石上神宮が祀るスサノオの剱と吉備の関係                            「サイトの歩き方」も参照してください。

奈良のJR桜井線天理の駅を降りて真東に少し進むと国道169号に突き当たる。そして大学の広大な施設を右手に見ながら川に沿って更に東方向に歩いた辺りが布留町で、石上神宮はなだらかな丘陵の地に建立されている。境内には尾長鳥が何羽も放し飼いされており、これは「常世の長鳴鳥」でもイメージした演出なのだろうか?同社が「布都御魂」「布留御魂」そして「布都斯魂」の三柱を祀る物部氏所縁の古い社であることは良く知られていますが、これらの神々が初めから一緒に祀られていた訳ではありません。主祭神とも云うべき「布都御魂=韴霊、ふつのみたま」の由来古事については「石上神宮と物部氏」の頁で詳しく解説しましたが、今回は同社の草創期に纏わる事柄と「布都斯魂(ふつしみたま)」を巡る謎について考えてみたいと思います。(主題とは直接関係ありませんが、布留の地は別な意味で筆者の関心を惹く土地です。社からほぼ真南に約2㎞ほど下った所に東乗鞍古墳があります。全長約70mほどの方円墳で、阿蘇溶結凝灰岩・阿蘇ピンク石製の家形石棺が埋納されていました。築造時期は六世紀前半と見られており、継体帝の在位期間に相当する時期に造られたことになります。帝を大王に推した物部氏の棟梁は麁鹿火大連でした)

物部氏の伝承を明文化したと思われる『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、大和入りに抵抗した長髄彦を実力で廃した宇摩志麻治命の「大勲」を特に寵愛した神武帝が「神剣」即ち「韴魂(ふつのみたま)」を授け、それを宮中内で祀ったのが神宮の起源だと主張している訳ですが、一方、日本書紀は崇神紀の中で祭祀に関わる一連の出来事と対応について、凡そ次のように記録しています。

  1 五年、国内に疫病がひろがり、亡くなる国民が多く、人口が半減した。  六年、百姓たちの多くが自らの土地を捨ててしまい、反逆する者もあった。
  2 元々、宮中の大殿で一緒にお祀りしていた天照大神と倭国魂神を止めて、天照大神を倭の笠縫邑に遷してお祀りした。
  3 七年、大物主神の神託に従がい、茅渟縣の陶邑に居た大田田根子を探し出し、倭の大国魂神の祭い主とした。
  4 同年、物部連の祖、伊香色雄を神班物者(かみのものあかつひと)とする占いで「吉し」と出た。十一月、八十萬の群神を別に祀った。

先代旧事本紀  石上神宮 

古事記も崇神の段で、ほぼ同様の記述をしていますが、一つだけ書紀が全く触れていない内容があります。それがオオタタネコの「系譜」で、帝に「汝は誰の子か?」と問われた彼が『僕は、大物主の大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕、意富多多泥古ぞ』と答えて、他の資料には見えない独自の神統譜が存在していた事を暗示しています。(「石上神宮と物部氏」の頁でも触れた事ですが、書紀は「火神軻遇突智の条・出雲の国譲り条では武甕神」そして「神剣授受の条では武甕神」と書き分け、他方、古事記は「火神の段と出雲の国譲り段、そして神剣授受の段の何れも建御雷之男神(或いは建御雷神)」で統一されており、見方によっては二柱の神様が異なる存在として捉えられていた可能性も出てきます)崇神朝において物部氏が「神班物者」に選ばれ、群神を祀ったとある訳ですが、肝心の「神剣」を石上神宮で祀ることになったとは明記されていません。それでも、物部氏による祭祀が崇神の頃に創始されたと考えられているのは、次の垂仁朝において、皇子の五十瓊敷入彦命が「剱一千口」を石上神宮に「蔵めた」後、皇子自身が社の神宝を「主(つかさど)った」と記録され、続く註文には次の文言も並んでいるからに他なりません。

  一に云わく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上を召して、太刀一千口を作らしむ。(中略)
  その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。しこうして後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。この時に、神、乞わして言わく、
  『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』とのたまう。これ、今の、物部首らが始祖なり。

ところで「春日臣」の族「名は市河」とは明らかに米餅搗大使主命(たがねつきのおみ)の子を指していると思われますから、この註文の「一に云」は和爾氏の伝承(主張)を取り入れた(編集の過程で書き加えた)ものだと考えられます。書紀は続く「八十七年春二月」条に於いて初めて物部氏による神宮の祭祀を語ります(註:文中に出てくる物部十千根は伊香色雄命の子で、母親は天津彦根命の後裔、山代縣主の祖・長溝の娘、玉手姫です)。

  五十瓊敷命、妹、大中姫に謂りて曰く「我は老いたり。神宝を掌ること能わず。今より以後は、必ず汝主れ」と言う。
  大中姫辞びて曰さく「吾は手弱女なり。何ぞ能く天神庫に登らん」と申す。
  五十瓊敷命の曰く「神庫高しといえども、我能く神庫のために梯子を造てん。あに庫に登るに煩わんや」と言う。(中略)
  然して遂に、大中姫、物部十千根大連に授けて治めしむ。
  故、物部連等、今に至るまで、石上の神宝を治むるは、是この縁なり。

後の「斎宮」とでも呼ぶべき神職の起源譚をも記述に含めたことで、全体の語り口が些か直截さに欠ける文脈になっている憾みが強いのは、石上神宮の性格そのものの複雑さを反映したものだと推測されます。「新撰姓氏録」が採録した物部首の伝承を見るまでもなく、八世紀の当時、既に物部氏「だけの」主張を国史に反映することが不可能となっており、石上神宮の運営に関しても物部氏の独占は既に許されなくなっていたのだと思われます。壬申の乱を経て大宝律令の編纂が進められた七世紀末頃から藤原氏の台頭が取り分け顕著となり、それに反比例して物部氏が廟堂に占める重みは失われて行かざるを得ませんでした。さて、本題に移りましょう。石上を語る時、良く引用される布留宿禰の伝承(「新撰姓氏録」大和国、皇別。上右の画像)では、

布留宿禰 柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男、木事命、男、市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、布都努斯神社を石上御布瑠村高庭の地に賀ひたまう。市川臣を以て神主と為す。四世孫、額田臣武蔵臣。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首、ならびに神主首と号う。これによりて臣姓を失ひ、物部首と為る。男、正五位上日向、天武天皇の御世、社地の名に依りて、布瑠宿禰姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。

のように記されています。「木事命(こごとみこと)」を雄略朝の物部氏である布都久留大連(ふつくる)の息子・小事連に擬す研究者もあるようですが、姓氏録は明確に「米餅搗大使主命の後」の「男(子)、木事命」と「男(子)、市川臣」を並べて挙げているのですから、この「小事」は和爾氏の系譜に現れる大宅氏の祖・八腹小事であり、その兄弟の「市川」が「布都努斯神社」を布留の地に「賀」ったと読むべきでしょう。従がって、和爾氏の一門である物部首(実体は春日市川氏)が「フツヌシ」神社を創始したと述べている事になります。そして、更に問題なのが『大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り』の短い文言が含む意味合いです。先ず「フツヌシ」神社についてですが、言葉尻に拘るようですが「フツヌシ」は、飽く迄も天孫一族の崇める祖霊の尊称であり、筆者の考えでは「天津彦根命、天目一箇命(ツルギヒコ、天御影命とも同神)」を包括して指した神格そのものですから、それを海人族の和爾氏の末裔が祝い祭ることなど在り得ません。従って、これも又、帝室と深い絆で繋がっていた和爾氏の「意向」を汲んだ編者の潤色だと見てよいでしょう(市河の従姉妹二人が応神妃)。ただ、次の「倭に達(いた)り」とも関わるのですが「フツヌシ」ではなく「布都志魂(ふつしみたま)」については神宮側にも次の言い伝えが残されています。

  素戔嗚尊の蛇を斬りたまいし十握剱の名を天羽羽斬(あめのははぎり)と申す。また、蛇之麁正(おろちのあらまさ)と申す。その神気を称えて
  布都斯魂神(ふつしみたまのかみ)と申す。天羽羽斬は神代の昔より難波高津宮の御宇の五十六年に至るまで、吉備神部の許に在り、今の備前国石上の地、是なり。
  五十六年孟冬己巳朔己酉、物部首市川臣(布留連の祖)勅を奉じて、布都斯魂神社を石上振神宮高庭の地に遷し加う。
  高庭の地の底の石窟の内に天羽羽斬を以て布都御魂横刀の左坐に加え蔵む(東方となす)。

奈良県が大正三年に上梓した『大和志料』に収められた「石上神宮旧記」によれば、仁徳五十六年十月それまで備前国赤磐郡石上の地で祀られていた「素戔嗚尊の天羽羽斬=布都斯魂神」を物部首市川が「勅命」によって「振(ふる)」の高庭に遷し「石窟の内」に蔵(おさ)めたと言うもので、ここでも祭主は和爾氏の一族だったと記されています。先に見た新撰姓氏録註文にある「蘇我氏によって神主首の地位を失」ったとする証言とも合わせて、石上(振)神宮の祭祀主体は、時々の政治情勢などにより様々な変遷を遂げたと考えるのが妥当なのかも知れません。さて、残った問題は一つ「倭に達(いた)る」を、どのように解釈するのかです。WEB上で、この点に触れた資料は見当たりませんが、元々「吉備に居た市川」が神宝と共に「倭に達した=移動した」と云う見方に余り説得力はありません。何故なら、和爾氏の実質的な始祖とも云える難波根子武振熊命が、神功皇后の武将として応神以前から大和の地で勢力を得ていたのは確実だと思われるので、その孫に当る市川が吉備で生活していたとは考えられないからです。また「ヤマタノオロチ」を退治したスサノオの神剣は、天孫族の聖なる神器、つまり「蛇神を祭る」旧勢力を倒して新しい権力を誕生させた英雄の剱を海人族の手に委ねることへの違和感もぬぐえません。そこで、一つの妄想です。

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彼の父親である応神帝は、先帝の遺児を支持する勢力を実力で排除して新たな王朝を築き上げたのですが、その出自については不明な部分も残されています。只、はっきりしているのは応神が息長氏と極めて強い縁で結ばれている点で、記紀は母親に位置付けた息長帯比売命という人物に氏族像を象徴させています。筆者は、これまでの古代探索の結果、初期大和王朝の発展過程について凡そ次のような推論を得ています。

  ① 垂仁の皇子、五十瓊敷入彦命は「次代の大王」の分身、つまり景行帝と同一人と考えられる(垂仁と景行は親子では無かったかも知れない)。
  ② 景行は、その最晩年に至って都を滋賀高穴穂宮に遷したが、五十瓊敷入彦命も大和以外の地に宮を構え大量の剱を生産しているので、
     初期王権の担い手は、その権力基盤である金属資源を求めて移動を重ねていた可能性がある。これがヤマトタケルや景行の遠征譚の元ともなった。
     ヤマトタケルの妃である吉備穴戸武媛は、吉備の「穴戸=鉄鉱山」の暗喩であり、景行と同様、皇子の全国行脚も資源探査の旅であったと思われる。
  ③ 景行は吉備氏の稲日大郎女を皇后に迎えているが[媒(なかだち)したのは山直の始祖、息長命(一の名、伊志治)]仁徳の母・仲姫命も品陀真若王の娘とされ、
     応神息長の血筋を引く人物だったと見られる。
  ④ 垂仁は阿邪美津比売命(稚浅津姫命と同人?)という娘を稲背入彦命に嫁がせているが、彼が応神の父親だった可能性がある。
     九州を地盤とした建緒組命が四国を経て順次吉備方面に進出、吉備および播磨一帯に勢力圏を広げ、吉備氏ひいては帝室とも結びつきを深めた。
  ⑤ 稲背入彦命が景行の「御杖」となって各地の資源開発に能力を発揮、それが「兵主神」の原点になったと思われるが、彼が、早くから近畿大和に地盤を築いていたとしても、
     その家族、取り分け「跡継ぎ」となるホムタワケなど総領息子たちは吉備乃至は播磨の館に置いて私兵に守らせていたのではないか?(播磨の総社は兵主神社)
     若し、そのような想像が許されるのであれば、吉備の後押しを得て応神が大王の位に就いた後も、跡取りの仁徳は成人するまで大和入りしていなかった可能性も?。
     吉備の国赤磐郡は和気氏の本拠地でもあるが、その祖先は垂仁と丹波道主命の娘・渟葉田瓊入媛の子である鐸石別命(ぬでしわけ)であるとされている。
     渟葉田瓊入媛は稲背入彦命に嫁いだ「稚浅津姫命」と伯母姪の間柄なので、二つの氏族は帝室を媒介として姻戚関係にあり、上で見た「素戔嗚尊の天羽羽斬」を祭っていた
     とされる備前の石上布都魂神社は、正に、その赤磐郡石上に建てられている(時代は離れますが継体妃を出した磐衝別命=三尾氏とも系譜上姻戚になります)。
     また道鏡事件に際して、何故、多くの氏族を差し置いて和気清麻呂が選ばれたのか、その要因の一つが垂仁出自にあるのではないか?
  ⑥ 上の見方の背景の一つに纏向遺跡の建物群が「住宅」用のものらしく無い=祭祀用の物である可能性が強いといった考古学的な所見があります。つまり、
     初期の大王たちは、それぞれが居館を各地に建てて、移動する生活を送っていたのではないかと想像してみた訳です。
     また、纏向にある石塚古墳は最初期の築造と思われますが、そこから吉備系の祭祀用遺物である「弧紋円盤(こもんえんばん)」が出土しています(下右画像)。

石塚古墳  勝山古墳  矢塚古墳   弧紋円盤

以上の様な見方が的を射ているのかどうか?は別にして、岡山には全長360mという巨大な方円墳が存在しています。造山古墳(全国第四位の大きさ、旧都宇郡河面郷)の築造年代は五世紀前半と推定されますが、ほぼ同じ頃に造られた石津ケ丘古墳(履中陵)と何故かそっくりなのです。平面設計が「同じ」で、規模も殆ど「同じ」巨大古墳が吉備と河内に「同時」に造られた理由は何なのか?筆者も以前は応神帝一族を応援していた吉備の王に感謝した大王が、特別に「大王並」の古墳築造を許可したのだろうと単純に考えていたのですが、大王家そのものの後継者が五世紀には未だ吉備方面に生活拠点を持っていたとすれば、吉備で二番目の大きさを誇る作山古墳(全長286m、全国9位、総社市)の埋葬主体も倭王の一人だった可能性も出てきます。また、造山古墳から出土したと伝えられている刳り抜き式石棺(身の部分)の石材が阿蘇溶結凝灰岩(註:阿蘇ピンク石では無い)であったことも、被葬者と九州火の国との繋がりを強く印象付けます。

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