日本一のかぶき者・出雲阿国(いずも・おくに)                     サイトの歩き方」を参照してください

昔むかし、まだ、この世の中が神様たちの世界だった頃の出来事です。神様たちは天上にある高天原(たかまがはら)という処に住んでおられ、その中心は太陽のように光り輝く天照大神(あまてらすおおかみ)でした。大神は八百万の神々から尊敬される最高の神様だったのですが、ひとつだけ悩みのタネがありました。それは泣き虫のくせに乱暴者の弟スサノオの将来が案じられたからです。出来のよくないスサノオでしたが、それだけに天照大神も不憫に思い、大抵の悪戯や他の神々との揉め事には目を瞑っていたのですが、ある日、スサノオは大神の衣服を作るために機織をしていた侍女たちの部屋に動物を投げ込み、大神に捧げる大切な稲を作っている田んぼの畔を壊すなど、尋常では考えられないような悪さを立て続けに行ったのです。これには流石の大神もいたく立腹され『もう、彼の顔もみたくない。誰とも会わない』とおっしゃって、独り、大きな岩屋の中に入ってしまわれました。

太陽がいなくなった−−つまり、これは日食を文学的に表現したものである、などと生真面目に「解説」される先生も居られるようですが、それはそれとして、光の全てを失った高天原は真っ暗け、神様たちも大変お困りになり、河原に集まって相談をされました。誰が言い出しっぺだったのかは遠い遠い神代のことですから、もう知るすべもありませんが、兎も角、知恵のある神様が一つの具体的な提案をなされたのです。それは『 大神は、ご自分が隠れておられるので。八百万の神々も意気消沈しているとお考えになっている。だから、逆に、この河原で酒盛りでもして大いに騒げば大神も何事かと思われて岩屋の隅から覗かれるに違いない。 そこで、この霊験あらたかな大鏡を大神の御前に差し出すのだ。そうすれば大神は、自分と瓜二つの神様が眼の前に居られるのを怪しんで、その正体を確かめようと岩屋から出てお出でになるはずだ。 その時、岩屋の前に大注連縄で結界をお造り申し上げ、力持ちの神が岩屋の岩戸を塞いでしまう』という、誠に以って理に叶ったアイデア。早速、河原では神様たちの大宴会が始まったのです。

神様たちの大宴会。踊りの元祖は天宇受女(アメノウズメ)

長い前説になりましたが、この神々の宴会場に話しの分かる幹事が連れてきた一人の神様が天宇受女命(あめのうずめのみこと)という若い女性の神様。お酒の席に色物・歌舞音曲が必要なのは今も昔も変わりがないようで……。この女神かなり大胆な性格の持ち主であられたらしく、河原に集う神々の面前で、相当際どいパフォーマンスを熱演、その場が筋書き通りのお芝居であることを一瞬忘れた男の神々は『おーっ』とか『すごい』とか『もっとやれ』とか言いたかったのでしょうが、そこは人間なぞとは一味も二味も違う偉い神様のこと、記紀神話によれば「どっと大笑い」して何とかその場を誤魔化したのだとか…。それから何万年幾星霜、京の都に一人の踊りの天才が現れました。生まれ在所は山陰は出雲その名を「くに」と申します。

  阿国歌舞伎図(京都国立博物館・収蔵) 四条河原の景色  PR

上の画像は桃山時代、17世紀の作だとされ、阿国が『茶屋遊び』を演じている様子を描いたもので、若しかすると実際に彼女の舞台を見た人が描き残してくれた貴重な記録かも知れません。この部分図では良くわかりませんが、阿国「歌舞伎」とは言っても後の歌舞伎とは違い、お囃子・三味線などの伴奏はなく、ただ笛・太鼓に合わせて阿国が踊るだけの演出でした。しかし、彼女の面白いところは、ただ単に踊りを披露したのではなく、この画像でもはっきり解るとおり『武家』の扮装、つまり女のお国が男装をして、茶屋の女と戯れる様子を「演じ」て見せたのです。これが、当時の都人から「傾く」(かぶく=常識離れしている。突拍子もない)女として大好評を得、この「かぶく・かぶき」から歌舞伎の名称もうまれた、とされているのです。

ややこ踊り」から「かぶく」女へと華麗な変身を遂げる

ところで、この阿国さん、出雲は大社の生まれ。十六世紀後半、大社の中村という土地に住む加治屋さん、三右衛門の娘として産声をあげたと伝えられていますが、例によって生年没年ともに確かではありません。また、生まれ故郷についても京都出身とするものや奈良ではないかと推理するものまで様々なのですが、歴史的資料として一応の評価が定まっている、当時のお公家さん・西洞院時慶(にしのとういん・ときよし)の日記、『時慶卿記』慶長五年(1600)七月一日の条には、

    近衛殿のお屋敷で、晩まで出雲のややこ踊りがあった。一人はクニという踊り子だった。

との記述が残され、少なくとも、この頃までに「クニの生国は出雲」という風評が出来上がっていたものと思われます。(或いは、一座の誰かがそのように喧伝していたのかも知れません)また、これより以前の記録としては、

    1582年、奈良の春日大社で幼い子供二人がややこ踊りを踊った

という記述が『多聞院日記』(奈良興福寺・多聞院の院主だった多聞院英俊[1528〜1596?]など複数の著述による桃山時代の長期資料、全46冊)に残されており、他の資料などを総合して推理すると「阿国たち十人ほどの旅芸人一座」は「出雲大社の本殿修理費を勧進するため(寄付金を集めるため)」という名目で諸国を歩き回り、1600年頃には京都にのぼって院の御所や宮中などでも踊りを披露していたと考えられるようです。ただ、どの記述を見てもクニたちの踊りは「ややこ踊り」(幼い子供の踊り)と紹介されていますから、少し後、都で爆発的な人気を博した「かぶき踊り」とは別様のものだったに違いありません。(これとは別の資料では『多聞院日記』には、奈良の春日大社・若宮拝殿で「法楽」と称して踊りを演じていた女芸人は「加賀の国出身」の二人、だと記されているとあります。どちらの資料が正しい内容を伝えているのか、現物資料を見ていませんので?判断保留としておきます)

       大社詣で  古都の鹿   

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それから僅か3年後の慶長八年五月初旬、京都の四条河原に小屋をかけた出雲阿国は、上の画像でみた様な男装をして颯爽と舞台に現れ、女装させた男を相手に「かぶき踊り」を派手に演じ、大向こうをうならせ、大衆の心を虜にしたのです。ほぼ同じ頃、阿国一座は女院の御所へも伺候したらしく、舟橋秀賢(ふなはし・ひでたか、1575〜1614)という武家の日記にも『女院において、かぶきをどりこれあり、出雲の国の人』との記述が残されています。この鮮やかな変身振りについて、絶世の美男子で槍の名人して都でも有名であった名古屋山三郎(なごや・さんざぶろう、1572?〜1603)が阿国の踊りを演出し、競演した、との俗説が根強くありますが、一度浪人していた彼は慶長五年(1600)妹の縁から美濃国の森忠政の家臣となった後、奇しくも阿国がかぶき踊りを始めた1カ月余り前の慶長八年四月、築城工事の方法をめぐり、かねてから犬猿の仲であった同僚の井戸宇右衛門と私闘に及び、相討ちとなって死去していますから、二人が揃って四条河原で舞い踊る風景は幻想に過ぎません。ただ、阿国が「男の姿」に変身し、自らが山三郎になったつもりで演技をした、という想像には捨てがたいものがあります…。

出雲の阿国が本当に出雲の人であったのか、巫女さんであったのか、それは分かりません。冒頭でも述べましたが、踊り・舞というものが本来「神に捧げる」ものであったとするなら、阿国は、その舞踊りを「庶民を楽しませる芸能」に昇華させ、自らも劇中の創作人物に変身し、役柄を演ずることによって何事かを表現しようとした日本一の傾き者だった、と言えるでしょう。そこで浮ぶ素朴な疑問は、1582年に春日神社で目撃された人物は、1603年に「かぶき」を踊った阿国の若き日の姿だったのか、二人は同一人物なのか?1600年にも阿国は「ややこ踊り」を踊っていたらしいが、三十歳にもなった大の大人の踊りを果して「ややこ」踊りと言うものなのか?という事です。

阿国が踊ったかも知れない春日大社   遷宮を終えた出雲大社の社殿

それはさておき、阿国が「かぶき」の元祖・本家だとしても、そのお手本となるような歴史上の人物が何処かに居ないものか、と妄想を逞しくしたとき、一人の男の名が浮かび上がりました。そのお話しは、別の機会(小説「阿国が誕生した日」)にゆずることとして、今回はお開きといたします。

   
   
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