石上神宮と物部氏「ふつのみたま」の実像                                              「サイトの歩き方」も参照してください。

歴史の古い神社だけに限らず「何々」という固有の名称(氏や土地の名など)を持っている社の多くは、かつて「何々」氏が自らの祖先神を祀るために建立したもので、日本史に登場する著名な豪族は勿論のこと『新撰姓氏録』に名前が収められているほどの氏族であれば、皆、自分たちの始祖を「神様」として崇めて「何々神社」を建てて、自らの血脈の正統な象徴として大切に守り続けてきたものです。千数百年という時間の流れの中で敢え無く朽ち果てたものも点在していますが、それは後裔が戦乱などにより四散したり、止むを得ない事情で本拠地以外の土地に移住したために、社を祀る者が不在になったものと思われます。その一方で有力氏族の氏神様は「氏上」である各氏の宗家(や社家)などにより手厚く祀られてきましたが、その中でも伊勢と並んで正史が「神宮」の尊称を公に冠している唯一の神社である石上神宮は、神武帝の東征神話で語り継がれる、次のような事績を基に創始された格別に古い社格を有した神社なのです。紀国の熊野に進軍し、荒坂津という所で丹敷戸畔(にしきとべ)を打ち破った時「毒気」を吐く神に遭遇した神武軍一行は悉く気力を失い倒れてしまいます。日本書紀、即位前紀戊午年六月条では、

  是によりて皇軍、復、振ることあたわず。時に、そこに有り。號を熊野の高倉下(たかくらじ)と云う。たちまちに夜、夢みらく。
  天照大神、武甕雷神に語りてのたまわく「それ葦原中国は尚、さやげりなり。汝、また往きて征て」とのたまう。
  武甕神、答えてもうさく「予、行らずというとも、予が国を平むけし剱を下さば、国、自ずからに平けなん」ともうす。天照大神の曰わく「諾なり」とのたまう。
  時に武甕雷神、登ち高倉に語りて曰わく「予が剱、號を韴霊(ふつのみたま)と言う」とのたまう。今、まさに汝が庫の裏に置かん。取りて天孫に献れ」とのたまう。
  高倉「おお」と曰すとみて醒めぬ。明旦に、夢の中の教に依りて、庫を開きて見るに、果たして落ちたる剱有りて、倒に庫の底板に立てり。即ち取りて進る。

と高倉が「剱」を手にした経緯を説明していますが、古事記の神武東征段では『この刀の名は、佐士布都神と云い、亦の名は甕布都神と云い、亦の名は布都御魂と云う。この刀は石上神宮に坐す』と分注があって「ふつのみたま」と石上との結び付きを強調しています。また物部氏の「先代旧事本紀」天孫本紀では、宇摩志麻治命(ウマシマチ、饒速日命と御炊屋媛の子供、物部氏の遠祖)の大勲を特に褒め称えた神武帝が「神剣=布都御魂」を彼に与え、その後、宮中に於いて祀ったと記しています。書紀の謂う「武甕雷神(たけみかづち)」は出雲の国譲り条で経津主神(フツヌシ)と共に登場し「五十田狭の小汀に降到りて、即ち十握剱を抜いて、倒に地に植てた」武甕槌神と同じ武神であることは明らかですから、神武の難儀を見かねた天照大神が彼の武力を頼みにしたのも当然と言えるでしょう(註:細かな相違点になりますが、書紀の編集者は国譲りの条と神武の即位前紀条において『つち』の字を書き分けています。その理由は不明ですが『雷』と『槌』に同じ読み[音]を与えています)。記紀のいずれもが「高倉下」を態々「人の名」であると注釈を付けているのは、この人物がどの氏族の祖先であるのかを記していない事と合わせて、大変、意図的な扱いを感じますが「先代旧事本紀」だけが饒速日命の子である「天香語山命(あめのかごやま)」の別名であると記載しているのは物部氏と尾張氏の間では、同じ趣旨の伝承を共有していた証と捉えることが出来るかも知れません。ただ、筆者としては天孫族の一員である物部の宗家と、本来、海人族であるはずの尾張氏の祖先が「共通」している事など有り得ませんから、記紀の沈黙にはそれなりの意味があったのだろうと推測しています(帝紀などが書き継がれて行く過程に於いて、継体帝の二人の息子、安閑と宣化を産んだ尾張出身の妃が六世紀前半に存在したことが系譜の仮冒を可能にしたのではないかと見られます。また、物部氏が帝室と深く結びついていたように、尾張氏と物部氏も婚姻による繋がりが見られますから、祖先たちの言い伝えを自分の氏にとって都合の良い形に改修した可能性は十分にあったと見られます)。

石上神宮  古事記(高倉下の部分)  PR

ところで武甕槌神と言えば、誰もがご存知のように藤原氏の氏神様であり鹿島神宮の祭神でもあります。中臣氏から出たとされる天智・持統両帝の寵臣・藤原鎌足(614~669)と、その子・不比等(659~720)が朝廷内に占めた役割の重みは、他に例えようもない程だったと思われるのですが、神武の偉業を達成たらしめたのが物部の祖神経津主ではなく、中臣氏が祀る武甕雷神だったと記す日本書紀が、誰の顔色を見ながら編集作業を進めていたのかが如実に表れている部分だと云って良いと思われます、それはさておき。武甕雷神という神格には、不透明さが付き纏います。その最も良い例が「神統譜」つまり神様たちの系図上での位置の不確かさです。先ず、上でも見た通り、この神様は春日神宮で中臣氏の祖として祀られていますが、肝心の中臣氏系譜には名前すら上げられていません。また、天照大神の子孫のために国を平定した栄光ある剱を武甕雷神は赤の他人の手に渡したのでしょうか?記紀や風土記などで良く見られる氏族の「縁起」譚に倣うなら、この場面においてこそ、

  武甕雷神は、その子孫である高倉下に韴霊を下げ渡し、神武帝の倭平定を助けた。尚、高倉下は「何々氏の遠祖」である。

と云う文言が並んでも一向に不思議ではなかったはずなのです。つまり「先代旧事本紀」が伝える『高倉下=天香語山命』が事実であったなら、記紀の神武東征記述の中で必ず取り上げられたに違いありません。(ここで、古事記が記す「大物主大神--櫛御方命--飯肩巣見命--建甕槌命--意富多多泥古」の系図が意味するものを解析すべきなのかも分かりませんが、筆者の推理は未だ回答を得るまでに至っていません)つまり、記紀が触れなかったのは尾張氏の言い分を認めず、中臣氏(藤原氏)の系譜も不明瞭にしておきたい中央の意図が働いた結果だと言えるでしょう。ところで、分かりにくい中臣氏の系譜を知る手掛かりが別の氏族の系図から得られます。それが、このサイトの主役の一人、天津彦根命です。この神様はアマテラスの子供とされる天孫一族で、後裔の三上祝家は次のような系譜を持っています(下の段は中臣氏の系図で、世代を合わせています)。

  天津彦根命--天目一箇命(天御影命)--意富伊我都命--彦伊賀津命--天夷沙比止命--川枯彦命--坂戸彦命--国忍富命--大加賀美命--鳥鳴海命
  居居登魂神(興台産霊神)--------天児屋根命---天押雲命----宇佐津臣命---大御食津臣-伊香津臣--梨迹臣---神聞勝命--国摩大鹿島

天津彦根系譜 

三上氏の系譜でゴチックにしてある「彦伊賀津命(ひこいかつ)」が世代的に見て最も神武帝と近い存在だと思われますが、その当時の天孫の直系子孫に「おおいかつ」と「ひこいかつ」の親子の名前が上げられています。ここに出てきた「いか」の意味するものについては、かつて「五十」の頁で詳しく述べてきましたが、要点だけを言うと「祖先神の五十猛神」と「雷神(いかずち)」を象徴した称号に近い特別な言葉だと考えられます。つまり「建甕槌命」のモデル原型と言っても差し支えありません。そして中臣氏の先祖たちは、天孫族で天目一箇命の流れを汲む高貴な家系との婚姻を繰り返し絆を深めたのです。

  ① 彦伊賀津命の娘・苅多祁比売命と宇佐津臣  ② 天夷沙比止命の娘・御食津媛命と大御食津臣  ③ 坂戸彦命の娘・冨炊屋媛と梨迹臣

氏族の草創期に、三度もの「嫁入り」が繰り返されたとすれば、中臣氏の子孫たちにとっても「天目一箇命--意冨伊我都命」の家系は正に同族そのものと考えられていたでしょう。そして何より重要なことは、天津彦根命の子である天目一箇命こそ剱彦(つるぎひこ)とも呼ばれ「経津主命」(フツヌシ)の神格を象徴する存在そのものだと思われる点なのです。更に、彼の兄弟神である陶津耳命(すえつみみ、天日鷲翔矢命、天日鷲命と同神)の子孫を伝える「難波田使首系譜」(上右の画像)によれば「尾張連の祖、天忍男命」と息子である「天戸目命」の親子二代に剱根命(つるぎね、葛城国造)の娘・加奈知比咩命と孫娘・葛城避比売命がそれぞれ嫁いでいるのが分かります。つまり天孫一家を含め、神武朝が生まれた二世紀後半から三世紀にかけて実力のある諸豪族はそれぞれが帝室との婚姻を重ねることで「外戚」としての存在感を強め、中でも武力と権威を兼ね備えた「剱神」「雷神」を自家の氏神の筆頭に据える事に腐心したものと想像することが出来ます。何故か古事記は経津主命について一切語りませんが、書紀は神代上第五段一書六の中で、

天津彦根命の後裔と婚姻を重ねた中臣氏

  伊弉諾尊(イザナギ)が十握剱で火神軻遇突智(かぐつち)を斬った時、経津主神の祖や武甕槌神の祖などの神々が産まれた。

と明記して弐柱の神々が元々「一体」であったと主張しています。剣神と雷神それぞれが独立したものであり「威厳」の異なる意匠であっても一向かまわないのですが、筆者の脳裏には古事記の描くアマテラスの「天岩屋戸隠れ」段に見る、次の記述から、どうしても書紀編集者の別な意図を感じてしまうのです。

  高御産巣日神の子、思金神(おもいかね)に思わしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天安河の河上の天の堅い石を取り、
  天の金山の鐡(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津痲羅(あまつまら)を求ぎて、伊斯許裡度売命(いしこりどめ)に科せて鏡を作らしめ、
  玉祖命(たまのや)に科せて、八尺の勾玉の五百津の御須痲流(みすまる)の珠を作らしめて

皇祖アマテラスを天岩屋戸から誘い出すために神々が挙って集まり、様々な神器を調度している場面に登場している「鍛人、天津痲羅」だけが何を作ったのか不明です。他の二人の神様が「鏡」と「勾玉」を作ったのですから、当然、後一人の神様はもう一つの神器「剣」を拵えたのに違い無いのですが、書紀もほぼ同様の書き方をしています。書紀の第七段本文には「中枝には八咫の鏡」の文言の後に「一に云わく、真経津鏡という」の註文を態々差し挟んでいますが、古事記が書き残した「鍛人」は無視しています。更に、話は少し飛びますが、有名な『出雲の国の造の神賀詞』と呼ばれる祝詞には、

  しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめんと、申して、
  己命の児、天の夷鳥の命布都怒志命(ふつぬし)を副えて、天降し遣わして、荒ぶる神等を撥い平け、

とあって大和平定の最も肝心な舞台に「武甕雷神」の姿は見ることが出来ません。三者三様の書きっぷりで些か混乱気味ですが、筆者は次のように推理しています。恐らく、建国神話の前段に設えられた、天照大神の岩屋戸隠れ段において名前だけが記された「天津痲羅」の実体は天目一箇命一族であり、彼らが神聖な「天の金山の鐡」で鍛え上げた剱こそ、正しく「真経津剱」=ふつのみたま、だったはずです。ところが「アマテラスとスサノオ」の二神による誓約と諸神々の誕生、そしてスサノオの天上界からの追放、葦原中国への天降りといった筋書きが案出される途上で「大和」平定の話を下敷きにしたと思われる「出雲の国譲り」神話が編み出されます。ただ「神話」とは言っても九州から日本海あるいは瀬戸内海、吉備を経由して出雲地方に進出して勢力を得た天孫族が存在していたのも事実だったのですが、アマテラスの使者である「武甕雷神」にアマテラスの子孫を討たせる訳には行きませんから、そこで「オオクニヌシ」と云う神格を作り上げ、その子供に本来「三輪族(大和の先住者)」の象徴である事代主命と建御名方命を配して悪役陣としたのです。出雲国造の祝詞が伝えようとしたのは「天の夷鳥の命」が「ふつぬし(天目一箇命)」と同じ神であり、荒ぶる神等を平らげた真の剣神そのものなのだ、と云う隠れた主張なのです。

天津麻羅の実体は「天目一箇命=フツヌシ」だった

このように書紀が意図的に「天津麻羅=天目一箇命=フツヌシ」という天孫族でもある鍛冶、金属冶金の技術に長けた一族の存在を何故隠そうとしたのか、筆者はかつて「天津彦根命と天若日子」との相似性に就いて述べた頁でも自論を主張してきましたが、神武帝の大和入り以前の早い段階で天孫族間の争いがあり、その過程で天津彦根命は亡くなったのだと推測されます。原因は不明ですが、権力闘争に敗者はつきものです。一族の間には様々な思惑が渦巻き、誰が最終的な覇者になるのかを巡っては諍いもあって然るべきです。ニギハヤヒ或いは宇摩志麻治命が神武との対立を終わらせるため舅・長髄彦を葬り去ったとする物部氏の伝承が、何よりの証でしょう。殊更に古代の神々の関係を複雑怪奇なものに変質させたのが後世の政治情勢でした。帝紀や故事の文書化が進められた七、八世紀においては、かつての豪族地図が大きく塗り替えられ、新興の藤原氏の意向が何より尊重されました。各氏族が伝えてきた伝承や系譜についても大幅な改修潤色が可能な限り行われたと見て良いと思います。また、大変複雑なことに六世紀の前半、帝室内部で応神帝の血脈を受け継ぐ継体帝が即位したことも様々な面に影響を与えました。特に、皇統に関わる部分では応神・息長氏の主張が随所に取り込まれたものと考えられます。新しい権力者が立つ度に「神々の系譜、伝承」も変貌を遂げざるを得なかったのだと言えます。

記紀が編まれた八世紀初め頃、廟堂を握っていたのは藤原氏でした。天武朝で「石上朝臣」の姓を賜った石上麻侶が亡くなったのは養老元年(717)三月のことでした。日本書紀の完成まで、後三年、彼は神代紀にある「武甕雷神が高倉下に渡した韴霊(ふつのみたま)」という記述内容を知っていたのでしょうか?

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