石舞台蘇我馬子の墓だったのか、古代の巨石文化                                「サイトの歩き方」も参照してください

小学校の図書室は、校庭の西側に沿って建てられた唯一の鉄筋四階建て校舎の北詰にあり、広くて大きな開閉式の窓が東に向いて開口しているため、冬場でも2時限目位になると暖かい日差しが廊下付近まで差し込み、読書には快適な空間を作り出していた。学校で習う科目に必要な参考図書、図鑑、辞典・事典、問題集などが並べてある棚とは別に、読み物を中心にしたコーナーもあり、そこには『世界の偉人』『昆虫記』などに混じり『世界の七不思議』や『少年探偵団』といった柔らかい書籍も顔をのぞかせていた。所謂「空飛ぶ円盤ブーム」が正確には昭和何年頃であったのか確かめたことはないが、子供たちの関心が宇宙や宇宙人そして謎の古代建造物に向かっていたのは確かなようだ。(東宝映画は、すでに昭和29年に怪獣シリーズ『ゴジラ』を公開しており、昭和31年には大映と新東宝が『宇宙人東京に現る』『空飛ぶ円盤恐怖の襲撃』をそれぞれ発表していますから、この辺りから子供たちの心の中で円盤への憧れが増幅し始めていたのかも知れません。本家本元のアメリカでは1947年6月と7月に『アーノルド事件』と『ロズウェル事件』が相次いで起こり、昭和22年がUFO元年と呼ばれる事になりますが、その背景には世界大戦がようやく終結した安堵感、そして新しい物・未知の存在への関心の高まりといった心理が横たわっていたのかも知れません)

子供向け週刊雑誌の「少年サンデー」が創刊されたのは昭和34年3月のことですが、月刊誌の「少年」では既に20年代の後半から鉄腕アトム、そして31年からは鉄人28号の連載が始まっており空想科学という一つの分野が小学生たちの日常の中にまで入り込んできたのは事実です。ピラミッド、スフィンクス、ストーンヘンジそしてイースター島のモアイ像などの古代遺跡、巨石文化の存在をいつ知りえたのかは不透明ですが、謎を秘めた石造物に対する関心は幼いころに植え付けられたもののように思えます。閑話休題。本棚か物置のどこかに日本地図があったら広げてみてください。西日本・近畿では範囲が広すぎるので兵庫県のページ辺りを開いて頂くと良いでしょう。山陽本線の起点、JR神戸駅から新快速で西へ半時間余り、明石、加古川を通過した次の駅名を「宝殿(ほうでん)」と言います。ここで降りて改札を南に出ると割合広い道路にでます。道沿いに更に西へ2キロメートルほど進むと生石(おうしこ)神社があり、その境内に『石乃宝殿』が鎮座しています。同社の『略記』によれば、

石乃宝殿(正面)  側面  左側に突起が見える

  神代の昔、大穴牟遅、少毘古那の二神が、天津神の命を受け国土経営のため出雲の国よりこの地に座たとき、二神相謀り国土を鎮めるに相応しい石の宮殿を
  一夜の内に造営しようと工事を進めたが、阿賀の神一行の反乱が起きたたため二神は山を下りて数多くの神々を集めて、その賊神たちを鎮圧した。ところが、
  夜明けがおとずれたため、造営中の宮殿を正面に起こせないままになってしまった。

もので、万葉集に収められている『大なむち 少彦名のいましけむ  しづの石やは 幾代へぬらむ』(巻三 355番)の「志都乃石室」こそ、石の宝殿なのだと言いたいようですが、西暦710年代後半に編まれた「播磨国風土記」印南の郡には、

  大国の里、大国と名付ける所以は百姓の家多くここに居り。故、大国という。この里に山あり、名を伊保山という。(中略)山の西に原あり、名を池の原という。
  原の中に池あり、故、池の原という。
  原の南に作石あり。形、屋のごとし。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもかくのごとし。名号を大石という。伝えて言えらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。

とあって、こちらは六世紀末から七世紀に造られたものだと云う「伝承」の存在を色濃く反映しています。また、大石(幅6.4m×高さ5.7m×奥行7.2m)のある一帯は物部氏の領地だったようですから、物部守屋(もののべ・もりや)が西暦587年に「聖徳」太子たち仏教容認派の王族連合軍に滅ぼされたため、作りかけだった石造物が施主の滅亡により放棄されたという解釈が出来ない訳ではありません。物部氏とのつながりで言えば、同風土記は餝磨郡伊和の里条において、

  昔、大汝命のみ子、火明命、心行甚強し。ここをもちて父の神患いまして、遁れすてんと欲しましき。

という不思議な系譜を載せています。解説するまでもなく「天火明命(ホアカリ)」は天孫族直系の神様ですから、オオナムチが父親のはずがありません。しかし、前回、天目一箇神のページで展開した推理を延長すれば、天津彦根命=天若日子?の子供たちを頂点とする天孫族別働隊が国造りで活躍した記憶が、各風土記に「出雲神」伝説となって書き記されたとも考えられます。例えば、賀古の郡・比礼墓の条には、

  昔、大帯日子命(景行帝)、印南の別嬢を妻どいたまいしとき、御佩刀の八咫の剣の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡をかけて、
  賀毛の郡の山直らが始祖、息長命、またの名は伊志治を媒ちとして、つまどい下りいでましし時

と記され、大王が播磨稲日大郎姫を皇后に迎える時「媒(なかだち)」となった人物が山直の始祖であったことを伝えていますが「新撰姓氏録」和泉神別は、その山直について『天穂日命十七世孫、日古曾乃己呂命の後なり』と伝え、播磨の豪族山直が、出雲国造と同様に天孫一族を名乗っていたことが分かります(ここで使われている「直」は「あたい」という姓を表したもので、人名ではありません。以下の「連=むらじ」も同様です)。大中伊志治という人物の実像は杳として判然としませんが、ヤマトを掌握して勢力圏を拡大していた景行帝の先の皇后、しかも後に伝説上の悲劇の皇子として青史に名を留める日本武尊の母親となる女性と大王の「媒」人が天孫を自任する物部の一人であり、その祖先が「出雲」と深い縁で結ばれていた事は容易に伺えます。ところで、推定500屯とも600屯とも言われる肝心の石についてですが、上で見た風土記印南の郡、大国の里の「中略」部分には、

  帯中日子命(仲哀帝)を神に坐せて、息長帯日女命、石作連大来を率いて、讃岐の国の羽若の石を求ぎたまいき。そこより渡りたまいて、未だ
  御廬(殯宮)を定めざりし時、大来、見あらわしき。かれ、美保山という。

の記述があり、伊保山一帯が石材特に石棺など古墳造営に必須な資材の調達先であったことを間接的に仄めかしています。時代は異なりますが、継体帝の今城塚古墳からも播磨産と考えられる竜山石の破片が見つかっており、大王家を初めとする実力者たちの終の棲家作りに播磨の石が重宝されていたことは間違いないようです。「石作」連は、その名前通り大王たち被葬者のための石棺作成を生業とする技能集団ですが「先代旧事本紀」が同氏の祖・建真利根命は『天火明命の六世孫』と記し「新撰姓氏録」左京神別にも同様の記述があるため、WEB上などでも石作氏が尾張氏と同族あるいは石作連は丹比氏の一族であるといった解釈が広くなされているようですが、先ず、丹比(多治比)氏について言えば、真人(まひと)の姓を持つ多治比嶋・池守親子たちは威名真人と同様、宣化帝(467〜539)を祖に持つ皇孫一族であり、管理者の立場でこそあれ現業の石作連と「同族」である事など考えられません。恐らく、姓氏録・和泉国神別にある『石作連、火明命の男、天香山命の後なり』(丹比連も全く同じ内容)という記事に引きずられた憶測だと思われますが「連」の姓を持つ「丹比連」は丹比真人とは別の家系と考えるべきです。ただ、延喜式神名帳に記載されている石作神社六社のうち四社までが尾張国内にありますから「火明命」という神様を介して何らかの繋がりがあったことは想像できます。その場合でも「男(子)」と「六世孫」では血統の意味合いが全く異なることだけは言うまでもありません。

石宝殿  鬼の雪隠  鬼の俎

ところで「石宝殿」と呼ばれる石造物は全国に幾つかあって、其のうちの一つが大阪河内に存在しています。旧河内国交野郡、現在の大阪府寝屋川市打上にある「石宝殿古墳」がそれで、一塊の岩を「刳りぬいて」蓋石を作成した珍しいもので、大きさこそ先の大石には及びませんが「コの字型」に加工された「蓋石」と「底石」それに左右に置かれた側石の四個を足すと、その重さの合計は凡そ50屯にもなります。また、ここの宝殿は、大阪茨木市の岩場から切り出されたもので、直線で約20qの距離を運ばれ、更に高良神社裏の斜面まで狭い地道を利用して持ち上げられたと考えられ、その労苦が忍ばれます。ただ「古墳」つまり石槨だと判断されてはいるものの、その立地から見て果たして「盛り土」が施され完成された古墳だったのか、或いは当初から石組だけが露出していたのではないか、と慎重な見方も一方にあるようです。被葬者については在地の豪族位しか思い浮びませんが、打上の東南東約3.5qの所にはニギハヤヒの天の磐船をご神体とする磐船神社があり、交野そのものが物部肩野連の本拠地であったことを思えば、ここでも物部一族が関係していることは確かなようです。(「新撰姓氏録」右京神別、物部肩野連、ニギハヤヒ六世孫、伊香我色乎命の後なり)

鬼の俎石舞台の石材は同じ場所から運ばれた

七世紀中ごろ古墳終末期の築造とされる寝屋川の宝殿に見られる大変珍しい「刳りぬき式」構造を持つ遺跡が奈良明日香村にもあります。恐らく読者の皆さんも一度や二度は、どこかで耳にしたことがある「鬼の雪隠・鬼の俎」と呼ばれる石造物がそれです(上の画像参照)。「俎(まないた)」と呼ばれている底石のある場所に七世紀後半に造営された石室の「蓋=雪隠」が何らかの理由で下の敷地まで転げ落ちたものだと考えられていますが、その「理由」が何だったのかは藪の中です。しかし、研究者たちによって石室の材料である石英閃緑岩がどこから運び込まれたのか、その採石場が何処であったのかが判明しているのです。巨石は明日香村細川谷付近の岩盤から採石されていました。そして不思議なことに飛鳥の名所として知られる石舞台古墳の石材も同じ所から運び込まれたものだったのです。通説に従えば石舞台古墳は飛鳥の実力者、蘇我馬子(?〜626)の墓であり、子孫の蝦夷・入鹿が乙巳の変(645年)で滅ぼされたため後世「見せしめ」のため墳墓が暴かれた事になっています。そこでヘソ曲がり管理人が、敢えて異説を唱えます。その前提とは…。

  @ 石舞台のある場所は確かに明日香の島庄に近く、嶋大臣と呼ばれた馬子の邸宅があったと考えても良いが、付近を流れる冬野川沿いの地域は先に見た通り
     石英閃緑岩の採石場であり、かつ同地域に生活基盤を有していた集団の古墳群が展開されている地域に隣接している。(細川谷古墳群、約200基)
  A 石舞台古墳自体が分かっているだけで7基もの小さな古墳を破壊した上に築造されている。(蘇我氏を支えたであろう集団への配慮が全く無い?)
  B 古墳時代も終わり近くなっていたとは云え、馬子ほどの権力者であれば手近なありふれた石ではなく、もっと別の石材が幾らでも集められたのではないか。
  C 何より、当時の最高実力者が、わざわざ自分の墓を自宅のすぐ近くに作らせるだろうか?日本書紀が舒明即位前期の中で『この時に当たりて、蘇我氏の諸族等
     ことごとく集いて、嶋大臣のために墓を作りて、墓所にやどれり』と伝えるように馬子の墓は寿陵ではなかったのだから、一族の意向で何処にでも作れたはず。
     現に、蝦夷と入鹿の親子は甘樫の丘に邸宅を構え『盡に、国挙る民、あわせて百八十部曲を発して』予め雙墓を今来(吉野郡)に造営している。
  D 山背大兄王の一族を滅ぼすなど専横の振る舞いがあったのは入鹿であり、何故、祖父の墓が「見せしめ」の対象として選ばれたのか。
     そもそも、石舞台が馬子の墓であるという以前に、石舞台の存在が文献に現れるのは江戸期に入った十七世紀であり、千年近く何の伝承も語られていなかった。

茂古(もうこ)に建つ気都倭既神社

だから、石舞台古墳は蘇我馬子の墓ではない、というのが今回の結語なのです。久しぶりにオマケ話を一つ披露してお開きにしましょう。石舞台古墳の直ぐ右手から東へ続く道があります。採石場のある細川谷を経て、うねうねと曲がりくねりながら藤原氏の聖地、談山神社に至る県道155号線を暫く登ると「上」という地区に着きます。これで「カムラ」と読ませるのだそうですが谷側の一角に小さな社があり案内板も立てられています。奈良県明日香村大字茂古の森172番地に鎮座しているのは式内社の気都倭既神社といい、元からの祭神は気都倭既命(キツワケノミコト)という神様です。「茂古」と書いて「もうこ」と読ませるのは、その昔、

  乙巳の変で斬殺された蘇我入鹿の「首」に追いかけられた中臣鎌足が、ここまで逃げてきて『もうこないだろう』と言って一休みした場所

だったからだそうです。それはともかく、この社の神様は、やはり物部氏とつながりを持っていました。「新撰姓氏録」左京神別に載せられている真神田曽禰(マカミダソネ)連の項には『神饒速日命六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命の後なり』の文言があります。物部と言い、また蘇我と云い、いかにも全く異なる家系であって書記が伝える「不仲」説を鵜呑みにする傾向にありますが、皇極紀二年十月条にある、

  蘇我大臣蝦夷、病によりて朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬う。また其の弟を呼びて、物部大臣という。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。
  故、母が財によりて、威を世に取れり。

の記事にもっと注目すべきなのかも知れません。権力中枢の階段を上り詰めようとしていた馬子の「妻」が物部の娘一人であったとは到底考えられませんが、その「物部」の源泉を辿れば伊香我色乎命そして更には饒速日の存在に行き着きます。ニギハヤヒの子孫たちに何代も続けて娘を嫁がせた天孫族が近江・三上氏であり、物部氏の象徴ともいうべき伊香我色乎命に三人もの娘を輿入れさせ物部一族の繁栄に大きく寄与した山背国造長溝もまた天津彦根命を祖とする三上氏の同族でした。山背、三上両家からは王族(彦坐王)や大王家(垂仁帝)にも娘が嫁入りして王権を支えていました。飛鳥時代をリードした「新興」豪族の蘇我氏、といった見方は修正の必要がありそうです。

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