五十瓊敷入彦命と「宇度」そして阿蘇ピンク石について                           「サイトの歩き方」も参照してください

垂仁三十年春正月六日、大王は二人の皇子を呼び出して『お前たちが各々望むものを述べよ』と詔した。これに対して兄の五十瓊敷入彦命は『弓矢を得んと欲す』と答え、弟の大足彦尊(景行)が『皇位を得んと欲う』と返答したので、垂仁は『それぞれの希望通りにしよう』『大足彦尊は必ず我が位を継げ』と宣言したのだと書紀が記録しています。先帝(ミマキイリヒコイニエ)が「夢占い」という形で神意を問うたのに対し、如何にも垂仁は自らの考えだけで後継者を選んだ、つまり、より優れた大王なのだとでも云いたそうな口ぶりです。本筋からは少し話題が外れますが、ここで皇子たちの名前(諱)について少し述べておきたいと思います。垂仁の初めの皇后は開化皇子、日子坐王の娘・狭穂姫で、垂仁三年頃には長子の誉津別命(本牟都和気命、ホムツワケ)が誕生しています。当時の命名に一定の約束事があったのかどうか良く分かりませんが、垂仁記に『およそ子の名は必ず母の名付けるを』とあるのを参考にすると、母方が名付けの優先権を持っていたとも考えられます。一方、垂仁の諱は「イクメイリヒコイサチ」ですから、狭穂姫(サホ、亦の名・サハジ)との間に生まれた子供なのであれば「◎◎イリヒコ××」の様な名前になるのが普通であり「ホムツワケ」という命名は異例です。また「武器=武力」を求めたという皇子が「イリヒコ」を含んでいるのに対し「皇位」を望んだとされる「大足彦尊、オオタラシヒコオシロワケ」は父の名前も母親の名前(日葉酢媛、ヒバスヒメ。日子坐王の孫)の何れとも共通する要素を持っておらず、これも又、異様な名付けの例と言えそうです。伝えられた系譜を信用するなら、垂仁は叔父の孫娘と結婚したことになりますが、当時の平均寿命が三十代であったことを考慮すれば、通常有り得ない婚姻形態だったと言えるでしょう。崇神帝の名に含まれている「瓊」を「大変美しく大きな玉=皇統」の意味だと捉えるなら、本来、垂仁の跡を襲うべき皇子は五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)であったはずで、オシロワケの名を持つ皇子は後世の加筆造作が加えられた人物の名称ではないかとも思われます。

 瓊の系譜=改めて言うまでも無くアマテラスの直系、天孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵)の血統を意味する一文字だと思われます。崇神帝がヤマト王朝の実質的な初代王ではないかと見られているのも、その諱に「五十瓊殖(イニエ)」の文言が含まれているからです。その意味でも全く同じ「五十瓊」の名を持ったイニシキイリヒコが大王の位に登らず、その業績は伝えられるものの、没年や陵墓更には子孫などが極めて不明瞭であるのには、相応の事情があったと考えざるを得ません。時代が少し遡りますが、第六代(孝安、ヤマトタラシヒコクニオシヒト)と第七代(孝霊、オオヤマトネコフト)の二人の諱でも順序が逆ですが「タラシ」と「瓊・ニ」の名前が不連続に採られており、ここでも大王位の正統性を示す文字として「瓊」が用いられた可能性があります。つまり孝安という大王は居なかった(即位していなかった)のかも知れません。

垂仁天皇陵  珠城宮跡  古代系譜の一部

景行帝そのものは、崇神帝の血脈を継いだ八坂入彦命の娘・八坂入姫命を迎え入れて稚足彦(ワカタラシヒコ、成務)、五百城入彦命などを儲けていますから実在した大王だと見られますが、その子孫の異常な多さ(八十人)からも後世系譜の大幅な改編が行われたことは確実でしょう。これは、何世代か後になって大王の位に就いた応神一族(息長氏を含む)の血筋を大王家の本流として扱う必要が生じたためだと考えられ、皇子皇女クラスは勿論、一部の大王本人についても業績や系譜そのものに「修正」が加えられたと想像されます。今回の主人公である五十瓊敷入彦命も、垂仁皇子という位置付けがなされていますが、ある別の大王の「分身」だと見る事も出来そうです。その傍証となる記事が例の「裸伴(あかはだかとも)」に関わる逸話です。大王から弓矢を下賜されてから九年後の垂仁三十九年冬十月、茅渟(和泉の国)の菟砥川上宮に居を構えていたイニシキイリヒコは「剱一千口」を作って石上神宮に納めます。王子は、自らが奉納した剱を「神宝」として神宮の祭主をも務めたことになっていますが「裸伴」の製造に直接かかわった古代氏族が居たことも分かっています。右上の画像は東国の諸国造家の物と伝えられた系譜の一部分ですが、天津彦根命の子孫が「櫛努古理命」の世代で幾つもの家に分岐、そのうちの一家が「加志岐弥命」を祖とする白根造であり、彼の本業が「鍛冶」だったと記されています。(「裸伴」については様々な解説が研究者から出されていますが『あかはだか』という言葉通り、これは「アカ」=銅剣を指していると思います。この系譜の分註には『勅』の字が使われており、白根造に太刀作りを命じたのは大王その人だったとも読めます)

鳥取之河上宮(古事記)で剱を作るため皇子は『河上という名の鍛(かぬち)』を呼び寄せたと垂仁三十九年冬十月条にありますが、この「河上」が上の系図に見える白根造でした。そして大王は、剱を一旦忍坂邑(おしさかのへき)に収めた皇子に「楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部」の拾箇の品部を下賜したとも紀は「一書」の形で伝えているのです。凡そ、古代王権の成立に軍事力が不可欠なものであったとするなら、この時、皇子は全ての兵器(剣、弓、矢、楯)を与えられ、加えて「神器」製造の一部(玉作)も行い、行政面では人々の懲罰権も掌握(刑部)していたと見做せます(この時代に刑部があったとは考えられませんが…、紀の編集者たちは彼なら当然『刑部』も配下に従がえていたはずだと判断していた訳です)。また「穴磯部」を金属など鉱物資源担当「泊橿(はつかし)部」を土木土地開発担当の技術集団だったと仮定するなら、イニシキイリヒコという皇子はほぼ大王に匹敵する実権を有していたと言えるでしょう。いや、見方によれば大王にとって「危険」な存在に映った可能性すら有ると言えます。言葉を変えれば、それだけ政権側に信頼され優遇されていたのだと思います。

波多大社  宇土墓(淡輪)  PR

江戸中期、享保二十一、二年(1736)に刊行された『日本輿地通志畿内部』の「和泉志」によれば、皇子の住いがあった河上宮は「(阪南市)自然田(じねんた)」の辺りであり、剱作りは近くの「深日(ふけ)の鍛冶谷」周辺で行われたと記載されています。最寄りの駅は南海本線「鳥取ノ庄」で、すぐ西側には茅渟の海が広がります。宮跡とされる場所と駅とのほぼ中間の辺り、現在「石田」の字(あざな)を持つ蓮池の東南には鳥取神社を摂社に持つ波太神社が鎮座しています(祭神は角凝魂命と応神帝)。「鳥取」は垂仁帝にとっても大変縁の深い名前です。オノコロ・シリーズに親しんで下さった読者の皆さんは「ホムツワケの白鳥伝説」を直ぐに思い浮かべたことでしょう。言葉の不自由だった大王の初めての子供が大空を飛ぶ「鵠(くぐい)」の姿を見て片言を発しました。垂仁が臣下の者たちに『誰か、あの鳥を捕まえられるか?』と下問した時『臣、必ず捕えて献らん』と言上したのが鳥取造の祖、天湯河板挙(あめのゆかわたな)で、彼は鵠を追って全国を尋ね歩き、遂に遠く出雲の地(出雲国宇夜江、現在の宇屋谷)に詣って鳥を捕え大王と皇子に献上したのです。「新撰姓氏録」が鳥取連を『角凝魂命三世の孫、天湯河桁命の後』と記録し、物部氏の「先代旧事本紀」天神本紀は『少彦根命は鳥取連らの祖』と伝えています。「角凝魂命(ツノゴリ)」は余り聞きなれない名前ですが、剱彦(ツルギヒコ)のページなどで詳しく解説したように、天孫族の始祖とも言うべき素戔嗚の別名で鳥取の他では額田部宿祢、斎部宿祢、三嶋県主などの系譜にも顔を覗かせています。名前に含まれている「コリ」は古代鍛冶の代表でもある石凝姥命(イシコリドメ)とも共通し、上に掲載した系図にある「櫛努古理命(クシヌコリ)」は秘伝(櫛=奇し)を継承した「コリ」の意味合いが込められた名称だと考えられます。

宇度墓古墳  諸陵寮  和泉志  ピンク石

さて、時代は一気に下って十世紀、西暦925年に完成を見た「延喜式」諸陵寮に、

  宇度墓  五十瓊敷入彦命、在和泉国日根郡、兆域東西三町、南北三町、守戸二烟

の記述があることから、現在、南海本線淡輪駅の直ぐ東にある淡輪ニサンザイ古墳(全長170m、方円墳)が「陵墓参考地」として指定され管理されていますが、研究者たちにより同墳の築造が五世紀後半を遡ることは無いと思われますので、少なくとも皇子の陵墓では有り得ません。そもそも書紀自体が彼の最晩年の記事(妹、大中姫に神宝の管理を譲る話)を載せながら彼の死去に関わる事柄について一切沈黙しているのは五十瓊敷入彦命という人物の実像を暗示していますが、淡輪の地に築かれた古墳を「敢えて」皇子のものだと伝えてきたのは垂仁帝のお気に入りで祭祀にも詳しい、ツノゴリの後裔を称えた鳥取氏一族だったと想像出来ます。また、垂仁紀には「ハニワ」作りの始祖・野見宿祢の物語も含まれているように大規模な墓陵の造営も盛んになったようです。平成に入ってから大阪・今城塚古墳の石棺材の一部が九州熊本から運ばれた物だと分かり、その産地が宇土半島の馬門であった事も明らかになりました。この通称・阿蘇ピンク石を使った古墳は岡山、大阪、奈良、滋賀に点在しているのですが、今回取り上げた「宇度(うど)墓」が何故、遠く離れた特別な石材産地と同じように呼ばれているのか?と云う謎の解明には至りませんでした。地元の教育委員会にも尋ねてみましたが、淡輪駅周辺に「うと・うど」の字を持った地域は一つも存在しておらず、記紀や延喜式の文章が最大の根拠のようです(菟砥川は阪南市自然田の近くを流れており、淡輪とは相当離れています)。

ただ、熊本の宇土と茅渟の菟砥をつなげる傍証が皆無だという訳でもありません。阿蘇ピンク石を含めた阿蘇溶結凝灰岩の産地は馬門だけではなく、最も早い時期(四世紀後半頃)に切り出されて近畿地方に運ばれた石材は馬門より南東の位置を流れる氷川(ひかわ)の下流域だったと推測されています。そして、宇度墓とは和泉山脈を挟んで反対側、紀ノ川沿いに築造された大谷古墳(全長67m、方円墳、和歌山市大谷)から阿蘇石の組合せ石棺が出土しているのです。この古墳は紀氏一族のものではないかと見られており、築造年代は五世紀後半まで降りますが、九州と和泉、紀州との間に古くから交流があり、葬送に関わる重要な資材が運び込まれていたことが明らかになっているのです。垂仁の皇子は紀州の直ぐ近くで剱作りに励みました。次回は初期ヤマト王権と紀国とのつながりに焦点を当ててみたいと思います。ヤマトタケルという記紀が語り伝えた英雄の原像が、若しかすると五十瓊敷入彦命に投影されているのではないか?そんな風に思う今日この頃です。

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