば良いだろうと云う穏当な結論に落ち着いた。兄には和邇氏を母に持つ春日山田媛が、弟には祖母が和邇氏である橘仲媛が嫁ぎ、一躍、和邇氏の存在感が増した。すくすくと元気に育つ、孫のような男の子の未来を幾重にも確かなものにする目的で、或るとき大王は年嵩の二人の王子と親しく語り合い、次のように指示した。

  『先の大王の例を見るまでも無く。男の子が無ければ血統が絶えかねない。
   手白香媛との間に生まれた王子には、
   叶う限り、お前達の娘の全てでも娶わせてやって呉れ。
   それが、わしとお前達の血筋を絶やさない唯一の方策だ。』

親子三人で夜が更けるのも忘れて、越の国を出てから今までの様々な出来事を話し合ったのが、つい昨日のことの様に想い出される……。大王が亡くなり、それを待っていたかのように兄も亡くなった或る日、高市郡の檜隈に居た高田王子(宣化帝)の元を、見舞いと称して一人の男が訪ねて来ました。−−−ここから、新たな「神話」が生まれます。

  『叔父さん、お変わりありませんか?大事になさって下さい』
  『有難う。わしも年だ。お前の父とは三つしか違わないからな。そろそろかも知れんな…』
  『……実は、大切なお話があって、ご相談に上がったのです。』
  『こんな年寄りに一体なんの相談だ。』
  『それが−−−』

甥の話を要約すると、次のような内容でした。

  亡くなられた先王(祖父)が良く話しておられた事を、最近、富に思い出します。
  中でも最も印象的だったのが血筋を守れ、新大王を守れというお言葉です。
  それで、一体どうすれば先王の望みに叶うのかを私なりに懸命に考えた結果、
  一つの答えにたどり着きました。
  兄が弟に仕えて国を栄えさせたという故事もあると聞きますので、
  私も新大王の許に仕えて国の発展に身をささげたいと思います。

この話を黙って聞いていた叔父の脳裏には、一瞬、まかり間違えば国を二分する危機をも招きかねないとの危惧の念がよぎったのですが、聡明で博学、取り分け海外の事情にも詳しい甥が国政に参加することに害は無いと判断するに至ったのです。そして、王家始まって以来の人事が欽明朝でお披露目される運びとなりました。記紀はこぞって宣化帝のとき、初めて蘇我稲目を大臣(おおおみ)に登用したと記録していますが、小説の主人公は、叔父の許を辞す折、微笑みながら次のように語りました。

  叔父さん、本当に今日は有難うございました。体を労わって長生きなさってください。
  そして、私の、新大王の許での働きぶりを見届けてください。
  ……、それから、大王に仕えながら「王(みこ)」と名乗り続けるのも可笑しな話なので、
  新しい「名」を自分で考えました。明日から「いねめ」と呼んで下さい。−−その訳ですか?
  父は「まがりのおいね」で、優しかった田舎の祖母が「のこ」でしょう。
  二人の事をいつも忘れないように、あわせて「いねめ」にしたのです。面白いと思いませんか!

何故、新興氏族の「蘇我氏」が閨閥を作れたのか!

蘇我氏を巡る謎、特に、その出自については、それこそ「山ほど」も論文が書かれ、論議が重ねられてきました。そして未だに「これ」と云った結論も見出されてはいない様です。では次に、上で見てきた仮説によって、どれだけ古代史の謎解きが可能になるのかを検証して行くことにしましょう。ここでは、蘇我氏の祖先を『渡来系』の人物とする「説」には一切与しません。

  @ 宣化帝の時、初めて「蘇我稲目」が大臣に登用されるが、それまで記紀に全く記述が無く唐突である。
      記紀は継体の後を、長兄の二人が先に大王位を継ぎ、欽明につないだとしているが、即位の時期に関して齟齬が
      見られる如く、実際には継体の後は、欽明が即位したと考えられる。
      先帝の子息の誰かが強く反発したため、欽明側が妥協策として「大臣」の地位を約束したと考えても不自然ではない。
      そして、それが大王の最も近しい親族であったとすれば、政権の安定がなによりも優先されたと考えられる。

  A 欽明たちの夫人として「稲目」「蝦夷」の娘たちが多く輿入れし、短期間で閨閥を作り上げることが何故出来たのか?
      「宣化」帝の娘達三人すべてが欽明の皇后妃となっていることから推測して、現大王の夫人になる資格として
      王族の身分という条件があったと考えるべきであり「稲目」の娘たちが大王の妃となれたのも、また、その子供たちが
      次の大王の位に就けたのも「稲目」自身が大王に匹敵する「王」であったと考えるべきである。
      敏達の後、押坂彦人王に王位が渡らず「蘇我」系(母は堅塩媛)の用明に大王の席が用意されたのは、
      彼の母親の血筋(安閑〜稲目〜堅塩媛)が重視されたからと見るのが順当である。何故なら、押坂皇子の母は、
      より古い皇親一族の息長氏の娘だったから。(息長のラインは舒明で復活する)

  B 後、西暦645年の「大化の改新」の折「蝦夷」の邸宅に何故「天皇記・国記」が置かれていたのか?
      天皇記、国記および国造、公民本記など、当時のすべての公文書は「馬子」と「聖徳太子」が協力して編集していた。
      要するに誰の処でもなく蘇我「馬子」の自宅こそが国家情報全てを管理する場所であった訳で、
      ここからも「馬子」自身も「稲目」と同様に大王に近い「王」であったと考える方が自然です。
      そして、燃え盛る「蝦夷」の館から「国記(くにつふみ)」を決死の思いでいち早く取り出し、皇極「天皇」にではなく、
      中大兄皇子に「奉った」人こそ船史恵尺という名の男でした。この人物が欽明朝十四年秋七月、瀬戸内を中心とする
      船に関する「税」(通行税のようなものか)の徴収で帝に利益を齎せたとした姓(かばね)を賜った船史こと、
      王辰爾に他なりません。そしてそして、このオノコロの忠実な読者の皆さんは、その王辰爾を遣わした者の名前が、
      蘇我大臣稲目宿禰であったことを覚えているに違いありません。
      (事務官僚の元祖とも言える「王」一族は計数に明るいだけでなく、当然、漢文知識も豊富に備えていたでしょうから、蘇我氏たちの
       国記作成に関与していた可能性が十分にあります)

この他にも「蘇我氏」が欽明帝と肩を並べ得るほどの「存在」であったことを示す記紀の記述は枚挙にいとまもありませんが、ここでは最も著名な「出来事」に絞って併記してみましょう。

  @ 欽明が即位を前にして、何故、安閑の皇后・春日山田皇女に『百の政』を決めるように要請したのか。
  A 欽明は各地に屯倉を置くにあたり、何故、主に「稲目」だけを派遣したのか。
  B 欽明31年春三月に亡くなったとされる「稲目」の没年が資料により何故微妙に異なっているのか。
  C 敏達は吉備に屯倉を置くとき、何故「馬子」宿禰を遣わせ、数ヶ月も滞在(監督)させたのか。

それから後、物部氏との経緯があってから泊瀬部天皇(崇峻)の御世に移るのですが「馬子」宿禰たちは、欽明と堅塩媛の愛娘・炊屋姫尊(推古帝)を奉じて政敵の排除に乗り出し、崇峻元年秋七月には、最大の障害である物部守屋大連の討伐を計画します。この時、四天王の像を造り誓いを立てて「馬子」軍の戦勝を祈った最も若い皇子が厩戸皇子であったことはつとに知られた逸話に他なりません。崇峻が思わず大伴嬪小手子に洩らした、

  何れの時にか、この猪の頸を切るが如く、我が妬ましと思う所の人を切らん

の一言にどれだけの信憑性を認めるのか、人それぞれでしょう。しかし「蘇我氏」の血を受け継いだ額田部皇女は、己の最も近しい親族の間で皇位を巡り惨劇が繰り返されたにもかかわらず、推古帝として豊浦宮に即位しています。同二十九年二月、大王一族にとっても次の世代を担うべき人物として多くの期待を集めていた太子厩戸豊聡耳皇子が亡くなり、推古の跡を舒明、皇極と大王位が引き継がれて行きますが「蘇我」家の跡取り入鹿(又の名、鞍作)の「威(いきおい)」は『自ら国の政を執りて父(蝦夷)に勝る』有様、その威令の効き目は、

  盗賊(ぬすびと)も入鹿を恐れて、路に落ちている物さえ拾わない

ほどであったと書紀は伝えています。そして皇極が即位した正に、その年「蘇我」蝦夷は、天子の特権とされる、

  己が祖廟を葛城の高宮に立て、八つらの舞を行い

自ら「歌」を作って祝った後、今度は近隣すべての住民(百八十の部曲)を使役して「蝦夷・入鹿」親子の雙墓(ならびのはか)を葛木郡今来に作り、

  一つを「大陵(おおみささぎ)」と言い、一つを「小陵」と言った

のでした。この生前墓の造成に関しては「入鹿」親子が上宮(厩戸皇子一家)の支配下にあったはずの「乳部(みぶ)」の民をも集めて使役したことから、上宮大娘姫王が大いに発憤したとも伝えられているのですが、それは当時「蘇我臣」が、

  もっぱら国の政をほしいままにし…、意のままに、ことごとくの民を使役していた

実態があったと素直に考えるべきなのでしょう。翌年十月にある『大臣蝦夷、私(ひそか)に紫冠を子入鹿に授けて』との記述も、大王の「専権」事項を勝手に行えるほどの威勢があったと理解できます。そして歴史上に「蘇我氏」の悪名を留めることになる悲劇の幕が十一月十一日に切って下ろされます。世に名高い「山背大兄王襲撃事件」の詳細と問題点については、このサイトで既に何度も取り上げてきましたから、ここでは細部に触れません。(時間のある読者は該当のページを訪ねてください)書紀によれば、山背王は家臣たちが勧める具体的な対抗策を退け、国民に禍を及ばせないためにも『吾が一つの身をば、入鹿に賜う』と自尽し、事件の概要を知らされた大臣「蝦夷」は、いかり罵り、

  あぁ、入鹿、極甚(はなは)だ愚かにして、専行暴悪す。お前の命も危うくなるだろう

と吐き捨てる様に云い放ったそうです。つまり、これまで見てきたように記紀の編集者たちの価値観にも通じる処があるのですが、父親の「蝦夷」は、息子の「入鹿」が身内とも謂える山背王一家を自害に追い込んだ行為について、確かに、

  大変愚かな行為だ、良くないことだ

とは言いながらも、大王家の存続に直接影響を及ぼしかねない「一大事」であると認識していたような気配が微塵も無く、崇峻事件を記した文章などからも「大逆」を犯した犯罪者としての「蘇我氏」を糾弾しているといった感覚に乏しく、何か、冷静さを装ったよそよそしさだけが感じられるのは何故なのでしょう。勿論、千数百年も前の出来事を現代に住む我々の価値観・感覚で裁断してはいけないのですが、それにしても王家を構成していた人々、加えて王朝政権を支えていた有力氏族たちの「事件に対する傍観者的態度」に、血肉を有するはずの「生身」の人の温かさが感じられないのも事実です。閑話休題。

林臣」に育てられたのは誰だったのか!

斑鳩寺での王一族の最期に触れた場面で日本書紀は、民の間で歌われたと思われる童謡(わざうた)を取り上げた後、入鹿の名前に関し、

  『小猿』というを以っては林臣に喩う。林臣は入鹿ぞ

と殊更に「林臣」と云う呼び名を強調しています。以前にも別のページで「入鹿」の亦の名を取り上げましたが、今回も、彼が「王」並みの存在であった傍証として別名を考えてみましょう。「入鹿」の名前が、後世の権力者の意向を受けた記紀の編集者たちによって与えられた「穢い名前」である可能性が高いことは従来から指摘されてきましたが、彼には「鞍作(くらつくり)」そして「林臣」「林大郎」(林家の長男)」などの別名が存在します。一部の研究者は、この「林」を地名と解釈している様ですが、管理人はこれを「林臣」家で育てられた「蘇我」の「大郎」(長男)の意ではないかと考えています。当時、王家の子女も母方の実家(に近い関係のある豪族の家)で養育されたことは確かなようですから「入鹿」のような「別名」を持っている人物こそ、王家の家族に等しい高貴な存在であったことが十分に窺えるのです。(林臣については、考古学会でも著名な墨書土器も出土しています)記紀の書き手の側に、どのような思惑があったのか、今となっては想像するしかありませんが、竹内宿禰の後裔とされる羽田矢代宿禰の流れに林臣があることが分かっています。

入鹿神社 墨書土器「林」と読めます   PR

さて、皇極朝は三年春正月に中臣鎌子連(鎌足)を「神祇伯」に任命したのですが、彼は、この辞令を固辞し続け、とうとう「疾(やまい)」であると称して「三嶋」(大阪府三島郡)に引きこもってしまいます。この後、書紀は鎌子と軽皇子(孝徳)との関係を述べ、彼を、

  意気(こころばえ)の高く優れて、容止(かたち)なれがたきこと
  人となり忠正しくして、匡しすくう心有り

と最大級に持ち上げています。書紀は皇極三年秋の條に『葛野の秦河勝』が「常世の蟲」と称して人に勧める大生部多を「打ち」懲らしめた逸話を紹介した後「蘇我大臣蝦夷・入鹿」の二人が甘梼岡に家を並べて建て、

  大臣の家を「上の宮門(みかど)」と云い、入鹿の家を「谷の宮門」

と云った。更には「蘇我家」の「男女(子供たち)」を「王子(みこ)」と呼んだと伝えていますが、親子の家を護衛したのは漢直たち軍事の専門家であったとされます。城のような邸宅を柵で囲い、兵庫(つわものぐら)には兵器が蓄えられ、当時、最強の戦闘集団が「東方の従者」と共に仕えたのですから、これは正に「王」そのものの暮らしぶりと言って何ら差し支えありません。中大兄皇子が倉山田麻呂臣と密かに「三韓の調」を奉る日に大事を決行する相談をしたのが皇極四年六月八日、儀式当日十二日、天皇が臨席する朝堂に「入鹿」と古人大兄皇子が侍立し麻呂臣が「表文(ふみ)」を読み上げ始めました。「疑り深い」性格であったにも拘らず同席している者が古人と麻呂だけであることに疑念を持たなかったと言う事は「入鹿」の置かれていた地位が非常に高いものであったことを証明しています。(中大兄と鎌子には同席する資格が無かった?)

中大兄は「長い槍」を、中臣鎌子は「弓矢」を持って建物の傍らに隠れ、刺客に選ばれた佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田の二人に剣を授けて、

  努力努力(ゆめゆめ)、急須(あからさま)に斬るべし

と叱咤激励しますが「入鹿」を襲うことを「恐れて」食べたものも吐き出してしまう体たらくです。鎌子は再び刺客たちを「責めて励まし」ますが「入鹿の威を畏れる」小麻呂たちは前に進もうともしません。「咄嗟(やあ)」と叫び飛び出したのは中大兄でした。頭、肩そして脚を傷つけられながらも天皇の許に転げ出た「入鹿」は、

  臣、罪を知らず。請う、垂審察(あきらめたま)え。

と冷静に訴えました。書紀の、この段の記述を読んで感じることは崇峻事件あるいは山背王事件を扱った際には無かった緊迫感と臨場感です。只単に「細部」が描かれていると言うだけでなく場面、場面に登場してくる「人物」の仕草と息遣いが感じられるのです。それにしても「入鹿」惨殺を目の当たりにした古人大兄が私邸に駆け込み、

  韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し。

と家人に語ったと伝えられていますが「韓人」とは、一体どのような意味だったのでしょう。中大兄と鎌子が周到に準備をし、練りに練った「入鹿」暗殺計画は見事に実行され「悪役」親子は排除されました。天皇から『一体何事か?』と尋ねられた中大兄は、

  鞍作、天宗(きみたち)を尽くし滅ぼして、日の位を傾けんとす。
  あに、天孫をもって鞍作に代えんや

と答えたそうですから、正に「入鹿」が「日(ひつぎ)の位」(大王の位)を奪おうとしている、王家を傾けさせようとしている大逆人だと糾弾している訳ですが、それにしては彼ら親子が直ぐに墓に葬られ、家族による「哭泣(ねつかい)」も許されるなど、皇位の転覆を企んだとされる者に対する「処置」としては寛大すぎるようにも思えてならないのですが、皆さんのご感想は如何でしょう?推理「小説」の世界に於いて「犯人探し」をする場合、その出来事・事件の結果「誰が最も利益を受けるか」を目安にするそうなのですが、一族のホープ(厩戸皇子)の子孫全て、そして一族の大王(崇峻天皇)を排除する行為が「蘇我氏」に一体どのような「利益」を齎すものだったのでしょう?

「扶桑略記」部分 安閑陵出土と伝えられる容器

一旦は孝徳に大王の位を譲った皇極帝が重祚して斉明となった初めの年夏五月、

  空中(おおぞら)にしてに乗れる者あり。貌、唐人に似たり。
  青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて生駒山に隠れぬ。

変事があったと日本書紀が記していますが『扶桑略記』は、この本文を引用した後に『時の人言う、蘇我豊浦大臣の霊なり』と書き加え、また『帝王編年記』は更に『人が多く亡くなり、此れも霊の仕業だ』と言明しています。蘇我「入鹿」の最期に立ち会った皇極・斉明帝は七年七月に朝倉宮で亡くなりますが、その直後「皇太子」(中大兄皇子)が喪に奉従したあと岩瀬宮に至った其の夕方、

  朝倉山の上に、有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み見

葬儀に参列した『衆(ひとびと)』皆が不審に思ったとも記録されています。大悪人であったはずの「蝦夷・入鹿」親子が、自分たちを亡き者にした人々の前に姿を見せたのは、どのような理由があったのでしょう?

大辟神社の祭神は安閑天皇の皇子と物部守屋

京都、昔風に言うと山城国葛野郡に大酒神社が鎮座しています。社のお名前は元々「大辟(おおさけ)神社」であったそうなのですが、ここの主祭神は「秦始皇帝」「弓月王」と「秦酒公」の三柱。弥勒菩薩像で余りにも有名な広隆寺の創設者であり、先に、上で見た「常世の神」を懲らしめた秦河勝は酒公の六代目に当たります。つまり「大酒」神社は松尾、伏見稲荷の両社と並んで秦一族の祖神だと考えられているのですが、江戸末期の国学者・鈴鹿連胤(姓は中臣、1795〜1870)が著した『神社覈録』(全75巻)によると、別な祭神の名前が浮上します。それが、

  安閑天皇の御子・彦王と弓削物部守屋大連

の二人なのです。更に大辟神社そのものが、元々は東方1kmにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)の分社だとする言い伝えも残されているようです。蘇我「稲目」の娘であった堅塩姫が産んだとされる二人の大王は、それぞれ、

  用明天皇=橘日天皇  推古天皇=御食炊屋姫天皇

そして「蘇我氏」一族の中で最も「国民」全てに慕われたとされる「聖徳」太子、厩戸皇子の名前は、

  上宮聡耳皇子

でした。皆さんは、これらの人物に共通する「」の一字を単なる偶然だと思われますか?それとも、何かを私達に伝えようとする古代人からの暗号なのでしょうか!壬申の乱(672)から二十年目に当たる持統五年八月、朝廷は有力十八氏族の長に対して『その祖等の墓記を上進』するよう命じました。日本書紀の編纂に取り掛かるための布石でした。では、中臣連胤の著書の画像を紹介して、とんでも物語を終えることにいたします。

 一行目と三行目に「豊彦王」とあります。

     
     
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼